狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

文字の大きさ
上 下
25 / 94

第23章 大根の葉

しおりを挟む
「よく働きますね」
「ああ、いい景色の夫婦だ」

 夏の朝、隅田川の河口近く、鉄砲洲の裏店の小さな八百屋で、若い夫婦がその日の商いを始める準備をしている。妻は夫が仕入れてきた野菜を選り分け、店で売る分を手際よく張り出し台の上に並べる。夫は、店の前を掃き清めた後、棒手振り(行商)に出る用意を始めた。

 吉之助と竜之進は、それを向かいの空き家から見ていた。

 八百屋の夫婦は、どちらも二十代半ば。恰好も身分相応で、ぱっと見、つましく生きる普通の町人夫婦である。しかし、よく見ると違う。女の方が違う。派手さはないが、楚々とした美人である。潤いのある白い肌、茄子や胡瓜を選り分ける白く細い指に目を奪われる。掃き溜めに鶴とは、正にこういうことであろう。

 名も、つる、という。

 しばらくすると、彼女が、素朴な波佐見焼の小皿に握り飯を四つ載せて持ってきた。大根の葉を塩漬けにして刻み、前夜の残り飯に混ぜて握っただけのものだが、これがひどく美味い。竜之進など、今やこれを楽しみにここにいると言っていい。

「狩野様、島田様、お早うございます。これ、毎日同じで済みませんけど、朝餉にどうぞ」
「かたじけない」
「あの、今更でございますが、本当に来るのでしょうか」
「恐らくな。おつる殿、油断しないことだ」

 話は四日前に戻る。

 主君・松平綱豊が将軍綱吉に代わって鶴御成を実施すると決まり、甲府藩では、すでに用人・間部詮房を中心に準備に取り掛かっている。鷹狩を行う狩場の下調べ、儀式・行事の研究、参加を呼び掛ける大名や旗本の選定など、大変な作業量である。

 吉之助と竜之進も、当然、間部の手足となって日々働いていた。そして、九月に入ってすぐのある日、間部から、唐突に外での食事に誘われたのである。御前様の前でしどろもどろになっている彼を見て、この完璧居士にも弱点があるのか、と若干ではあるが、親しみを増していたところなので、喜んで誘いを受けた。

 場所は築地本願寺門前、精進料理で有名な高級料亭。

 二人が店に着くと、すでに間部は来ていた。三人での会食となれば、当然、間部が上座を占める。しかし、間部は下座にいた。上座には、見たことのない武家の婦人がお付きの女中を従えて座っている。主従ともぴんと背筋が伸び、行儀作法のお手本のような座り方である。

 吉之助と竜之進は顔を見合わせた。甘かった。しかし、今更引き返すわけにもいかない。

「狩野殿、島田殿、こちらに」と、間部が自分の横を指した。
「はっ」
「こちらは、奈良奉行を務める大久保若狭守様の奥様・澄江様です」

 吉之助と竜之進は一度姿勢を正した後、深々と頭を下げた。すると、お付きの女中が奥様・澄江の耳元で、何かぼそぼそと言い始めた。澄江は、先程から目を閉じたままでいる。

「御免なさいね。わたくし、三年ほど前から、目を悪くしておりまして。最初は、それ程でもなかったのですが、今ではほとんど何も・・・」
「妻から聞いております。しかし、そこまでお悪くなっていようとは。色々とご不自由でしょう」
「はい。それで、此度のことも、家の恥と知りながら、あなた様のお手を借りねばなりません」

 澄江は極めて聡明な女性のようだ。よどみなく整然と状況を説明してくれた。

 曰く、高級旗本・大久保家には、一馬という嫡男がいる。歳は二十。文武両道に優れ、将来を嘱望されてきた。ところが、一年ほど前から、友人と悪所通いをするようになった。当初、若者にはよくあることと大目に見たのが悪かった。彼は、一人の遊女に夢中になってしまったのだ。女の名は、舞鶴。色の白い楚々とした美人であった。

