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第72章 おりんと探幽縮図
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「きゃあああぁぁぁ!」
深夜の叫び声に吉之助と志乃の夫婦は跳び起きた。志乃が隣室に駆け込む。
「悪い夢を見たそうです。わたくし、今夜はあちらでおりんと一緒に寝ることにします」
「そうか。頼んだぞ」
元赤穂藩士の浪人集団の夜襲により、吉良家の隠居・吉良義央が殺害された。さらに吉良家では死者十四名、負傷者二十数名を出した。吉之助とおりんが見知った者では、家老の小林平八郎と近習の斎藤某が戦死している。
現当主・左兵衛義周も重傷を負った。
左兵衛この時十八歳。奥の寝所で一人眠っていたが、敵襲と知るや、寝巻のまま部屋を飛び出した。そして、狼狽える家臣たちを励まし、自ら薙刀を振るって奮戦。しかし、乱戦の中、敵の刃が彼の黒子ひとつない綺麗な顔を斬り裂いた。さらに背後からも斬り付けられ、気を失って倒れたのである。
左兵衛が意識を取り戻したとき、事は終わっていた。彼は救援に駆け付けた旗本津軽家の家臣に介抱されながら大目付に宛てた訴状を書き上げ、即日提出。その後は神妙に公儀の裁きを待つ姿勢を取った。
事件当日の夕方、自宅に戻った吉之助は、そこまでの事情をおりんに話した。彼女は終始静かに聞いていた。そして、黙って食事を済ませ、黙って寝た。やはり強がっていただけのようだ。
翌朝、吉之助が起きると、おりんはすでに向かいの工房部屋で絵筆を握っていた。志乃と話し、しばらく触らずにおく。
その後、世間では事件の評価や浪人たちの処分について議論百出し、大いに騒がしい。しかし、吉之助を含む甲府藩の面々はそれどころではない。六義園視察の謀略は未発に終わったが、将軍綱吉が網豊の排除を決めたとすれば、再び仕掛けてくる可能性は高い。急ぎ対策を講じなければならない。
吉之助は、数日後の昼過ぎ、間部たちとの会議の合間に一度御長屋に戻った。ついでに向かいの工房部屋を覗くと、やはりおりんが絵筆を持って白い紙に向っていた。
「熱心だな。何を描いている?」
彼女は返事もせずに筆を動かし続ける。何か模写しているようだ。見れば、床に小振りの掛け軸が広げられていた。吉之助はそれを見て一驚した。
「こ、これは、探幽様の、探幽縮図ではないか。写しか。いや、待て。これは真筆だ」
「・・・」
「おりん、これをどこで?」
「左兵衛様が貸してくれたんだ」
「なに? いつ?」
「最後にお屋敷に行ったとき。これを見て練習しなさいって。そんなに大変な物なの?」
「当たり前だ。値千金、大名が家宝にしてもおかしくない代物だぞ」
探幽縮図とは、江戸画壇の覇者・狩野探幽が日々の練習として描いたスケッチの類や、鑑定を依頼された古画を模写し、コメント付きで記録したものの総称である。探幽の死後、直系の鍛冶橋狩野家が帳面にして保管しているが、一部、形見分けとして懇意の大名などに贈られた。その面白さと希少性から、好事家の間で珍重されている。
おりんが模写しているのは、唐の詩人・李白が滝を眺めている場面だ。特徴だけ捉えた簡単な描写の多い探幽縮図にあって、この作品はかなりしっかり描かれている。茶掛け用に軸装されているが、その趣味も甚だよい。
「困ったな。どうやって返す? 今や吉良様のお屋敷には近付くことすら出来ない」
真夜中、隣室の物音で吉之助は目を覚ました。何事かと確かめに出ると、おりんが小包を抱えて戸を開けようとしていた。
「どこへ行く、こんな夜中に?」
「あっ、先生。これ、左兵衛様に返してくるよ」
「お前は馬鹿か。前にも言っただろ。武家屋敷はお城の出丸も一緒だと。夜中に忍び込むなどもっての外だ」
「・・・」
黙って睨まれた。納得していないことは一目瞭然である。
「はぁ、困った奴だ。出来る限りのことはする。だから、少し時間をくれ。とにかく、今夜は寝床に戻りなさい」
年が明け、元禄十六年(一七〇三年)となった。幕府は、襲撃を受けた側の吉良家を改易、当主の左兵衛義周を高島藩にお預け処分にすると発表した。
