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第66章 突入
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本所亀沢町の坂東家を見張っていた吉之助は、急いで浜屋敷に戻ってきた。
「あなたお一人ですか。おりんは?」と妻の志乃。
「まだ向こうだ」
「信じられませんわ。女の子を暗い中に一人で残して。すぐに迎えに行って下さいませ」
「そう怒るな。すぐに戻る。竜さんを呼びに来ただけだ」
得物の杖を手にした吉之助は、竜之進と共に両国橋を渡った。回向院の前まで来れば本所亀沢町はすぐそこだ。ただ、坂東家の前を避けてぐるりと回る。例の空き地が見えてきた。井戸と木瓜の木、その脇にたたずむおりん。
彼女は、黒の羽織の下に明るい空色の地に薄桃色の山茶花を散らした小袖を着ている。薄暗い中、いくつもの赤い木瓜の花と一体となり、実にいい景色を成していた。
「女は化けるなぁ。この間まで唯の小生意気なガキだったのに」と竜之進。
「まったくだ」
「これは見ものですな」
「何が?」
「あれが嫁に行くとき、吉之助さん、きっと泣きますよ」
「馬鹿なことを」
おりんが二人の接近に気付き、小さく手招きした。
「先生、遅いよ。なんだ、竜の字も来たのか」
「前言撤回だ。お前、全然変わってないな」と言って、竜之進がおりんのおでこを弾いた。
「痛っ、何すんだい」
「いい加減にしろ、二人とも。で、何か変わったことは?」
「そうそう、それ。ただ立っていても仕方ないからさ。ちょっと屋敷の周りを見て来たんだ」
「なに? 動くなと言っただろ」
「いいから聞いてよ」
「ああ」
「でね。この屋敷の並びだけどさ、裏手に水路が通ってるんだ」
「だから?」
「先生、鈍いなぁ。その水路を使えば隅田川にすぐ出られるんだよ」
すると、竜之進がポンと手を打った。
「そうか。何か運び出すのに好都合ということか」
「そう。千両箱とかね」
「待て待て、すると、中にいるのは盗賊だとでも?」
「そりゃあ、捕まえてみないと分かんないけどさ」
「ここで議論していても埒があきませんよ。踏み込みましょう」と竜之進。
「だな」
「斬っちゃっていいんですかね」
「出来れば生け捕りにしたいが、相手が攻撃してきたら手加減する必要はない」
「了解」
さして高くはないが、門も塀も飛び越えることは出来ない。すると、後ろについて来ていたおりんが吉之助の肩を叩いた。
「あたしが塀を越えて閂を開けてやるよ。先生、肩を貸して。ほら、竜の字はあっち向いてな」
「お前、ほんと、全然変わってないな」
難なく門は開いた。見張りなどはいないようだ。
「おりん、いいか。お前は空き地に戻ってろ。万一の際は、ぐるりと回って両国橋の橋番所に駆け込め。いいな」
「分かった」
「竜さん、準備はいいか」
「おう」
吉之助と竜之進は門から玄関に進んだ。しかし、玄関からは上がらず、庭に回る。庭に面した座敷の板戸を外し、室内に入った。無論、土足のままである。二階に続く階段はすぐに分かった。階上から押し殺したような声がする。三人以上は明らかにいる。
そこで竜之進に袖を引かれた。一旦、庭に戻った。
「室内でやり合うのは危険ですよ。ここで出て来るのを迎え撃った方がいい」
「なるほど」
吉之助は座敷の端の濡れ縁に身を寄せると、大声ではないが、静まり返った夜中、二階まで届くには十分な声量で呼びかけた。
「私は、当家ゆかりの者である。留守のはずの屋敷内に不審な人影ありとの通報を受け駆け付けた。二階にいる者ども、速やかに出て参れ」
