狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

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第75章 出世八百つる

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 駿河台狩野家の二代目・洞春福信は、彼の持つ柳沢家の情報を提供することを承知した。ただし、条件付きである。

 女性問題の解決に手を貸して欲しい、とのことだ。洞春は如何にも真面目そうな男で意外に思ったが、聞けば、彼自身のことではなかった。

 洞春の話では、主筋とも言える鍛冶橋家の跡取り・探船章信(狩野探幽の孫)が千住の宿場女郎と懇ろになった。しかも、七つも上の女に対し、身請けして妻に迎える。出来なければ心中しようと言い、起請文まで書いてしまった。
 当たり前だが、正気に戻って怖くなった。親には話せない。家中の者にも相談しにくい。そこで、赤子の時分から世話になっている洞春に泣き付いたのだ。洞春は手切れ金として十両の金子を用意して千住に赴いたが、女には会えず、代わりに登場したやくざ風の男に十倍の金額を要求された、という経緯である。

「それって、美人局では?」と竜之進。
「だろうな。しかし、鍛冶橋の若様は遊び好きですか」と吉之助。
「とんでもない。本来はそういう御方ではない。真っ直ぐなよい若君です」
「お歳は?」
「十七になられたばかり。未熟なのです、何事にも」
「なるほど」
「それで、美人局ということは、男女二人組ですか」
「中心は。ただ、悪そうな仲間三、四人が一緒です。私では手に負えません。かと言って、奉行所などに頼めば家名に瑕が・・・」

 吉之助は一度頷いて、竜之進の方を見た。
「どうかね?」
「最大で六人ですか。さすがに女を斬るのは気が引けるなぁ。五人にしときましょう。私が三人引き受けますよ」

 二人のやり取りを聞き洞春が顔色を変える。
「あ、あの、斬る、とは?」
「文字通りの意味ですが、それをお求めなのでしょう?」と、竜之進が首を傾げた。
「い、いや、ちょっと脅して起請文を取り戻してくれさえすれば、それでよいのです」

「はっははは、吉之助さん、駄目だ。近頃我々は発想が物騒になってますよ」
「そうだな。気を付けねばな。しかし、大丈夫ですか。その手の輩は、食べ物にたかる蝿と同じで、一度払ってもまた来ますよ」
「起請文さえ取り戻してしまえば、後はこちらで」
「分かりました」

「よろしくお願いします」と畳に丁寧に手を付いた洞春。頭頂部が丸見えだ。吉之助は久しぶりに御用絵師の世界に足を踏み入れたような気がした。
「駿河台家は今でも鍛冶橋のために尽くしているのですね。何か、安心しました。それはともかく、洞春殿。ご承知と思いますが、今日のことは他言無用で願います」

 話が終わり、店の前で洞春の背を見送っていると、横から竜之進が言ってきた。
「造営責任者の江戸家老に変化はなし。一方、屋敷内の雰囲気には最近少し尖ったものを感じる、か。この程度の情報と引き換えに千住まで? ちょっと損した気分だなぁ」
「そう言うなよ」
「どうします? 明日出直しますか」
「いや、このまま行ってしまおう。千住なら夕方には着くだろう。真っ昼間にやる案件でもないしな」
「確かに」

 すると、不意に背後から声を掛けられた。
「失礼ですが、狩野様と島田様ではございませんか」
「そうだが?」
「あ、あの、お忘れですか。鉄砲洲の八百屋の、おつるの夫の新吉でございます」

「おお、あの時の」と吉之助。

 おつると新吉は、高級旗本・大久保家の母子に命を狙われた元遊女とその夫である。二人の警護は吉之助と竜之進にとって江戸に来て間もなくの任務であったから、ひどく懐かしい。

