狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

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第33章 犬神退治

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 元禄十一年(一六九八年)も十一月となった。勅額火事から二ヶ月、市中には焼け跡そのままの場所もまだ多いが、浜屋敷の庭園は別世界の如く紅葉に彩られて美しい。一度ゆっくりこの庭を画に描きたいと思うが、狩野吉之助にそんな暇はない。

「どうしたのですか。なぜ止まったのですか」
「はっ。見て参ります」

 甲府藩主の正室・近衛熙子が乗る駕籠の右側から相棒の島田竜之進が駆け出した。吉之助と竜之進のこの日の仕事は、芝の増上寺に参る熙子の護衛である。

 増上寺は、寛永寺と並ぶ徳川将軍家の菩提寺。熙子は幼少時、母方の祖父である後水尾上皇とその后・東福門院(徳川和子)、そしてお二方の御娘たる明正天皇にとても可愛がられた。
 東福門院は二代将軍秀忠の五女であり、増上寺には彼女の両親が眠っている。その関係で、熙子は年に一度増上寺に参っていた。

 今はその帰路である。増上寺から浜屋敷までは半里(約二キロメートル)もない。増上寺の大門を出て北に折れると長い一本道となり、すぐにも浜屋敷の御殿群の瓦屋根が見えてくるという位置関係だ。

「申し上げます。前方で他家の行列が道を塞いでおります」と、竜之進が熙子に報告した。
「どこの行列です?」
「はっ。赤穂藩の奥方様の行列でございます」
「赤穂、播磨の? どこの家でしたか」
「はい。芸州浅野様のご分家と存じます」
「そんな小大名が、わたくしの行く手を塞ぐとは。無礼な。蹴散らしてしまいなさい」

「御前様、どうかお怒りをお鎮め下さい。私が事情を聞いて参ります」と、今度は左側から吉之助が駆け出した。

「御前様、ご報告いたします。犬神憑きと称する不逞の輩が数匹の犬を連れ、浅野家の行列に絡んでおります。浅野の家臣が犬を退けようとしたところ、刀の鞘が犬に当たったとのこと。そこでさらに、御犬様に無礼を働いた家臣を引き渡せ、奥方様に駕籠から出て謝罪せよと無理難題を。浅野家としても、一本道で脇道に避けることも出来ず、難渋しているようです」

 生類憐れみの令に支配された元禄江戸の町、悪法を逆手に取って利益を得ようとする者も少なからずいた。
 そして、この場は、進行方向の右側には大名屋敷の塀が続き、左側にはびっしりと商家が軒を並べている。確かに逃げ場がない。実に巧妙な絡み方だ。

「犬神憑きとな? 面白い。時子をこれへ。外に出たい」
「ご、御前様?!」
 まずい、と思ったが、吉之助はすでに熙子という女主人の性格を理解し始めている。ため息を吐きつつ、熙子の側近・平松時子を呼びに行く。

 大名が江戸市中で行列を組む場合、家格によって異なるが、十名から二十名というのが相場である。大名の正室もそれに準ずる。

 しかし、熙子の行列は、平均を大きく超える総勢三十名。警護の武士、荷物持ちの中間なども多いが、熙子の世話をする侍女の数がさらに多かった。侍女は全員揃いの打掛姿。熙子の乗る駕籠は、その華やかな一団を従え行列全体の中央に位置する。

 彼女が外出時に用いる駕籠は季節ごとに分けられていた。秋用のものは、梨地に秋草の総蒔絵、前後左右に三つ葉葵の金紋。ひと目で、尋常ならざる貴婦人がその中にいると知れる豪華な装飾であった。

 平松時子は自分の朱塗りの駕籠から出るとすぐに主の駕籠脇へ。履物を用意しながら、やはりため息をひとつ。
「まったく、言い出したら聞かないのですから。姫様、よろしいですか。くれぐれも下々に対し、直にお言葉をかけてはなりませんぞ」
「分かっておる」
「狩野殿、島田殿。姫様のお傍を決して離れぬように」
「かしこまりました」

 熙子は、銀鼠色の地に紅葉と銀杏を散らした打掛姿。この日は寺参りであるから地味な装いにしたつもりだが、あくまで、彼女にしては、ということだ。通りに立てば、そこだけに光が差したように見えた。

 時子の目配せで侍女が二人、素早く熙子の両脇に付いて着物の裾を持つ。そして、竜之進が前に立ち、吉之助が熙子の左側に位置して進み始める。

「皆の者、控えよ! これなるは、恐れ多くも、甲府中納言様の御前様であられる。顔を上げるな。お姿を見てはならぬ」

 竜之進の声に一驚したのは浅野家の家臣たちだ。慌てて脇に寄って平伏。その様を見て、沿道の人々も一斉に土下座した。

「こら! 犬神憑きとその一党、平伏せよ。無礼討ちにいたすぞ」
「だ、だ、黙れ。わ、我は犬神様の化身なるぞ。この者らも犬神様の御使じゃ。甲府中納言が何だ。お前たちこそ頭が高い」

