狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

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第65章 本所亀沢町の二階家

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「お疲れ様でした。さて、狩野殿。次回ですが、六日は殿のご都合が悪い故、前倒しで師走の三日にお願い出来ますか」
「承知しました。もし都合がつかなければ連絡します。しかし、もう師走ですか。早いですな」

 その様に吉良家の家老と挨拶を交わし、吉之助は本所松坂町の屋敷を後にした。いつもなら前の通りを南に下り公儀の御船蔵の先にある新大橋を渡って浜屋敷に戻るのだが、この日は別に用事があり、足を北に向けた。

 その用事とは、御前様・近衛熙子の側近である平松時子からの依頼である。

 すなわち、熙子お気に入りの元侍女がいる。彼女は熙子から書の指導を受けており、毎月二十三日、熙子に宛て文を送って寄越す。しかし、今月はそれが届かない。熙子が心配しているので、元侍女の嫁ぎ先の様子を見てきて欲しい、というのだ。

 吉之助は、何か用事でもあって失念しているだけだろう、と思ったが、時子が至って真面目な顔で言っているので黙って受けた。

 その元侍女の名は、坂東香苗。夫は直参旗本三百石、屋敷は本所亀沢町。考えてみれば既に一度訪ねている。勅額火事の後、熙子の命で見舞いの品を届けたあの家だ。
 そこで、吉良家での絵画教授を済ませた後に見に行くことにした。従って、助手役のおりんも一緒である。

「なぁんだ、すぐじゃないか」
「ほら、前に出るな。この辺は武家屋敷が多いんだ。変に見られるだろ」

 おりんは一時言葉遣いや立ち居振る舞いが急に娘らしくなったが、元に戻っている。いや、正確には行ったり来たりしている。一日の内でも変わるし、対する相手によっても変わる。志乃は、年頃の娘にはよくあることですよ、などと笑っているが、吉之助にはどうにも理解できない。

 二人が坂東家の屋敷の前に来た。

 旗本屋敷と言っても三百石。さらに、この辺りに屋敷を与えられているということは小普請(無役)だろう。せいぜい二百坪。門も簡素で塀も低い。大男の吉之助が背伸びをすれば、中を伺えた。この規模の屋敷だと、生活費の足しにするため、空いたスペースに長屋などを建てているケースも多いが、ここは堅実な家風らしく、家庭菜園の畑としていた。

 すると、背後から声を掛けられた。
「あの、お武家様、こちらのお屋敷に何か御用で?」

 吉之助が振り向くと、棒手振りの若い魚屋であった。
「ああ。私はこの家のゆかりの者で、少々用があって寄ったのだが、留守のようだな」
「さいですか。ご親戚か何かで」
「まあな」
「それはおめでとうございます」
「何? めでたい?」

「おや、ご存知ないんですか。こちらのお殿様、近々お役に就くことが決まったそうで。それで、お屋敷総出で日光へ。東照神君へのお礼参りに行ってるんですよ」

「ほう、初耳だな。そなた、どこでそれを?」
「へい。あっしはこちらのお屋敷にいつも魚を持って来てるんですがね。先日、鯛を一尾お買い上げいただきまして。その時に伺った次第で、はい」
「なるほどな。それでは出直すとしよう。よく声を掛けてくれた。助かったよ」
 吉之助は袂から小銭を出して渡した。若い魚屋は途端にいい笑顔を見せ、ひょいと頭を下げると去って行った。

「いくら渡したのさ?」とおりん。吉之助はもう一枚同じものを袂から出した。数年前から使われ始めた二朱金(元禄二朱判)だ。
「えっ、多過ぎでしょ。そんな余裕あるなら、こっち来たついでに両国の茶店で甘酒飲みたいんだけど」
「馬鹿」
「そっちこそ馬鹿だ。甘酒を買ってくれないなら小母さんに言い付けてやる。近頃、何でもかんでも物の値段が上がったって言ってご機嫌斜めだからね。絶対怒られるよ」
「こ奴!」
 吉之助が手を伸ばしておりんの耳をつまむと、おりんがそれを振り払おうとくるりと体を回転させた。ところが、後ろを向いたところで、彼女が「あっ」と小さく叫んだ。

「どうした?」
「先生。今、二階の窓に誰かいた」
「なに?」
「振り向いちゃ駄目。そのまま歩いて」

 二人は何食わぬ顔で通りを東へ。同じ規模の屋敷が数軒並んでいる。そして、区画の端がちょっとした空き地になっていた。防火用水としての井戸があり、その脇に吉之助の肩くらいの木が一本植わっている。二人はその陰に身を隠すと、坂東家の方に目を凝らした。この辺りで二階があるのは坂東家だけ。間違うはずもない。

「本当に人だったのか」
「うん。ちらっとだったから、絶対とは言えないけど、あれは鳥や猫じゃないよ」

 普通の少女の言葉なら聞き流したかもしれない。しかし、おりんは絵師の卵である。彼女の観察眼の確かさを吉之助はよく知っている。
「少し見張ってみるか」
「うん」

 最初二人で見ていたが、おりんはすぐに飽きた。ちょうど絵画の道具を持っている。彼女は、井戸の脇の木が枝に点々と小さな花を付けていることに気付くと、その様子を描き始めた。

「この花、梅に似てるね」
「形は似ているが、梅にしては赤いだろ。それは木瓜だよ」
「ぼけ? もうちょっと可愛らしい名前にしてやればいいのに」
「はは、そうだな」

「あっ、梅で思い出した。先生、尾形光琳って知ってる?」
「名前だけはな。作品を見たことはない」
「そうなんだ。あたし、見たよ」
「ほう、どこで?」
「文竹先生が持ってたんだ。ちゃんとしたものじゃなくて、図案の写し、かな。とにかく、狩野派の絵手本では見たことのない構図だね、あれは。色が入るともっと凄いんだって」
「私も一度見たいな。世の中と同じで絵画も日々進歩して行く。狩野派だって、開祖・正信様のときから比べれば随分と変わっているんだぞ」
「へえ」

 ちなみに、琳派で有名な尾形光琳の代表作「紅白梅図屏風」(国宝・MOA美術館蔵)は、彼の晩年の作と考えられている。光琳この時四十五歳。永眠したのが五十九歳であったことを思うと、おりんが見た図案は恐らく別物であろう。

 季節は初冬。しばらくすると日が傾き、あっと言う間に暗くなる。おりんが紙と筆を片付け、吉之助の横に来た。

「先生、お腹減ったよ」
「そうか。近くで何か、いや待て。おい、おりん、見ろ」
「あっ、灯り。ちらっとだけど、今の灯りだよね」
「そうだな」
「やっぱり中に人がいるんだ。絶対だよ」
「その様だ。しかし、どう見ても普通じゃない。何か起きてるのかもしれんな」

 思わず顔を見合わせる吉之助とおりん。二人の背後では、いくつもの赤い木瓜の花が静かに咲いていた。
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