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第54章 嵐子の未来
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嵐子が夜の闇に消えた翌々日、厳四郎が目を覚ました。さらに三日経ち、宿泊客のほとんどが旅籠を発った五つ半(ほぼ午前九時)、嵐子が突風の如く飛び込んできた。
「厳四郎様!」
「お嵐、戻ったか。これまでのことは女将さんから聞いた。この通りだ。礼を言う」
「いえ」
「それでお前、どこに行っていたんだ?」
「はい、えっと、それより厳四郎様、傷の具合は?」
「痛みは落ち着いた。食欲も出てきた。しかし、この左腕はもう駄目だな」
言葉の後半が嵐子の心を刺した。自然に返そうとしたが言葉が出て来ない。厳四郎がそこで寝床から半身を起こした。
「そんな顔をするな。女将さんの言う通り、命が助かっただけで御の字さ」
「でも・・・」
「それにな、あの一刀流の男、なかなかの腕だった。悔いはない」
「そうですか。厳四郎様、それで、この後どうするおつもりですか」
「うむ。しばらく名古屋に身を寄せようと思う」
「やっぱり」
「俺のことよりお前のことだ。お前、柳生の里に帰れ」
「え?!」
思いがけない厳四郎のひと言に嵐子は絶句した。
白布でぐるぐる巻きにされた左腕をさすりながら厳四郎が言う。
「俺はもうこの通りだ。俺と一緒にいても先はない。里に帰った方がいい」
「そんな・・・」
「今までよく付き合ってくれた。感謝している。ありがとう」
「そんな。あたし帰れません。か、帰れないんです」
帰らない、ではなく、帰れない、とは?
「お前、まさか何か」
「はい。あたし、あの、小頭を斬ってしまって・・・」
これには厳四郎もさすがに顔色を変えた。
「なぜ? いつのことだ?」
「その、三ヶ月くらい前に小頭が来て、ご家老様の御用があるから一緒に戻れ。従わないなら斬るって」
「それで、殺っちまったのか」
「はい。だって、黙って斬られるわけにもいかないし。でも、あたし、確認したんですよ」
「確認? 何を?」
「本気ですかって。それで、本気だって言うから・・・」
そうだ、お嵐はこういう奴だ。なぜ気付いてやれなかったか。厳四郎は己の迂闊さを悔いた。旧知の新見典膳から連絡が来て、勇んで江戸に出た。何だかんだで回りが見えなくなっていたのだ。
「そうか。そうなると、名古屋も駄目だな」
「どうして? 関係ないですよね」
「いや、名古屋のお豊は国家老の娘だぞ。小頭殺しを匿えるものか」
「すみません」
「謝るのは俺の方だ。お前が陣屋の仕事をしていることを知っていながら同行を許した。正直、お前の腕を当てにしていたからな。そのせいでお前から故郷を奪ってしまった。すまん」
そこで障子戸が勢いよく開いた。仁王立ちのお滝が一喝。
「あんた達、何やってんのさ! 全然話が進まないじゃないか。あたしゃ、忙しいんだよ!」
「あっ、女将さん」
「女将さんじゃないよ。お嵐ちゃん、言いなよ、その人に。さっさと言っちまいな!」
「お嵐、何のことだ?」と問いかけてきた厳四郎と目が合った。嵐子は思わず俯いてしまったが、勇気を振り絞って顔を上げた。
「あの、厳四郎様。これからのことなんですけど、あたし、やりたいことがあって、その・・・」
「ほう。聞こうじゃないか」
見れば、厳四郎の横にお滝もしれっと座っている。
「女将さんも?」
「聞きますよ、勿論」
「わ、分かりました」
嵐子はひとつ大きく息を吐くと、一気に言った。
「厳四郎様、一緒に都に行きましょう。京の都でお店を開きましょう」
「は? 店? 商売をするのか」
「はい。扇屋です。あたしが扇に画を描いて売るんです。笹子峠で画を教えてくれた侍、実は偉い絵師みたいなんです。その人が言ってました。あたしには才能があるって。だから・・・」
「なるほど。確かにお前は風景を描くのが上手い。売り物にもなるだろう。しかしな、店を開くとなると元手が要るぞ、かなりの。五両、十両ってわけにはいかんぞ」
