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第13章 初任務
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江戸の人々は、武士から町人まで、とにかくお稲荷さんが好きである。寿司ではなく信心の方だ。どの町にも四つか五つの小さな祠があった。江戸全体で五千を超えたという。
従って、毎年二月の初旬、江戸中が初午の稲荷祭で大賑わいになる。中でも、関八州の稲荷社の総元締・王子稲荷の祭礼は格別であった。
「あなた。今日はお天気もよさそうです。王子まで行ってみませんか」
狩野吉之助は、前年師走半ばに江戸に到着して以来、新たな相棒・島田竜之進と共に、他家への使いなどの仕事をこなしてきた。また、そうした用事がないときも、出来るだけ町に出るようにしている。何せ十六年ぶりの江戸である。土地勘を戻すには自分の足で歩くしかない。
「そうだな。いや待て。王子はさすがに遠いだろ」
「では、向島の三囲稲荷ならどうですか」
「王子よりはましだが、一日がかりだな。間部様に断ってから出かけよう。そうか。向島なら浅草も近いな。浅草寺の雷門を見せてやろう」などと、朝餉の後、茶をすすりながら夫婦がのん気に話していると、戸口の外から竜之進の声がした。
「吉之助さん、いますか」
「ああ。開いてるよ」
「お早うございます。間部様から呼び出しです。二人揃って、すぐに御用部屋に来て欲しいと」
「分かった。志乃、済まんが・・・」
「勿論です。お勤め第一ですわ」
間部は、いつも通り御用部屋の一番奥の文机の前で端正に座っていた。この男、常から裃を着用している。上下色違いの裃が役人の平服として定着するのは江戸中期も後半になってからのことである。時代を先取りしたファッションリーダーと言えなくもないが、やはり変わっている。
間部は、吉之助と竜之進の姿を見るや、二人が挨拶する暇さえ与えずに立ち上がった。
「御成書院へ参ります。お二人を呼んだのは私ではなく、殿なのです」
御成書院に行くと、甲府藩主・松平綱豊が上段之間に着座し、書見をしていた。如何にも育ちの良さそうな近習が二人、脇に控えている。
「殿。狩野吉之助、島田竜之進の両名、連れて参りました」
「ああ、ご苦労。二人とも、面を上げよ」
主君の前に出るのは三度目だ。御前試合の後、新年行事の機会があった。しかし、その際も、大広間を埋める家臣群の末席でひたすら平伏していただけなので、やはり面貌を確認するに至っていない。
今日は仕事の話である。従って、遠慮なく顔を上げた。ようやく主君の顔をしっかり確認できた。
丸いな、というのが第一印象だ。
幕末、日本に来た外国人が、大名や公家など、貴人は揃って色白で面長であるという印象を残しているが、松平綱豊は、満月のような丸顔であった。さらに、緩やかに弧を描く眉とやさし気な瞳。後で志乃に説明するときは、ぱっちり目を開いたお地蔵さん、と言えばよかろう。
ふと横を見ると、竜之進もまじまじと綱豊の顔を見てしまっている。気持ちは分かるが、さすがに不味い。小さく咳払いした。改めて、二人揃って軽く頭を下げ直す。
「二人とも、江戸には慣れたか」
「はっ」
「本来、もう少し時間をやりたかったが、そうも言っていられなくなった。ひと仕事頼みたい」
「はっ。何なりとお申し付け下さい」
「よし。内藤新宿まで行ってくれ。内藤家の下屋敷に英一蝶という絵師がいる。その者をこの浜屋敷まで連れて来るのだ。父上と懇意であった内藤の隠居の頼みでな。詳しくは、詮房から聞いてくれ」
「かしこまりました」
間部に促されて御前を下がる。吉之助が廊下に片膝を付き障子戸を閉めようとしたところ、綱豊が思い出したように声を掛けてきた。
「そうだ。狩野、あれはどうした?」
「は?」
「あれじゃ、そなたの富士の画じゃ」
「あっ、申し訳ございません。失念いたしておりました」
「仕方ない奴。よい。後で詮房に渡しておいてくれ。ここに掛けて眺めたい」
綱豊は、自分の背後の床の間を指した。御成書院は、藩主が日常的に使う執務室である。しかし、当然ながら、ただの仕事部屋ではない。
将軍の甥、二十五万石の主に相応しい豪華な部屋である。上段下段併せて四十八畳。部屋を囲む襖には華麗な四季花鳥図が描かれている。
床の間も見事だ。壁面の左半分を占める違い棚には精巧な細工が施され、上下四枚ずつの華麗な源氏絵の小襖で飾られている。そして、右半分が床の間。金箔を貼り、その上に松の大木を描いた壁をバックに、三幅対が掛けてある。
それは、吉之助にとって母方の祖父にあたる狩野安信の作品であった。
狩野探幽の末弟で、狩野宗家を継いだ永真安信は、偉大な兄の没後、御用絵師の地位向上や絵師の教育環境の整備に努め、狩野派による画壇支配を完成させた人である。
三幅対の中央は、まるでサーフィンをするように一枚の蓮の花びらに乗る観音菩薩、左は梅と雀、右は柳に燕。軽やかな水墨淡彩。それが部屋全体の絢爛豪華な雰囲気とコントラストを成し、実によい。落款に、「法眼」と入っていることから、晩年の作のようだ。
吉之助は息を飲んだ。ここに私の画を?