「正気か。おのれ等、本当に死にたいのか」
 竜之進は、呆れつつも気が気ではない。出府以来、際どい場面は何度か経験しているが、まだ人を斬ったことはない。そして常々、初めて人を斬るときは、正々堂々、武士同士の斬り合いが望ましいと思っていた。

 しかし、背後から熙子が、斬れ、と一言発すれば是非もない。間髪入れずに斬らずばなるまい。竜之進は、最初に倒すべき相手を見定め、刃の軌道とその次の動きを思い描きながら、すっと刀の柄に手を掛けた。

 その時である。吉之助が前に出てきた。
「竜さん、代わろう。おい、犬神憑きとやら、そなたは神なのか。人なのか」
「神である」
「ほう、神か。犬の神は人語を解するのか」
「当たり前だ」

「では尋ねる。今、そなたの横で吠えた犬は、何と言ったか」
「なに?」
「犬だよ。その犬は何と言った? 犬の神なら、当然、犬の言葉も解るだろう。通訳をしてくれ」
「無礼な人間ども、そこに控えろ。犬神様を敬うべし、と言ったのだ」
「何だと? ワンワンと二声吠えるだけで、それだけのことを伝えられるのか。それでは、犬は人より賢いではないか」

 沿道のあちこちで笑い声が漏れる。吉之助は、「嘘も大概にせよ! 御公儀の御触れを逆手にとっての悪行、許しがたい!」と一喝。薄汚れた犬の面を頭に載せ、ボロをまとった男に歩み寄ると、その頬桁を思い切り殴った。

 犬神憑きは一間(約一・八メートル)ほど吹っ飛んで気絶。安っぽい神主姿の仲間二人は、吉之助がひと睨みすると崩れ落ちるように土下座した。
 そこで、騒ぎを聞きつけたか、町方の同心らしい侍が駆けて来た。吉之助は彼を呼ぶと、簡潔に事情を説明して後を託した。

「面白い見世物でした。狩野、上出来です」
「恐れ入ります。御前様、どうかお駕籠にお戻り下さい。あっ、こら、そこ、顔を上げるな。お姿を見てはならぬ」
「ふふふ、よいよい。童ではないか」

 その時、浅野家の奥方が侍女に伴われて熙子の前に来た。二人は路上も構わず平伏。
「甲府中納言様の御前様とお見受けします。ご無礼の段、平に、平にお詫び申し上げます」
「そなたは?」
「はい。播州赤穂藩主・浅野内匠頭が室・阿久里と申します」

 阿久里は、芸州広島浅野家の分家・備後三次藩の姫である。この時二十六歳。夫である内匠頭長矩とは分家同士の縁組で、仲睦まじい夫婦であった。

「あの様な狼藉者に対し、弱気に過ぎます。内匠頭殿は先般の火事に際して随分と働いたとか。夫の盛名を損なわぬよう、気を付けなさい」

「恐れ入りました。肝に銘じます。また、先般の火事における内匠頭の働きをご承知の由、光栄に存じます。内匠頭は常々、帝より賜りし勅額を守護された中納言様こそ、武士の鑑であると申しております」

「まあ、お上手なこと。気に入りました。浜屋敷はすぐそこです。ついて来なさい」
「は?!」
「それ、打掛に土が。すぐに払った方がよいでしょう。ついでに、お茶でも如何かしら?」

 熙子と阿久里は大名の正室という点では同じだが、格が違い過ぎる。日頃の交際範囲にお互いの存在はない。当惑する阿久里。彼女の侍女も下を向くばかりだ。

 見かねて時子が主をたしなめる。
「姫様。そのような急なお誘い、浅野様には却ってご迷惑でございますよ」
「そうなの?」と熙子。試すような目で阿久里を見る。すると、阿久里がすっと顔を上げて微笑んだ。
「いえ、決して。直々のお招き、家門の誉れと存じます。喜んでご一緒させていただきます」

 吉之助は熙子の横で片膝を付いてこの様子を見ていた。この浅野家の奥方様も熙子の好みに違いない。熙子が大輪の牡丹とすれば、阿久里は雪割草のようだ。姿は可憐だが、早春、まだ雪の残る山野で花を咲かせる強さを持っている。

 熙子が満足気な顔で駕籠に戻ると、吉之助は一度先頭から最後尾まで行列の状態を確認。さらに後続する浅野家の行列の準備も整ったことを見て声を張り上げた。
「ご出立!」
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