 一馬は、いずれ三千石を継ぐ身だ。遊女と一緒になれるわけがない。しかし、女中でも妾でも何でもいい、とにかく、その女を身近に置きたいと思い込み、妓楼の主に身請け話を持ち込んだ。

 舞鶴は、母親の薬代のため、三年の約束で妓楼に入っていた。ただ、遊女の年季などあってないようなもの。借金の元本に食事代、衣装代、交際費などが日々加算され、年季はどんどん延長される。その内に悪い病気をもらい、妓楼から出られないまま短い一生を終えるというケースが多い。

 そんな中、舞鶴の妓楼の主は、店の経営方針として、遊女たちを約束通りの年限で解放すると決めていた。先が見えた方が女たちはよく働く。さらに、店の雰囲気が明るくなって客も喜ぶ、という打算の上ではあるが、比較的善良な男と言える。

 そして、楼主は、舞鶴に将来を誓った幼馴染がいると知っていたから、一馬の申し出も断った。この時、一馬は、ごねるでもなく静かに引き下がったという。そして、何もなかったように店に通い続けた。普通に客として来る分には拒むことは出来ない。

 しかし、半年ほど前から、駆け落ちだの心中だの、不穏なことを口にし出した。舞鶴からそのことを聞いた楼主は、すでに借金分は十分稼いでもらっていたことから、彼女の年季を前倒しで終わらせ、家に帰したのだった。

 舞鶴は化粧を落とし、ただの、つる、に戻った。彼女は、外見は楚々とした可憐な娘だが、実にたくましく、且つ、賢かった。

 家に戻ると、あっと言う間に、幼馴染の新吉と所帯を持ち、裏店に小さな八百屋を開いた。祝言の段取り、新居ともなる店舗の手配、品物の仕入れ先から営業方法まで、新吉ともどもずっと考えてきたのだろう。金で買われて男に抱かれている間も、頭の中でシミュレーションを繰り返していたに違いない。

 楼主は一馬に舞鶴の行方を教えなかったが、はした金で口を滑らす者はどこにでもいる。一馬は、自分を袖にした上、彼から見れば人の範疇にも入らない貧乏町人と一緒になった彼女に激怒した。それだけでは収まらず、金で浪人を雇い、夫婦の殺害を依頼した、というのだ。

「奥様、そのことはどこから?」と、間部がいつもの無表情で尋ねる。
「はい。最初に一馬を悪所に誘った友人が、さすがに、人殺しの計画にまで話が及んだことに恐れをなし、そっと知らせてきました」

「なるほど。一馬殿とはお話になったのですか」
「はい。されど、あの子はもはや正気を失っております。座敷牢にでも閉じ込めてしまいたいのですが、一馬は腕が立ちます。ご承知の通り、主人は奈良に赴任中で、主だった家臣も主人に従ってあちらに。今、屋敷にいる者たちだけでは、あの子を取り押さえることが出来ないのです」

「元遊女の、ましてや、町人の女房など・・・」とまで言って、澄江は一旦口を閉じた。一瞬、見えていない目がかっと開かれた。漆黒の瞳にぞっとするほどの悪意を宿しているように見えたが、本当に一瞬で、気のせいだったかもしれない。彼女は呼吸を整え、後を続ける。

「身分を問わず、江戸に暮らす民は全て将軍家の民。罪人でもない者を、自分勝手に殺害するなど、許されることではありません。ですから、その八百屋の妻女を襲撃者の手から守って欲しいのです。数日でよいのです。数日すれば、主人が一時帰宅する予定です。主人に一度しっかり叱ってもらい、それでも改心せぬなら、廃嫡の上、座敷牢に入れてしまうつもりでおります」