一瞬、ガタガタと音がしたが、すぐに静寂に戻った。しばし待つ。さらに待つ。動きはない。吉之助が堪らず室内を見に行こうとすると、竜之進にまた袖を引かれた。彼は黙って首を振る。ここで待て、ということらしい。
すると、上からドタドタと大きな足音がし、男が三人、勢いよく庭に躍り出てきた。町人風二人、職人風一人。少し遅れてもう一人きた。これは二本差しの浪人風。
「お前たち、何者だ?」
「・・・」
「返答せぬということは、やはり賊か。大人しく・・・」
吉之助の言葉が終わらぬ内、竜之進が機先を制して正面の町人風の男に斬り掛かった。男はさっと身を躱す。すると、横の若い職人風の男が懐から短刀を出し、竜之進の腰の辺りを狙った。吉之助は杖を伸ばしてその動きを遮り、そのまま若者と向き合おうとした。しかし、杖と短刀では勝負にならない。若者はさっと飛び退き、町人風の二人と連携して吉之助を囲む態勢を取った。
一方、竜之進は、四十代半ばがっしりした総髪の浪人と対峙している。
竜之進は正眼、浪人は下段。すると、吉之助を囲んでいた三人の一人がいきなり踵を返して竜之進の背後を襲った。竜之進は横に移動してその攻撃を器用に躱す。しかし、さばいた足を狙って浪人が下段から斬り上げた。竜之進はこれも読んでいたのだろう。いや、誘ったのかもしれない。彼は浪人の刃の軌道を正確に読んで上に跳び、そのまま浪人の肩口に自らの剣を振り下ろした。
その時である。背後から大きな声、甲高い女の声。
「先生! 橋番所に行ってきたよ! すぐに応援が来るよ!」
竜之進の斬撃が浪人の左肩に食い込み、浪人が地面に膝を付いた。しかし、竜之進が止めを刺す前に、他の三人が目にも止まらぬ速さで浪人を助け起こし、一丸となって門に向かって駆け出した。これも見事な連携だ。
不味い、そっちにはおりんが。しかし、賊はおりんには目もくれずに門を抜け、あっと言う間に闇の中に消えた。
「竜さん、無事か」
「ええ、何とか。しかし、やりますね。あの下段からの斬り上げは鋭かった。肝を冷やしましたよ。それに、揃いも揃って訓練された動きだ。他の連中も元は侍ではないでしょうか」
「そうだな。近頃また浪人が増えているからな。悪事に走る者も出て来よう」
幕府による大名家の取り潰しは三代家光の時代が最盛期であった。四代家綱のときには顕著にペースダウンしたが、当代綱吉の世となって再び増加傾向にある。概ね、年に二、三家の大名が潰されていた。
「そう言えば、おりん。番所からは誰が来る? 同心か」
「えっ、ああ。あれははったりだよ」
「お前なぁ」
すると、どこからかおりんとは別の女の声がした。何を言っているのか分からないほど弱々しい声だ。おりんが驚き跳び上がる。
「お、お化け!?」
「馬鹿、落ち着け。冬だぞ」
竜之進が鞘に納めた刀を再度抜き放ち、そのまま座敷に上がった。注意しながら奥へ。吉之助も杖を構えて続いた。
「ここ、ですね」
「浴室かな。釘で打ち付けてあるな」
「蹴破りますよ」
「ああ、頼む」
中には二人の女性がいた。一人はこの家の奥様・坂東香苗。もう一人は年老いた下女であった。二人とも衰弱しているが、命に別状はない様子だ。
香苗はまず身だしなみを整えることを求めた。当然と言えば当然だ。吉之助と竜之進はその間、二階を含めて屋敷中を点検して回ったが、賊の遺留品などは発見できなかった。
四半時(三十分)後、おりんによってちゃっちゃと拭き掃除された座敷に香苗が老侍女を従えて出て来た。
「では、経緯をお話いただけますか」
「あの、その前にそちら様は?」
「まだ名乗っておりませんでしたか。これは失礼を。私は甲府藩士・狩野吉之助と申します。隣は同僚の島田竜之進。我らは中納言様ご正室・近衛熙子様の命により、貴方様のご様子を確認しに参りました」