「そうだね。商いに関する取り決めは土地ごとに違うけど、振り売りや露店ならともかく、ちゃんと店を構えるとなると株を買ったり組合に入ったり、色々大変なのよ。最低でも二、三十両。しかも京都でしょ。五十両は必要かも。その上で店舗や商品の準備をしなければならないのよ」
「はい。分かってます」と言うと、嵐子は不自然に膨らんだ懐に手を入れた。そして、何かを取り出して畳の上に置いた。それは、切り餅(小判二十五枚の紙包み)であった。一つ、二つ、三つと切り餅を畳の上に並べていく。最終的に四つの山を三つ作ったところで手が止まった。
「三百両あります」と言い放つ嵐子。厳四郎とお滝は揃って青くなっている。
「お、おい、お嵐。こんな大金、どこから? お前まさか」
「ち、違いますよ。決して物騒なことはしてません。江戸で川越藩からちょっと・・・」
「えっ、お嵐ちゃん。あんた、たった五日、いや、四日半で、江戸まで行ってきたって言うのかい?」
「はい」
「まあ、こ奴の足ならそれくらいは。しかし、これだけの金額、殿様でも脅したか」
「いえ、さすがに上屋敷は警備が厳重で。ですから、下屋敷のあの江戸家老の手文庫から拝借してきました。前に滞在したとき、一応、何がどこにあるかくらいは調べておきましたから。厳四郎様の左腕の補償金と思えば、罰は当たりませんよね」
「はっははは、お前って奴は・・・」
「ちょ、ちょっとお待ちよ。川越藩って、今を時めく柳沢出羽守様じゃないか。あんたら一体、何をしたんだい?」
「それは・・・」
「い、いや、言わなくていいよ。聞かない方がよさそうだ」
お滝はさらに顔色を悪くしているが、そこは無頼の徒から役人まで軽く手玉に取っている宿場の女顔役だ。逃げ出すようなことはない。
「まったく、あんた達は。で、厳四郎さん、どうするんだい? この子の提案、受けるか受けないか。あんたが受けるなら、出来るだけの支援を約束しようじゃないか」
お滝にそう迫られ、厳四郎が居住まいを正した。そして、嵐子の目を真っ直ぐに見た。
「お嵐、本当にそれがお前のやりたいことなのか」
「はい」
「そうか。なら、一緒に都に行こう。俺は画は描けんから、店の帳面付けでも習うとしよう。用心棒でもいい。地回りくらいなら右腕一本でも負けはせんよ」
「はい」
嵐子の泣き出しそうな笑顔を見て、お滝が自分の膝をパンと打った。
「決まりだね! よし! じゃあ、出発前に祝言だ」
「えっ?!」
「えって何だい? お嵐ちゃん、今の関係のままで都に行くつもり? あんた馬鹿?」
「お、女将さん・・・」
「やっぱりね。放っておいたら、いつになるか。いいかい。あたしはあんた達の命の恩人だよ。言うことを聞きな。厳四郎さん、あんたはどうなんだい?」
厳四郎は即答した、「異存ござらん」と。
嵐子は心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。愛があれば身分差など関係ないと簡単に言える時代に彼女は生きていない。
厳四郎は、不遇な環境にあると雖も藩主家の人間である。その体には、剣聖・柳生石舟斎、さらには三代将軍の側近として辣腕を振るった初代藩主・柳生宗矩と同じ血が流れている。
「げ、げ、厳四郎様、よ、よろしいのですか」
「ああ」
「さて、お嵐ちゃん。あんたはどうする?」
「あたし・・・」と言ったきり、嵐子は俯いた。膝の上でぎゅっと握った両の拳がかすかに震えている。お滝もここは答えを急かさない。厳四郎と共にじっと待つ。しばらくすると、嵐子が顔を上げた。そして、お滝が予想した通りの答えを口にした。
「はい。よろしくお願いします」
それから半月ほど経ち、嵐子と厳四郎が都に向けて発つ朝がきた。それだけの日数を要したのは、厳四郎の傷の回復を待つと共に、通行手形や商売を始めるために必要な諸々の書類を用意していたからだ。
まったく。あの二人、昨夜は上手く出来たのかしら?