公儀の罪人となった左兵衛は、直ちに同じ本所の高島藩下屋敷に移された。同藩の領地は信濃(長野県)の諏訪一帯である。近日中にその地に用意される配所に送られるとのことだ。
吉之助はまず、高島藩の御用絵師について調べた。
この時代、各藩の御用絵師はほぼ狩野派で占められ、中橋狩野家(宗家)、鍛冶橋狩野家(探幽直系)、竹川町狩野家(吉之助の実家)のいずれかの系列に属していた。
幸い、高島藩の御用絵師は中橋家初代である母方の祖父・狩野安信の門下であった。おりんの指導を頼んでいる町絵師・伊藤文竹の兄弟子に当たる。吉之助は文竹の工房がある高輪に足を向けた。
文竹の工房は、向かいの読売の版元ともども活気に満ちていた。奥に通され、弟子や職人たちの働く姿を眺めながら待っていると、狸顔の文竹がやって来た。
「お待たせしました。狩野様、お久しぶりです」
「忙しそうですな。商売繁盛で結構なことだ」
「ないよりはあった方がいいのが仕事です。仕事がなければ職人の給金も払えませんから」
幕府や諸藩の御用絵師なら仕事は上から降って来る。たとえ技術や性格に問題があっても、代々の家禄がある。生活に困ることはない。しかし、町絵師は違う。自分で稼がねば一文も入ってこない。しかも文竹の場合、自ら画塾・工房まで構えているから、その維持費を捻出しなければならない。相当な才覚が必要であろう。
「確かに。やはり、赤穂浪人の件ですか」
「ええ、大変な評判です。風神堂さんも次から次へと新版を出して。しかも出す端から売れて行く。赤穂義士さまさまですよ」
「ぎし?」
「ええ。忠義の士と書いて義士。初めは浪人としていましたが、それが浪士になり、今では義士です」
「やはり、町衆は赤穂びいきですか」
「さあ、どうでしょうか。どっちでもいいんですよ、面白ければ。みんな、騒ぎたいだけなんです。娯楽に飢えてるんですな」
「しかし、あれを義士とは。ご府内であの様な狼藉を・・・」
「お武家の感覚ではそうでしょうな。それでも、大したものだと思いませんか。さっと討ち入って、さっと首を取って、さっと引き上げちまった。あの水際立った仕方は、江戸っ子好みですよ。まあ、乱闘の最中、火でも出して周囲に迷惑をかけていればまた違ったと思いますが・・・」
「なるほど、参考になった。あっ、いや、今日はそんなことではなかった。これを見ていただきたい」
吉之助が文竹の前に吉良家所蔵の探幽縮図を広げると、彼は押し黙り、俄かに鋭い目つきとなった。
「うぅん、この軽やかな筆さばき、いいですなぁ。眼福眼福」
「これを所有者に返さねばなりません。そこで、高島藩の御用絵師に顔つなぎをお願いしたい」
「驚きました。よくここまで来られましたね」
相変わらずの色白で整った顔立ち、穏やかな微笑。しかし、右頬から耳の下まで伸びる刀傷が痛々しい。
「左兵衛様、この度は誠に・・・」
「いや、やめましょう」と言うと、左兵衛が廊下の方を見た。監視役の高島藩士が控えている。吉之助も、やり取りは用件のみ、私語は厳禁と釘を刺されていた。
「これをお返しいたします。修行中の弟子にとり、何よりの教材でした。ありがとうございました」
吉之助は深々と頭を下げ、探幽縮図が納められた桐箱を左兵衛の前に押し出した。
「お役に立てたなら、何よりです」
「では、これにて」
吉之助が立ち上がる。吉之助の弟子として部屋の片隅に控えていたおりんも立った。吉之助の後に続く。しかし、部屋を出る寸前、彼女は堪らず振り返った。
「さ、左兵衛様。何か必要なものがあれば、わたくしが・・・」
左兵衛は何も言わず、静かに首を横に振った。
「こら、言葉を交わしてはならぬ!」
おりんがその侍を睨み付けた。吉之助が慌てて彼女の袖を引く。ここで騒げば、左兵衛の立場を悪くするだけだ。おりんは血が出んばかりに唇を噛み、もう一度左兵衛に目を向ける。しかし、左兵衛はただ前を向き、おりんと目を合わせることはなかった。
そして、追い立てられるように高島藩下屋敷を出てしばらく歩いていると、おりんが背中に小さく言ってきた。
「先生、ありがとう」
「ああ」
吉之助は振り返らない。振り返らずとも、おりんが泣いていることは知れている。彼女の涙を見て、もらい泣きを我慢する自信はなかった。どんより曇った空の下、冷たい北風に背を押されながら、二人は浜屋敷に帰って行った。