「左様でしたか。御前様が。わたくし如きのことをお気に掛けて下さり、ご家臣まで遣わして下さるとは、何と恐れ多い。皆様にもお手数をお掛け致しました。この通りでございます」
畳に手を付いて深々と頭を下げる香苗。それに倣う老下女。そこにおりんが水を入れた湯呑を両手に持ってやって来た。とん、とん、と二人の前に置く。
「ありがとう存じます」
香苗が湯呑に手を伸ばす。気丈に見えて、白い指はかすかに震えていた。しかし、彼女は水を一口飲むと、自らを励ますようにゆっくり話し始めた。
曰く、数人の賊が侵入し、香苗と老下女を浴室に閉じ込めたのは三日前。そして、そもそもその十日前、香苗の夫である旗本・坂東高徳が御蔵奉行配下の与力職に就くことが決まったことにつき、祝いを述べたいと初老の商人が訪ねて来た。
その商人は、この機会にかつて高徳の祖父から受けた恩を返したいと主張し、是非、一家で日光参りに行く旅費を負担させて欲しいと言い出した。
普段ならこんな胡散臭い話一顧だにしないところだが、坂東家は、無役の境遇に長く耐えてきた。さらに先年には火災にも遭っている。それがようやく、という思いがあって、つい申し出を受けた。
しかし、出発直前になって、全く屋敷を空にしてしまうのさすがに不味いと思い、香苗と足の弱い老下女だけが残ることにした、ということだ。
「盗賊ですか。しかし、当家には盗られるほどの蓄えはございませんが」と、香苗が首を傾げる。
「そうですか。では、この周囲はどうでしょう?」
「ご近所ということでしょうか」
「はい」
「あっ、もしや・・・」
「何かお心当たりが?」
「いえ」
「もし何かあれば仰って下さい。我らも戻って御前様に報告せねばなりませんので」
「そうですわね。では、申し上げます。あの、他家のことを悪く言うようで心苦しいのですが、裏の水路を挟んだ三宅様のことです。あちら様は以前、材木奉行様の配下として長く勤められ、その間に随分と蓄財を。今はそれを元手に、その、金貸しのようなことをなさっておられます」
「なるほど。それなら、千両箱のひとつや二つありそうですね」と竜之進。
「そうだな。二階からは水路の向こうも丸見えだった。奥様。三つ並びの向かって一番右、ひと回り大きな屋敷、あそこが?」
「はい。それが三宅様のお屋敷です」
そこで、横にちょこんと座っていたおりんがパチンを指を鳴らした。そして勝ち誇ったように言う。
「やっぱりね。やっぱり水路で千両箱を運ぶんだ。それに決まりだ。きっと、夜烏組だよ」
「よがらす、何だそれ?」
「竜の字、知らないの? 夜烏組、今評判の盗賊団だよ」
香苗が後は自分たちで何とかすると言うので、吉之助たちは戸締りだけ確認して坂東家を後にした。
「いいんですか。三宅家に報せなくて?」と竜之進。
「金貸しするくらいだ。自前で警備しているだろ」
「じゃあ、奉行所は?」
「平松様から頼まれたのは、あの奥様の安否を確認することだけだからなぁ」
「しかし・・・」
「今更遅いんじゃないか。のこのこ戻って来るとも思えん」
「それは確かに」
「何より、この件が表沙汰になったら坂東家は面目丸潰れだ。お家断絶まではないと思うが、せっかく決まったお役は駄目になってしまうだろう」
吉之助が平松時子から聞いた限りでは、香苗はなかなか出来た女性のようだ。御前様・近衛熙子のお気に入りでありながら、決して甘えず、熙子の名を夫の猟官運動に利用することもない。夫も同様で、自らの力で役を得るべく地道に努力してきたという。
世の中、善人が必ず報われるわけでもなければ、努力が必ず実るわけでもない。しかし、少なくとも、自分の手でそうした人たちの邪魔はしたくない。この夜の吉之助は、何となくそう思った。
すると、背後からおりんの声。
「ちょっと待った! ほらあそこ、お蕎麦食べて行こうよ」
