狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

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第73章 瑤泉院の嘆願

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 元禄十六年(一七〇三年)一月下旬の昼下がり、京橋の料亭・手嶌屋。その奥座敷のさらに奥の部屋。最高級の布団にくるまれた一組の男女。男はひと合戦終えて気だるそうにしていたが、底なしの色気を湛えた桃花眼に見つめられ、彼女の真っ白い肢体を再び抱き寄せた。さらに四半時(三十分)。

「さすがにお戻りなりませんと、騒ぎになりますわよ。さ、お放し下さいませ。御髪を直して差し上げましょう」
「そなたの指は、なぜこうも細く白い? 奥などとは、同じ女子とは思えぬ」

「ふふふ。それにしても、甲府公の六義園視察、残念でございました。上様と桂昌院様が嫌う甲府公と邪魔な出羽守を同時に葬れるよい策と思ったのですが」
「まったくだ。赤穂の痩せ浪人どもめ、余計なことを。しかし、柳沢の奴、上様のご命令を伝えたときは、この世の終わりという面をしておったな。溜飲が下がったぞ」
「ふふふ。もはや出羽守など、あなた様の敵ではございませんわ」

「ふむ。問題は上様じゃ。ご様子は?」
「はい。お旗本が浪人に襲われ、お膝元が血で汚されたのです。ご不快は当然のこと。しかも、世間はこぞって赤穂びいき。この頃は床に就かれても、夜中、何度もお目覚めに。わたくしまで寝不足ですわ。上様は天下の主、お気晴らしに、不逞浪人などは全員磔獄門、親類縁者も打ち首にしてしまえばよいのです」

「そうだな。上様のご意思として月番老中に伝えておこう。しかし、あれ以来、出羽守も警戒しておる。素直に従うだろうか」
「お気の弱いことを。桂昌院様は元々出羽守を信用しておりません。血縁に然るべき人材がおらず、仕方なく使ってきたまでのこと。されど、今は豊後守様がおられます。御両所とも、期待しておられますわ。そこでわたくし、昨日、桂昌院様に申し上げたのですよ」
「何を?」
「上様をよりしっかりとお支えするため、是非、豊後守様に松平姓を賜りますように、と」
「ま、誠か」
「はい。ちょうどよい機会。浪人どもの監督責任を問い、浅野の本家も潰してしまっては如何? あそこは確か三十万石。松平姓と三十万石が手に入れば、豊後守様は、出羽守をも超える天下の執権となれましょう」

「うぅむ。大奥創設以来、そなたほどの美貌と才知を兼ね備えた女子はおるまい。上様も桂昌院様もご体調優れぬ今、そなたの如き忠義者がお側に仕えていることこそ幸い。お二人の厚い信仰心の賜物、御仏のご加護に違いない」

 側用人・本庄豊後守は名残惜しそうに何度も振り返りながら去って行った。一人残った大典侍局が表情を変える。
「はっははは、仏の加護だと? 何と能天気な。まあ、ご期待に応えて、いずれ二人ともあたしが引導渡してやるよ。おぉい、赤兵衛。酒持って来な。あと、風呂だ。体中舐め回しやがって、気持ち悪くていけない」

 その数日後、一月末のことである。芝増上寺の書院で甲府藩主の正室・近衛熙子が休息中。狩野吉之助は警護責任者として庭に面した廊下で控えていた。

 そこに熙子の側近・平松時子が一人の女性を連れて戻ってきた。見覚えのあるその人は、三十路前にもかかわらず、艶のある黒髪を肩の線で切り揃え後ろで束ねている。所謂、切り下げ髪というヘアスタイルだ。

「御前様にはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」
「おお、亜久里殿か。久しぶりじゃな。そうでした。落飾して名を変えたのでしたね。確か、寿昌院?」
「いえ、初めはそう名乗ったのですが、思えば、わたくし如きが桂昌院様と同じ字を用いるのは恐れ多く、瑤泉院と改めました」
「そう。しかし、将軍や御台所ならいざ知らず、庶民の出の生母にまで遠慮せねばならぬとは、気苦労の多いことよ」
「恐れ入り奉ります」

「それで、わたくしに何の用かしら?」
「はい。過日、吉良様のお屋敷に討ち入った旧藩士の家族の助命について、御前様にお縋りしたく・・・」

 そこで熙子が手にしていた扇子で、はっしと畳を打った。
「黙れ。赤穂浅野家はもうない。そなたと連中は無関係ではないか」
「されど、あの者たちは、夫・内匠頭の無念を・・・」