 竜之進が、丁稚らしき子供を従え安手ながら羽織まで着た新吉を見て言う。
「随分と立派になったな。八百屋はやめたのか。どこかの手代にでも納まったか」

「いえ、今でもしっかり八百屋です。ただ、お陰様で店が繁盛しまして、振り売りは若い者に任せ、あっしはお得意様回りに専念しております」

「では、店も移ったのか」と吉之助。
「はい。同じ鉄砲洲の内ですが、表通りに店を構えることが出来ました」
「それは凄い。何か工夫でも?」
「いえ、変なことはしておりません。新鮮な野菜を安く売る。それだけです。ただ、そのために、農家から直接買い入れる量を増やしてみたのです。他に、一部を、すぐに料理に使えるよう、切ったり下茹でしたりして売ってみました。これが料亭やお武家様のお屋敷なんかで好評でして」
「ほう」
「全てはおつるの考えなんでございます。あっしは言われた通りに動いているだけで」
「いやぁ、賢妻が存分に腕を振るえるのも夫の器量あってのことだ。二人の手柄だよ」
「恐れ入ります」

 そこで竜之進がポンとひとつ手を打った。
「そうだ。そなた今、武家も相手にしていると言ったが、大名屋敷への出入りはあるのか」
「はあ。いずれも中屋敷か下屋敷ですが、いくつかのお屋敷で商いさせていただいております」
「例えば?」
「そうですな。鉄砲洲のすぐ近くの細川様と蜂須賀様の下屋敷、あと、少し離れますが、柳沢様の中屋敷にも・・・」

「川越藩か!」と、吉之助が思わず大きな声を出した。
「は、はい」
「いや、驚かせてすまん。天下の執政・柳沢出羽守様のお屋敷にまで出入りしているとは、立派なものだと思ってな」
「ありがたいことです。柳沢様はご定府ですから、江戸にいるご家臣は、皆様、中屋敷の御長屋でご家族とお住まいです。お陰でいい商いをさせていただいております。ただ・・・」

「何かな?」
「はい。二ヶ月ほど前からですが、ご注文の量が半減しているのです。ご家臣の家族の方々がお国元に帰っているようで。川越で何か大きな催しでもあるのでしょうか」
「なるほど、気になるな。しかし、大名の家というのは色々あるものだ。下手に詮索して不興を買ってもつまらん。放っておくがいいさ」
「はい」

 深々と頭を下げ、新吉が丁稚を連れて去って行く。
「表通りに店をねぇ。我らは今も長屋住まい。先を越されてますよ」と竜之進。

「はっははは、まったくだ。それはそうと、新吉の言ったこと、どう思う?」
「御用絵師の話より余程具体性がある。理由も相手も分かりませんが、警戒態勢、いや、臨戦態勢かな。間違いなく何かありますね」
「そうだな」
「あっ」
「何だ?」
「そう言えば、先日道場で誰かが言ってましたよ。出羽守様は最近腰痛がひどく、介添えがなければ歩行も困難だと」
「待て。出羽守様が腰痛持ちなどと、聞いたことがないぞ」
「ええ。ですから、またしょうもない噂だろうと聞き流していました。しかし、城内で護衛を付けるための口実では?」

 将軍の本拠である江戸城内では大名と雖も単独行動が原則。それは幕府の役職にある大名も同様である。執務の補佐は幕府の官僚(幕臣)が行うので、自身の家臣は玄関近くの控えの間で待たせておく決まりだ。ただし、健康上の理由がある場合に限り、届出をすれば家臣による介添えが許された。

「城内で一人になりたくない。それだけ身辺に危険を感じているということか」
「あっ、そうだ」
「他に何か」
「いや、忘れてましたよ。御新造さんに頼んでおいて下さい。美咲におつるの大根の葉の漬け方を伝授するようにと」
「はは、そっちか。さて、戻ろう。いや、千住だったな。行くぞ」

 その後、吉之助と竜之進が美人局の一党を軽くひねって浜屋敷に帰還したとき、すでに夜中の四つ(ほぼ午後十時)を過ぎていた。

 欲していた情報は伝手を頼って接触した洞春福信からではなく、偶然出会った旧知の八百屋から得た吉之助。しかし、洞春との出会いも、後のことを考えれば、決して無駄ではなかったのである。
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