お滝は出発前に挨拶に来たときの二人のバツの悪そうな様子を思い出し、笑いを堪えながら少しずつ小さくなる二人の背中を見送っていた。
「しっかし、女将さんも物好きだなぁ。身元保証人まで引き受けてやるなんて。都で扇屋って、上手く行くとは思えませんけどねぇ」
「こら、縁起の悪いこと言うんじゃないよ」
お滝は源八の後頭部を軽くはたくと、帯に差した白扇を抜き、パッと開いて彼に渡した。
「何です? 富士の画? えっ、これ、そこの川岸の荷下ろし場じゃないですか。見たまんまですよ。すげぇや。まさか、これをあの娘が?」
「そうだよ。見事な腕だろ。ほんとに面白い子だよ。あたしが宿屋稼業を続けているのはね、ああいうとんでもない人間とたまに出会えるからなのさ」
「えっ、そうなんですか。てっきり男漁りに都合がいいからかと」
「この馬鹿!」
嵐子と厳四郎の夫婦は、厳四郎が変名に使っていた青柳の姓をそのまま用いることにした。半年後、二人は、洛中と呼べるエリアの南端、九条通沿いに小さな扇店を出した。東寺(教王護国寺)の五重塔を間近に望める場所で、店名は青嵐堂。
都人というのは表向き伝統墨守のように見え、実は新しい物に目がない。嵐子の描く細密な名所絵はたちまち評判を呼んだ。店は急成長。わずか五年で京都の一等地、四条通のど真ん中に間口八間(約十五メートル)の大店を構え、二十名を越す奉公人と職人を抱えるまでになった。
さらに言えば、孫の一人が分家して江戸に出店。幕府の御用商人にまでなるのだが、それはまた別の話である。
なお、京都にも妖怪かまいたちの伝説が残っている。なぜか青嵐堂の開店から約三十年の期間に多いようだ。
その妖怪は、闇夜に一陣の風に乗って現れ、凄まじい切り口を残して人の命を奪った。ただし犠牲者は、二、三の例外を除き、高利貸しや悪徳商人、不正役人など、庶民の敵に限られていたと伝わる。
「厳四郎様!」
「お嵐、戻ったか。これまでのことは女将さんから聞いた。この通りだ。礼を言う」
「いえ」
「それでお前、どこに行っていたんだ?」
「はい、えっと、それより厳四郎様、傷の具合は?」
「痛みは落ち着いた。食欲も出てきた。しかし、この左腕はもう駄目だな」
言葉の後半が嵐子の心を刺した。自然に返そうとしたが言葉が出て来ない。厳四郎がそこで寝床から半身を起こした。
「そんな顔をするな。女将さんの言う通り、命が助かっただけで御の字さ」
「でも・・・」
「それにな、あの一刀流の男、なかなかの腕だった。悔いはない」
「そうですか。厳四郎様、それで、この後どうするおつもりですか」
「うむ。しばらく名古屋に身を寄せようと思う」
「やっぱり」
「俺のことよりお前のことだ。お前、柳生の里に帰れ」
「え?!」
思いがけない厳四郎のひと言に嵐子は絶句した。
白布でぐるぐる巻きにされた左腕をさすりながら厳四郎が言う。
「俺はもうこの通りだ。俺と一緒にいても先はない。里に帰った方がいい」
「そんな・・・」
「今までよく付き合ってくれた。感謝している。ありがとう」
「そんな。あたし帰れません。か、帰れないんです」
帰らない、ではなく、帰れない、とは?