「なるほど、ご立派なお考え。それで、一馬殿が雇ったという浪人者について、何か情報はございますか」と間部。
「人数は一人とのことです。それ以外は何も」
「そうですか。では、一馬殿は、今、どちらに?」
「屋敷におります。何かと用事など申し付け、出来るだけ屋敷から出さないように気を配っております」
「承知しました。狩野殿、島田殿、頼めますか」

 断れるわけもなく、その八百屋夫婦の身辺警護の任について四日目の朝、なのである。

「美味いなぁ。この握り飯は本当に美味い。これ、売ればいいのに」
「馬鹿なことを。ほら、新吉が出るぞ」
「了解。じゃ、行ってきます」
 昼間、吉之助は店にいるおつるを見守り、竜之進は、棒手振りで町を回る夫の新吉に付いて歩く。夜は順番に仮眠を取りながら店を見張るという態勢だ。

 その深夜、満月からわずかに欠けた十六夜の月が、一人の侍の影を通りに映し出す。影は八百屋の前で止まると、左右を確認した後、障子戸にそっと手を掛けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

融女寛好 腹切り融川の後始末

仁獅寺永雪
歴史・時代
 江戸後期の文化八年(一八一一年)、幕府奥絵師が急死する。悲報を受けた若き天才女絵師が、根結いの垂髪を揺らして江戸の町を駆け抜ける。彼女は、事件の謎を解き、恩師の名誉と一門の将来を守ることが出来るのか。 「良工の手段、俗目の知るところにあらず」  師が遺したこの言葉の真の意味は?  これは、男社会の江戸画壇にあって、百人を超す門弟を持ち、今にも残る堂々たる足跡を残した実在の女絵師の若き日の物語。最後までお楽しみいただければ幸いです。

神楽

モモん
ファンタジー
前世を引きずるような転生って、実際にはちょっと考えづらいと思うんですよね。  知識だけを引き継いだ転生と……、身体は女性で、心は男性。  つまり、今でいうトランスジェンダーってヤツですね。  時代背景は西暦800年頃で、和洋折衷のイメージですか。  中国では楊貴妃の時代で、西洋ではローマ帝国の頃。  日本は奈良時代。平城京の頃ですね。  奈良の大仏が建立され、蝦夷討伐や万葉集が編纂された時代になります。  まあ、架空の世界ですので、史実は関係ないですけどね。

南町奉行所お耳役貞永正太郎の捕物帳

勇内一人
歴史・時代
第9回歴史・時代小説大賞奨励賞受賞作品に2024年6月1日より新章「材木商桧木屋お七の訴え」を追加しています(続きではなく途中からなので、わかりづらいかもしれません) 南町奉行所吟味方与力の貞永平一郎の一人息子、正太郎はお多福風邪にかかり両耳の聴覚を失ってしまう。父の跡目を継げない彼は吟味方書物役見習いとして南町奉行所に勤めている。ある時から聞こえない正太郎の耳が死者の声を拾うようになる。それは犯人や証言に不服がある場合、殺された本人が異議を唱える声だった。声を頼りに事件を再捜査すると、思わぬ真実が発覚していく。やがて、平一郎が喧嘩の巻き添えで殺され、正太郎の耳に亡き父の声が届く。 表紙はパブリックドメインQ 著作権フリー絵画:小原古邨 「月と蝙蝠」を使用しております。 2024年10月17日〜エブリスタにも公開を始めました。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

キャサリンのマーマレード

空原海
歴史・時代
 ヘンリーはその日、初めてマーマレードなるデザートを食べた。  それは兄アーサーの妃キャサリンが、彼女の生国スペインから、イングランドへと持ち込んだレシピだった。  のちに6人の妻を娶り、そのうち2人の妻を処刑し、己によく仕えた忠臣も邪魔になれば処刑しまくったイングランド王ヘンリー8世が、まだ第2王子に過ぎず、兄嫁キャサリンに憧憬を抱いていた頃のお話です。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

処理中です...