深夜の叫び声に吉之助と志乃の夫婦は跳び起きた。志乃が隣室に駆け込む。
「悪い夢を見たそうです。わたくし、今夜はあちらでおりんと一緒に寝ることにします」
「そうか。頼んだぞ」
元赤穂藩士の浪人集団の夜襲により、吉良家の隠居・吉良義央が殺害された。さらに吉良家では死者十四名、負傷者二十数名を出した。吉之助とおりんが見知った者では、家老の小林平八郎と近習の斎藤某が戦死している。
現当主・左兵衛義周も重傷を負った。
左兵衛この時十八歳。奥の寝所で一人眠っていたが、敵襲と知るや、寝巻のまま部屋を飛び出した。そして、狼狽える家臣たちを励まし、自ら薙刀を振るって奮戦。しかし、乱戦の中、敵の刃が彼の黒子ひとつない綺麗な顔を斬り裂いた。さらに背後からも斬り付けられ、気を失って倒れたのである。
左兵衛が意識を取り戻したとき、事は終わっていた。彼は救援に駆け付けた旗本津軽家の家臣に介抱されながら大目付に宛てた訴状を書き上げ、即日提出。その後は神妙に公儀の裁きを待つ姿勢を取った。
事件当日の夕方、自宅に戻った吉之助は、そこまでの事情をおりんに話した。彼女は終始静かに聞いていた。そして、黙って食事を済ませ、黙って寝た。やはり強がっていただけのようだ。
翌朝、吉之助が起きると、おりんはすでに向かいの工房部屋で絵筆を握っていた。志乃と話し、しばらく触らずにおく。
その後、世間では事件の評価や浪人たちの処分について議論百出し、大いに騒がしい。しかし、吉之助を含む甲府藩の面々はそれどころではない。六義園視察の謀略は未発に終わったが、将軍綱吉が網豊の排除を決めたとすれば、再び仕掛けてくる可能性は高い。急ぎ対策を講じなければならない。
吉之助は、数日後の昼過ぎ、間部たちとの会議の合間に一度御長屋に戻った。ついでに向かいの工房部屋を覗くと、やはりおりんが絵筆を持って白い紙に向っていた。
「熱心だな。何を描いている?」
彼女は返事もせずに筆を動かし続ける。何か模写しているようだ。見れば、床に小振りの掛け軸が広げられていた。吉之助はそれを見て一驚した。
「こ、これは、探幽様の、探幽縮図ではないか。写しか。いや、待て。これは真筆だ」
「・・・」
「おりん、これをどこで?」
「左兵衛様が貸してくれたんだ」
「なに? いつ?」
「最後にお屋敷に行ったとき。これを見て練習しなさいって。そんなに大変な物なの?」
「当たり前だ。値千金、大名が家宝にしてもおかしくない代物だぞ」
探幽縮図とは、江戸画壇の覇者・狩野探幽が日々の練習として描いたスケッチの類や、鑑定を依頼された古画を模写し、コメント付きで記録したものの総称である。探幽の死後、直系の鍛冶橋狩野家が帳面にして保管しているが、一部、形見分けとして懇意の大名などに贈られた。その面白さと希少性から、好事家の間で珍重されている。
おりんが模写しているのは、唐の詩人・李白が滝を眺めている場面だ。特徴だけ捉えた簡単な描写の多い探幽縮図にあって、この作品はかなりしっかり描かれている。茶掛け用に軸装されているが、その趣味も甚だよい。
「困ったな。どうやって返す? 今や吉良様のお屋敷には近付くことすら出来ない」
真夜中、隣室の物音で吉之助は目を覚ました。何事かと確かめに出ると、おりんが小包を抱えて戸を開けようとしていた。
「どこへ行く、こんな夜中に?」
「あっ、先生。これ、左兵衛様に返してくるよ」
「お前は馬鹿か。前にも言っただろ。武家屋敷はお城の出丸も一緒だと。夜中に忍び込むなどもっての外だ」
「・・・」
黙って睨まれた。納得していないことは一目瞭然である。
「はぁ、困った奴だ。出来る限りのことはする。だから、少し時間をくれ。とにかく、今夜は寝床に戻りなさい」
年が明け、元禄十六年(一七〇三年)となった。幕府は、襲撃を受けた側の吉良家を改易、当主の左兵衛義周を高島藩にお預け処分にすると発表した。
公儀の罪人となった左兵衛は、直ちに同じ本所の高島藩下屋敷に移された。同藩の領地は信濃(長野県)の諏訪一帯である。近日中にその地に用意される配所に送られるとのことだ。
吉之助はまず、高島藩の御用絵師について調べた。