彼女は真っ直ぐ浜屋敷に戻ろうとする吉之助と竜之進の背にそう言うと、通りの向こうにちらりと見える屋台の灯りに突進して行った。
「何とまあ、色気のない。吉之助さんの泣きっ面は当分見られそうにないなぁ」
「言ってろ」
「あなたお一人ですか。おりんは?」と妻の志乃。
「まだ向こうだ」
「信じられませんわ。女の子を暗い中に一人で残して。すぐに迎えに行って下さいませ」
「そう怒るな。すぐに戻る。竜さんを呼びに来ただけだ」
得物の杖を手にした吉之助は、竜之進と共に両国橋を渡った。回向院の前まで来れば本所亀沢町はすぐそこだ。ただ、坂東家の前を避けてぐるりと回る。例の空き地が見えてきた。井戸と木瓜の木、その脇にたたずむおりん。
彼女は、黒の羽織の下に明るい空色の地に薄桃色の山茶花を散らした小袖を着ている。薄暗い中、いくつもの赤い木瓜の花と一体となり、実にいい景色を成していた。
「女は化けるなぁ。この間まで唯の小生意気なガキだったのに」と竜之進。
「まったくだ」
「これは見ものですな」
「何が?」
「あれが嫁に行くとき、吉之助さん、きっと泣きますよ」
「馬鹿なことを」
おりんが二人の接近に気付き、小さく手招きした。
「先生、遅いよ。なんだ、竜の字も来たのか」
「前言撤回だ。お前、全然変わってないな」と言って、竜之進がおりんのおでこを弾いた。
「痛っ、何すんだい」
「いい加減にしろ、二人とも。で、何か変わったことは?」
「そうそう、それ。ただ立っていても仕方ないからさ。ちょっと屋敷の周りを見て来たんだ」
「なに? 動くなと言っただろ」
「いいから聞いてよ」
「ああ」
「でね。この屋敷の並びだけどさ、裏手に水路が通ってるんだ」
「だから?」
「先生、鈍いなぁ。その水路を使えば隅田川にすぐ出られるんだよ」
すると、竜之進がポンと手を打った。
「そうか。何か運び出すのに好都合ということか」
「そう。千両箱とかね」
「待て待て、すると、中にいるのは盗賊だとでも?」
「そりゃあ、捕まえてみないと分かんないけどさ」
「ここで議論していても埒があきませんよ。踏み込みましょう」と竜之進。
「だな」
「斬っちゃっていいんですかね」
「出来れば生け捕りにしたいが、相手が攻撃してきたら手加減する必要はない」
「了解」
さして高くはないが、門も塀も飛び越えることは出来ない。すると、後ろについて来ていたおりんが吉之助の肩を叩いた。
「あたしが塀を越えて閂を開けてやるよ。先生、肩を貸して。ほら、竜の字はあっち向いてな」
「お前、ほんと、全然変わってないな」
難なく門は開いた。見張りなどはいないようだ。
「おりん、いいか。お前は空き地に戻ってろ。万一の際は、ぐるりと回って両国橋の橋番所に駆け込め。いいな」
「分かった」
「竜さん、準備はいいか」
「おう」
吉之助と竜之進は門から玄関に進んだ。しかし、玄関からは上がらず、庭に回る。庭に面した座敷の板戸を外し、室内に入った。無論、土足のままである。二階に続く階段はすぐに分かった。階上から押し殺したような声がする。三人以上は明らかにいる。
そこで竜之進に袖を引かれた。一旦、庭に戻った。
「室内でやり合うのは危険ですよ。ここで出て来るのを迎え撃った方がいい」
「なるほど」
吉之助は座敷の端の濡れ縁に身を寄せると、大声ではないが、静まり返った夜中、二階まで届くには十分な声量で呼びかけた。
「私は、当家ゆかりの者である。留守のはずの屋敷内に不審な人影ありとの通報を受け駆け付けた。二階にいる者ども、速やかに出て参れ」
一瞬、ガタガタと音がしたが、すぐに静寂に戻った。しばし待つ。さらに待つ。動きはない。吉之助が堪らず室内を見に行こうとすると、竜之進にまた袖を引かれた。彼は黙って首を振る。ここで待て、ということらしい。