「はっ、直ちに」とだけ答え、慌てて障子戸を閉めた。
その後、間部の御用部屋に向かって廊下を歩いていると、横で竜之進が呟いた。
「しかし、驚いたなぁ」
「竜さん、どうした?」
「だって、吉之助さん。殿から直々に御用を命じられたのですよ。驚くでしょ」
すると、前を歩く間部が振り返った。
「お二人、この短期間に随分と打ち解けているのですね」
「家内に言われたのです。共に働くなら他人行儀ではお役目に障る。仲良くするのも仕事の内だと」
「なるほど」
御用部屋に戻ると、間部は、仕事中の部下たちに話を聞かれないよう、自分で部屋を仕切る襖を閉めて座に着いた。文机を挟んで吉之助と竜之進も腰を下ろす。
「狩野殿。英一蝶は、狩野安信の門下だそうですが、ご存知ですか」
「名前だけは。祖父に破門されたのはいつだったか。腕は一級のようですが、何かと問題の多い人物と聞きます」
「面識は?」
「ありません。もしかしたら、昔、祖父の画塾を訪れたとき、顔を合わせたことがあったかもしれませんが、記憶はありません」
「そうですか。今、英一蝶は、奉行所に追われています。公方様の御側室を遊女に見立て、小馬鹿にしたような画を描いたそうです」
「それが公儀に知られた?」
「はい」
「何とまあ」と、竜之進が呆れ顔になる。
「内藤家のご隠居・成定様は、その英一蝶の長年の後援者なのです。問題の画も、成定様のご要望で酒席の座興として描かれた、とのこと。そのため、何とか一蝶を江戸から逃がしたいとお考えです。しかし、柳沢出羽守様は、すでに月番の南町奉行はもちろん、非番の北町奉行まで動かして江戸中の門という門で警戒態勢を取らせています。従って、陸路で江戸を出ることは不可能。そこで、この浜屋敷の船着場から船で安房(千葉県南部)に逃がして欲しい、と。その後は、上総(千葉県中部)にあるご分家の領地で匿うと仰せです」
この段階で、吉之助の政治情勢に関する認識は、ごく表層的なものに限られるが、それでも心配になった。
「事情は分かりました。しかし、よろしいのですか。柳沢様と言えば、大老格老中首座。その方に喧嘩を売ることになりませんか」
「なります。されど今は、譜代の名門・内藤家を、殿のお味方に引き留めておくことの方が重要なのです」
「なるほど。そうであれば、我らはご命令を遂行するだけです」
そこで間部が、横の文箱から一通の書状を取り出した。内藤家の家老に宛てたもので、吉之助・竜之進両名の身分証明と事後の段取りについて記してある、という。
吉之助は、何とも周到な人だ、と思いつつそれを受け取った。同時に、新たな疑問が浮かび、浮かしかけた腰を再び下ろした。
従って、毎年二月の初旬、江戸中が初午の稲荷祭で大賑わいになる。中でも、関八州の稲荷社の総元締・王子稲荷の祭礼は格別であった。
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「分かった。志乃、済まんが・・・」
「勿論です。お勤め第一ですわ」
間部は、いつも通り御用部屋の一番奥の文机の前で端正に座っていた。この男、常から裃を着用している。上下色違いの裃が役人の平服として定着するのは江戸中期も後半になってからのことである。時代を先取りしたファッションリーダーと言えなくもないが、やはり変わっている。
間部は、吉之助と竜之進の姿を見るや、二人が挨拶する暇さえ与えずに立ち上がった。
「御成書院へ参ります。お二人を呼んだのは私ではなく、殿なのです」
御成書院に行くと、甲府藩主・松平綱豊が上段之間に着座し、書見をしていた。如何にも育ちの良さそうな近習が二人、脇に控えている。
「殿。狩野吉之助、島田竜之進の両名、連れて参りました」
「ああ、ご苦労。二人とも、面を上げよ」
主君の前に出るのは三度目だ。御前試合の後、新年行事の機会があった。しかし、その際も、大広間を埋める家臣群の末席でひたすら平伏していただけなので、やはり面貌を確認するに至っていない。
今日は仕事の話である。従って、遠慮なく顔を上げた。ようやく主君の顔をしっかり確認できた。
丸いな、というのが第一印象だ。