「お前、まさか何か」
「はい。あたし、あの、小頭を斬ってしまって・・・」
これには厳四郎もさすがに顔色を変えた。
「なぜ? いつのことだ?」
「その、三ヶ月くらい前に小頭が来て、ご家老様の御用があるから一緒に戻れ。従わないなら斬るって」
「それで、殺っちまったのか」
「はい。だって、黙って斬られるわけにもいかないし。でも、あたし、確認したんですよ」
「確認? 何を?」
「本気ですかって。それで、本気だって言うから・・・」
そうだ、お嵐はこういう奴だ。なぜ気付いてやれなかったか。厳四郎は己の迂闊さを悔いた。旧知の新見典膳から連絡が来て、勇んで江戸に出た。何だかんだで回りが見えなくなっていたのだ。
「そうか。そうなると、名古屋も駄目だな」
「どうして? 関係ないですよね」
「いや、名古屋のお豊は国家老の娘だぞ。小頭殺しを匿えるものか」
「すみません」
「謝るのは俺の方だ。お前が陣屋の仕事をしていることを知っていながら同行を許した。正直、お前の腕を当てにしていたからな。そのせいでお前から故郷を奪ってしまった。すまん」
そこで障子戸が勢いよく開いた。仁王立ちのお滝が一喝。
「あんた達、何やってんのさ! 全然話が進まないじゃないか。あたしゃ、忙しいんだよ!」
「あっ、女将さん」
「女将さんじゃないよ。お嵐ちゃん、言いなよ、その人に。さっさと言っちまいな!」
「お嵐、何のことだ?」と問いかけてきた厳四郎と目が合った。嵐子は思わず俯いてしまったが、勇気を振り絞って顔を上げた。
「あの、厳四郎様。これからのことなんですけど、あたし、やりたいことがあって、その・・・」
「ほう。聞こうじゃないか」
見れば、厳四郎の横にお滝もしれっと座っている。
「女将さんも?」
「聞きますよ、勿論」
「わ、分かりました」
嵐子はひとつ大きく息を吐くと、一気に言った。
「厳四郎様、一緒に都に行きましょう。京の都でお店を開きましょう」
「は? 店? 商売をするのか」
「はい。扇屋です。あたしが扇に画を描いて売るんです。笹子峠で画を教えてくれた侍、実は偉い絵師みたいなんです。その人が言ってました。あたしには才能があるって。だから・・・」
「なるほど。確かにお前は風景を描くのが上手い。売り物にもなるだろう。しかしな、店を開くとなると元手が要るぞ、かなりの。五両、十両ってわけにはいかんぞ」
「そうだね。商いに関する取り決めは土地ごとに違うけど、振り売りや露店ならともかく、ちゃんと店を構えるとなると株を買ったり組合に入ったり、色々大変なのよ。最低でも二、三十両。しかも京都でしょ。五十両は必要かも。その上で店舗や商品の準備をしなければならないのよ」
「はい。分かってます」と言うと、嵐子は不自然に膨らんだ懐に手を入れた。そして、何かを取り出して畳の上に置いた。それは、切り餅(小判二十五枚の紙包み)であった。一つ、二つ、三つと切り餅を畳の上に並べていく。最終的に四つの山を三つ作ったところで手が止まった。
「三百両あります」と言い放つ嵐子。厳四郎とお滝は揃って青くなっている。
「お、おい、お嵐。こんな大金、どこから? お前まさか」
「ち、違いますよ。決して物騒なことはしてません。江戸で川越藩からちょっと・・・」
「えっ、お嵐ちゃん。あんた、たった五日、いや、四日半で、江戸まで行ってきたって言うのかい?」
「はい」
「まあ、こ奴の足ならそれくらいは。しかし、これだけの金額、殿様でも脅したか」
「いえ、さすがに上屋敷は警備が厳重で。ですから、下屋敷のあの江戸家老の手文庫から拝借してきました。前に滞在したとき、一応、何がどこにあるかくらいは調べておきましたから。厳四郎様の左腕の補償金と思えば、罰は当たりませんよね」
「はっははは、お前って奴は・・・」
「ちょ、ちょっとお待ちよ。川越藩って、今を時めく柳沢出羽守様じゃないか。あんたら一体、何をしたんだい?」
「それは・・・」
「い、いや、言わなくていいよ。聞かない方がよさそうだ」
お滝はさらに顔色を悪くしているが、そこは無頼の徒から役人まで軽く手玉に取っている宿場の女顔役だ。逃げ出すようなことはない。
「まったく、あんた達は。で、厳四郎さん、どうするんだい? この子の提案、受けるか受けないか。あんたが受けるなら、出来るだけの支援を約束しようじゃないか」