すると、上からドタドタと大きな足音がし、男が三人、勢いよく庭に躍り出てきた。町人風二人、職人風一人。少し遅れてもう一人きた。これは二本差しの浪人風。
「お前たち、何者だ?」
「・・・」
「返答せぬということは、やはり賊か。大人しく・・・」
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一方、竜之進は、四十代半ばがっしりした総髪の浪人と対峙している。
竜之進は正眼、浪人は下段。すると、吉之助を囲んでいた三人の一人がいきなり踵を返して竜之進の背後を襲った。竜之進は横に移動してその攻撃を器用に躱す。しかし、さばいた足を狙って浪人が下段から斬り上げた。竜之進はこれも読んでいたのだろう。いや、誘ったのかもしれない。彼は浪人の刃の軌道を正確に読んで上に跳び、そのまま浪人の肩口に自らの剣を振り下ろした。
その時である。背後から大きな声、甲高い女の声。
「先生! 橋番所に行ってきたよ! すぐに応援が来るよ!」
竜之進の斬撃が浪人の左肩に食い込み、浪人が地面に膝を付いた。しかし、竜之進が止めを刺す前に、他の三人が目にも止まらぬ速さで浪人を助け起こし、一丸となって門に向かって駆け出した。これも見事な連携だ。
不味い、そっちにはおりんが。しかし、賊はおりんには目もくれずに門を抜け、あっと言う間に闇の中に消えた。
「竜さん、無事か」
「ええ、何とか。しかし、やりますね。あの下段からの斬り上げは鋭かった。肝を冷やしましたよ。それに、揃いも揃って訓練された動きだ。他の連中も元は侍ではないでしょうか」
「そうだな。近頃また浪人が増えているからな。悪事に走る者も出て来よう」
幕府による大名家の取り潰しは三代家光の時代が最盛期であった。四代家綱のときには顕著にペースダウンしたが、当代綱吉の世となって再び増加傾向にある。概ね、年に二、三家の大名が潰されていた。
「そう言えば、おりん。番所からは誰が来る? 同心か」
「えっ、ああ。あれははったりだよ」
「お前なぁ」
すると、どこからかおりんとは別の女の声がした。何を言っているのか分からないほど弱々しい声だ。おりんが驚き跳び上がる。
「お、お化け!?」
「馬鹿、落ち着け。冬だぞ」
竜之進が鞘に納めた刀を再度抜き放ち、そのまま座敷に上がった。注意しながら奥へ。吉之助も杖を構えて続いた。
「ここ、ですね」
「浴室かな。釘で打ち付けてあるな」
「蹴破りますよ」
「ああ、頼む」
中には二人の女性がいた。一人はこの家の奥様・坂東香苗。もう一人は年老いた下女であった。二人とも衰弱しているが、命に別状はない様子だ。
香苗はまず身だしなみを整えることを求めた。当然と言えば当然だ。吉之助と竜之進はその間、二階を含めて屋敷中を点検して回ったが、賊の遺留品などは発見できなかった。
四半時(三十分)後、おりんによってちゃっちゃと拭き掃除された座敷に香苗が老侍女を従えて出て来た。
「では、経緯をお話いただけますか」
「あの、その前にそちら様は?」
「まだ名乗っておりませんでしたか。これは失礼を。私は甲府藩士・狩野吉之助と申します。隣は同僚の島田竜之進。我らは中納言様ご正室・近衛熙子様の命により、貴方様のご様子を確認しに参りました」
「左様でしたか。御前様が。わたくし如きのことをお気に掛けて下さり、ご家臣まで遣わして下さるとは、何と恐れ多い。皆様にもお手数をお掛け致しました。この通りでございます」
畳に手を付いて深々と頭を下げる香苗。それに倣う老下女。そこにおりんが水を入れた湯呑を両手に持ってやって来た。とん、とん、と二人の前に置く。
「ありがとう存じます」