「黙れと言っておる。狩野。吉良方の被害はどうであったか。そこで申せ」

 吉之助は油断した。寛永寺と並ぶ将軍家の菩提寺・増上寺。その書院の前庭は、白砂を敷き詰め砂紋を直線に引いただけの、清浄さと威厳に満ちた空間。つい絵師の目で見入ってしまっていた。
 吉之助は驚いて腰を浮かしかけたが、室内には貴婦人のみ。そのことに気付き、障子の陰に隠れたままで答えた。

「はっ。上野介様を含め死者十五名、負傷者二十数名と聞き及びます」

「聞いたであろう。それだけのことをしたのです。親族の連座くらい、覚悟の上でしょう」
「されど、聞くところによれば、幼い子供や女子までも極刑に処すと・・・」
「止めよ。それ以上申せば、そなた自身はもとより、そなたの実家や浅野本家もただでは済まぬぞ」

 瑤泉院が肩を落とす。しかし、彼女は自らを励ますように少し膝を進ませた。
「重々承知しております。されど、見過ごしには出来ません。彼等は家臣として期待以上のことをしてくれました。夫・内匠頭がすでにこの世にない以上、わたくしが夫に代わって主としての責務を果たさねばならないのでございます。わたくしの身はどうなろうと構いません。どうか、御前様から中納言様にお取り成しを。何とぞ、何とぞ」

「そなた、お人好しにも程がある。そなたの如き賢き女子が、男どもの愚行に振り回されて。誠にもって腹立たしい。わたくしはそなたを買っていたのです。いずれわたくしが大奥の主となった暁には、そなたを外様の奥方衆のまとめ役として・・・」

 熙子が座る上段からも、これ以上ないシンプルな枯山水の庭がよく見えた。その前で、瑤泉院が頭を深々と下げている。髪を短くしてしまっているせいで、首から肩の線が丸見えだ。随分と痩せたように思え、熙子は小さくため息を吐いた。

「もうよい。分かりました。殿には、わたくしから申し上げておこう」
「ありがとう存じます。心から、心から感謝いたします」

 熙子が時子に小さく合図を出す。下がらせろ、ということだ。しかし、瑤泉院が立ち上がり、背を向けて二、三歩進んだところで、熙子が止めた。

「そうじゃ。忘れるところでした。ひとつよいか」

 慌てて振り返った瑤泉院がその場で平伏した。
「はい。何なりと」
「そなた先ほど、聞くところによれば、と申したな。どこで聞いたことなのですか」

「はい。実家の家臣が、御側用人・本庄豊後守様の周囲で聞き込んで参りました。養父(瑤泉院の従兄で備後三次藩二代目藩主・浅野長照)の話では、最近、公方様のご意向やご様子について、柳沢出羽守様の周辺からは有益な情報が得られないとのことでございます」

 玄関まで瑤泉院を見送った時子が戻ってきた。熙子が軽く睨む。
「なぜあの者を通したのじゃ?」
「されど、追い返せば追い返したで、姫様はお怒りになりましょう?」
「それはそうじゃが・・・」
「はいはい。ご機嫌を直されませ。それ、姫様に新しいお茶を。用意の菓子も一緒に持って参れ」

 部屋の隅に控えていた侍女たちが出て行くと、熙子が廊下に向かって言った。
「狩野、そこに居ますか。顔を見せなさい」
「はっ」
 吉之助は廊下に身を置いたまま、少し横にずれて障子戸の陰から出た。

「そなた、先程の亜久里の言葉、どう取った?」
「はっ。思いますに、あ、いえ、何の証拠もない当て推量ですので、ご容赦を」
「構いません。言いなさい」

「それでは申し上げます。一心同体と思われていた公方様と出羽守様の関係に変化が起きているのではないでしょうか。そう考えると、六義園視察の件も納得がいきます」

「もそっと詳しく」
「はい。あの謀略が成功し、殿のお命を縮め参らせたとして、その後はどうなりましょうか。御三家や譜代衆が黙っているはずがありません。公方様はともかく、出羽守様は老中職返上くらいで済むとは思えません。よくて改易、下手をすれば切腹。間部様の表現をお借りするならば、出羽守様らしくないやり方です。では、公方様が主導なさったのでしょうか。だとすれば・・・」

「何です?」
「その、まるで、一兵卒を使い捨てるが如き・・・」

「うむ。もはや、綱吉殿にとって出羽守はその程度の存在ということですか」
「あくまで推測でございます」
「狩野」
「はっ」
「出羽守の周囲を探りなさい。ここが本当の勝負所かもしれぬ。些細なことも見逃さぬように。何か分かれば時子に報告を。殿にはわたくしからお伝えします」
「かしこまりました」

 その時、そよ風がシャボンのような甘い香りを運んできた。塀の向こうに蝋梅の木でも植えてあるのだろう。元禄十六年(一七〇三年)の春近し。そして、時代の大きな転換点もまた、すぐそこまで来ていた。
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