お滝にそう迫られ、厳四郎が居住まいを正した。そして、嵐子の目を真っ直ぐに見た。
「お嵐、本当にそれがお前のやりたいことなのか」
「はい」
「そうか。なら、一緒に都に行こう。俺は画は描けんから、店の帳面付けでも習うとしよう。用心棒でもいい。地回りくらいなら右腕一本でも負けはせんよ」
「はい」
嵐子の泣き出しそうな笑顔を見て、お滝が自分の膝をパンと打った。
「決まりだね! よし! じゃあ、出発前に祝言だ」
「えっ?!」
「えって何だい? お嵐ちゃん、今の関係のままで都に行くつもり? あんた馬鹿?」
「お、女将さん・・・」
「やっぱりね。放っておいたら、いつになるか。いいかい。あたしはあんた達の命の恩人だよ。言うことを聞きな。厳四郎さん、あんたはどうなんだい?」
厳四郎は即答した、「異存ござらん」と。
嵐子は心臓が口から飛び出るかと思うほど驚いた。愛があれば身分差など関係ないと簡単に言える時代に彼女は生きていない。
厳四郎は、不遇な環境にあると雖も藩主家の人間である。その体には、剣聖・柳生石舟斎、さらには三代将軍の側近として辣腕を振るった初代藩主・柳生宗矩と同じ血が流れている。
「げ、げ、厳四郎様、よ、よろしいのですか」
「ああ」
「さて、お嵐ちゃん。あんたはどうする?」
「あたし・・・」と言ったきり、嵐子は俯いた。膝の上でぎゅっと握った両の拳がかすかに震えている。お滝もここは答えを急かさない。厳四郎と共にじっと待つ。しばらくすると、嵐子が顔を上げた。そして、お滝が予想した通りの答えを口にした。
「はい。よろしくお願いします」
それから半月ほど経ち、嵐子と厳四郎が都に向けて発つ朝がきた。それだけの日数を要したのは、厳四郎の傷の回復を待つと共に、通行手形や商売を始めるために必要な諸々の書類を用意していたからだ。
まったく。あの二人、昨夜は上手く出来たのかしら?
お滝は出発前に挨拶に来たときの二人のバツの悪そうな様子を思い出し、笑いを堪えながら少しずつ小さくなる二人の背中を見送っていた。
「しっかし、女将さんも物好きだなぁ。身元保証人まで引き受けてやるなんて。都で扇屋って、上手く行くとは思えませんけどねぇ」
「こら、縁起の悪いこと言うんじゃないよ」
お滝は源八の後頭部を軽くはたくと、帯に差した白扇を抜き、パッと開いて彼に渡した。
「何です? 富士の画? えっ、これ、そこの川岸の荷下ろし場じゃないですか。見たまんまですよ。すげぇや。まさか、これをあの娘が?」
「そうだよ。見事な腕だろ。ほんとに面白い子だよ。あたしが宿屋稼業を続けているのはね、ああいうとんでもない人間とたまに出会えるからなのさ」
「えっ、そうなんですか。てっきり男漁りに都合がいいからかと」
「この馬鹿!」
嵐子と厳四郎の夫婦は、厳四郎が変名に使っていた青柳の姓をそのまま用いることにした。半年後、二人は、洛中と呼べるエリアの南端、九条通沿いに小さな扇店を出した。東寺(教王護国寺)の五重塔を間近に望める場所で、店名は青嵐堂。
都人というのは表向き伝統墨守のように見え、実は新しい物に目がない。嵐子の描く細密な名所絵はたちまち評判を呼んだ。店は急成長。わずか五年で京都の一等地、四条通のど真ん中に間口八間(約十五メートル)の大店を構え、二十名を越す奉公人と職人を抱えるまでになった。
さらに言えば、孫の一人が分家して江戸に出店。幕府の御用商人にまでなるのだが、それはまた別の話である。
なお、京都にも妖怪かまいたちの伝説が残っている。なぜか青嵐堂の開店から約三十年の期間に多いようだ。
その妖怪は、闇夜に一陣の風に乗って現れ、凄まじい切り口を残して人の命を奪った。ただし犠牲者は、二、三の例外を除き、高利貸しや悪徳商人、不正役人など、庶民の敵に限られていたと伝わる。
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毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
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