香苗が湯呑に手を伸ばす。気丈に見えて、白い指はかすかに震えていた。しかし、彼女は水を一口飲むと、自らを励ますようにゆっくり話し始めた。
曰く、数人の賊が侵入し、香苗と老下女を浴室に閉じ込めたのは三日前。そして、そもそもその十日前、香苗の夫である旗本・坂東高徳が御蔵奉行配下の与力職に就くことが決まったことにつき、祝いを述べたいと初老の商人が訪ねて来た。
その商人は、この機会にかつて高徳の祖父から受けた恩を返したいと主張し、是非、一家で日光参りに行く旅費を負担させて欲しいと言い出した。
普段ならこんな胡散臭い話一顧だにしないところだが、坂東家は、無役の境遇に長く耐えてきた。さらに先年には火災にも遭っている。それがようやく、という思いがあって、つい申し出を受けた。
しかし、出発直前になって、全く屋敷を空にしてしまうのさすがに不味いと思い、香苗と足の弱い老下女だけが残ることにした、ということだ。
「盗賊ですか。しかし、当家には盗られるほどの蓄えはございませんが」と、香苗が首を傾げる。
「そうですか。では、この周囲はどうでしょう?」
「ご近所ということでしょうか」
「はい」
「あっ、もしや・・・」
「何かお心当たりが?」
「いえ」
「もし何かあれば仰って下さい。我らも戻って御前様に報告せねばなりませんので」
「そうですわね。では、申し上げます。あの、他家のことを悪く言うようで心苦しいのですが、裏の水路を挟んだ三宅様のことです。あちら様は以前、材木奉行様の配下として長く勤められ、その間に随分と蓄財を。今はそれを元手に、その、金貸しのようなことをなさっておられます」
「なるほど。それなら、千両箱のひとつや二つありそうですね」と竜之進。
「そうだな。二階からは水路の向こうも丸見えだった。奥様。三つ並びの向かって一番右、ひと回り大きな屋敷、あそこが?」
「はい。それが三宅様のお屋敷です」
そこで、横にちょこんと座っていたおりんがパチンを指を鳴らした。そして勝ち誇ったように言う。
「やっぱりね。やっぱり水路で千両箱を運ぶんだ。それに決まりだ。きっと、夜烏組だよ」
「よがらす、何だそれ?」
「竜の字、知らないの? 夜烏組、今評判の盗賊団だよ」
香苗が後は自分たちで何とかすると言うので、吉之助たちは戸締りだけ確認して坂東家を後にした。
「いいんですか。三宅家に報せなくて?」と竜之進。
「金貸しするくらいだ。自前で警備しているだろ」
「じゃあ、奉行所は?」
「平松様から頼まれたのは、あの奥様の安否を確認することだけだからなぁ」
「しかし・・・」
「今更遅いんじゃないか。のこのこ戻って来るとも思えん」
「それは確かに」
「何より、この件が表沙汰になったら坂東家は面目丸潰れだ。お家断絶まではないと思うが、せっかく決まったお役は駄目になってしまうだろう」
吉之助が平松時子から聞いた限りでは、香苗はなかなか出来た女性のようだ。御前様・近衛熙子のお気に入りでありながら、決して甘えず、熙子の名を夫の猟官運動に利用することもない。夫も同様で、自らの力で役を得るべく地道に努力してきたという。
世の中、善人が必ず報われるわけでもなければ、努力が必ず実るわけでもない。しかし、少なくとも、自分の手でそうした人たちの邪魔はしたくない。この夜の吉之助は、何となくそう思った。
すると、背後からおりんの声。
「ちょっと待った! ほらあそこ、お蕎麦食べて行こうよ」
彼女は真っ直ぐ浜屋敷に戻ろうとする吉之助と竜之進の背にそう言うと、通りの向こうにちらりと見える屋台の灯りに突進して行った。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
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