この時代、各藩の御用絵師はほぼ狩野派で占められ、中橋狩野家(宗家)、鍛冶橋狩野家(探幽直系)、竹川町狩野家(吉之助の実家)のいずれかの系列に属していた。
幸い、高島藩の御用絵師は中橋家初代である母方の祖父・狩野安信の門下であった。おりんの指導を頼んでいる町絵師・伊藤文竹の兄弟子に当たる。吉之助は文竹の工房がある高輪に足を向けた。
文竹の工房は、向かいの読売の版元ともども活気に満ちていた。奥に通され、弟子や職人たちの働く姿を眺めながら待っていると、狸顔の文竹がやって来た。
「お待たせしました。狩野様、お久しぶりです」
「忙しそうですな。商売繁盛で結構なことだ」
「ないよりはあった方がいいのが仕事です。仕事がなければ職人の給金も払えませんから」
幕府や諸藩の御用絵師なら仕事は上から降って来る。たとえ技術や性格に問題があっても、代々の家禄がある。生活に困ることはない。しかし、町絵師は違う。自分で稼がねば一文も入ってこない。しかも文竹の場合、自ら画塾・工房まで構えているから、その維持費を捻出しなければならない。相当な才覚が必要であろう。
「確かに。やはり、赤穂浪人の件ですか」
「ええ、大変な評判です。風神堂さんも次から次へと新版を出して。しかも出す端から売れて行く。赤穂義士さまさまですよ」
「ぎし?」
「ええ。忠義の士と書いて義士。初めは浪人としていましたが、それが浪士になり、今では義士です」
「やはり、町衆は赤穂びいきですか」
「さあ、どうでしょうか。どっちでもいいんですよ、面白ければ。みんな、騒ぎたいだけなんです。娯楽に飢えてるんですな」
「しかし、あれを義士とは。ご府内であの様な狼藉を・・・」
「お武家の感覚ではそうでしょうな。それでも、大したものだと思いませんか。さっと討ち入って、さっと首を取って、さっと引き上げちまった。あの水際立った仕方は、江戸っ子好みですよ。まあ、乱闘の最中、火でも出して周囲に迷惑をかけていればまた違ったと思いますが・・・」
「なるほど、参考になった。あっ、いや、今日はそんなことではなかった。これを見ていただきたい」
吉之助が文竹の前に吉良家所蔵の探幽縮図を広げると、彼は押し黙り、俄かに鋭い目つきとなった。
「うぅん、この軽やかな筆さばき、いいですなぁ。眼福眼福」
「これを所有者に返さねばなりません。そこで、高島藩の御用絵師に顔つなぎをお願いしたい」
「驚きました。よくここまで来られましたね」
相変わらずの色白で整った顔立ち、穏やかな微笑。しかし、右頬から耳の下まで伸びる刀傷が痛々しい。
「左兵衛様、この度は誠に・・・」
「いや、やめましょう」と言うと、左兵衛が廊下の方を見た。監視役の高島藩士が控えている。吉之助も、やり取りは用件のみ、私語は厳禁と釘を刺されていた。
「これをお返しいたします。修行中の弟子にとり、何よりの教材でした。ありがとうございました」
吉之助は深々と頭を下げ、探幽縮図が納められた桐箱を左兵衛の前に押し出した。
「お役に立てたなら、何よりです」
「では、これにて」
吉之助が立ち上がる。吉之助の弟子として部屋の片隅に控えていたおりんも立った。吉之助の後に続く。しかし、部屋を出る寸前、彼女は堪らず振り返った。
「さ、左兵衛様。何か必要なものがあれば、わたくしが・・・」
左兵衛は何も言わず、静かに首を横に振った。
「こら、言葉を交わしてはならぬ!」
おりんがその侍を睨み付けた。吉之助が慌てて彼女の袖を引く。ここで騒げば、左兵衛の立場を悪くするだけだ。おりんは血が出んばかりに唇を噛み、もう一度左兵衛に目を向ける。しかし、左兵衛はただ前を向き、おりんと目を合わせることはなかった。
そして、追い立てられるように高島藩下屋敷を出てしばらく歩いていると、おりんが背中に小さく言ってきた。
「先生、ありがとう」
「ああ」
吉之助は振り返らない。振り返らずとも、おりんが泣いていることは知れている。彼女の涙を見て、もらい泣きを我慢する自信はなかった。どんより曇った空の下、冷たい北風に背を押されながら、二人は浜屋敷に帰って行った。
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