幕末、日本に来た外国人が、大名や公家など、貴人は揃って色白で面長であるという印象を残しているが、松平綱豊は、満月のような丸顔であった。さらに、緩やかに弧を描く眉とやさし気な瞳。後で志乃に説明するときは、ぱっちり目を開いたお地蔵さん、と言えばよかろう。
ふと横を見ると、竜之進もまじまじと綱豊の顔を見てしまっている。気持ちは分かるが、さすがに不味い。小さく咳払いした。改めて、二人揃って軽く頭を下げ直す。
「二人とも、江戸には慣れたか」
「はっ」
「本来、もう少し時間をやりたかったが、そうも言っていられなくなった。ひと仕事頼みたい」
「はっ。何なりとお申し付け下さい」
「よし。内藤新宿まで行ってくれ。内藤家の下屋敷に英一蝶という絵師がいる。その者をこの浜屋敷まで連れて来るのだ。父上と懇意であった内藤の隠居の頼みでな。詳しくは、詮房から聞いてくれ」
「かしこまりました」
間部に促されて御前を下がる。吉之助が廊下に片膝を付き障子戸を閉めようとしたところ、綱豊が思い出したように声を掛けてきた。
「そうだ。狩野、あれはどうした?」
「は?」
「あれじゃ、そなたの富士の画じゃ」
「あっ、申し訳ございません。失念いたしておりました」
「仕方ない奴。よい。後で詮房に渡しておいてくれ。ここに掛けて眺めたい」
綱豊は、自分の背後の床の間を指した。御成書院は、藩主が日常的に使う執務室である。しかし、当然ながら、ただの仕事部屋ではない。
将軍の甥、二十五万石の主に相応しい豪華な部屋である。上段下段併せて四十八畳。部屋を囲む襖には華麗な四季花鳥図が描かれている。
床の間も見事だ。壁面の左半分を占める違い棚には精巧な細工が施され、上下四枚ずつの華麗な源氏絵の小襖で飾られている。そして、右半分が床の間。金箔を貼り、その上に松の大木を描いた壁をバックに、三幅対が掛けてある。
それは、吉之助にとって母方の祖父にあたる狩野安信の作品であった。
狩野探幽の末弟で、狩野宗家を継いだ永真安信は、偉大な兄の没後、御用絵師の地位向上や絵師の教育環境の整備に努め、狩野派による画壇支配を完成させた人である。
三幅対の中央は、まるでサーフィンをするように一枚の蓮の花びらに乗る観音菩薩、左は梅と雀、右は柳に燕。軽やかな水墨淡彩。それが部屋全体の絢爛豪華な雰囲気とコントラストを成し、実によい。落款に、「法眼」と入っていることから、晩年の作のようだ。
吉之助は息を飲んだ。ここに私の画を?
「はっ、直ちに」とだけ答え、慌てて障子戸を閉めた。
その後、間部の御用部屋に向かって廊下を歩いていると、横で竜之進が呟いた。
「しかし、驚いたなぁ」
「竜さん、どうした?」
「だって、吉之助さん。殿から直々に御用を命じられたのですよ。驚くでしょ」
すると、前を歩く間部が振り返った。
「お二人、この短期間に随分と打ち解けているのですね」
「家内に言われたのです。共に働くなら他人行儀ではお役目に障る。仲良くするのも仕事の内だと」
「なるほど」
御用部屋に戻ると、間部は、仕事中の部下たちに話を聞かれないよう、自分で部屋を仕切る襖を閉めて座に着いた。文机を挟んで吉之助と竜之進も腰を下ろす。
「狩野殿。英一蝶は、狩野安信の門下だそうですが、ご存知ですか」
「名前だけは。祖父に破門されたのはいつだったか。腕は一級のようですが、何かと問題の多い人物と聞きます」
「面識は?」
「ありません。もしかしたら、昔、祖父の画塾を訪れたとき、顔を合わせたことがあったかもしれませんが、記憶はありません」
「そうですか。今、英一蝶は、奉行所に追われています。公方様の御側室を遊女に見立て、小馬鹿にしたような画を描いたそうです」
「それが公儀に知られた?」
「はい」
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この段階で、吉之助の政治情勢に関する認識は、ごく表層的なものに限られるが、それでも心配になった。
「事情は分かりました。しかし、よろしいのですか。柳沢様と言えば、大老格老中首座。その方に喧嘩を売ることになりませんか」
「なります。されど今は、譜代の名門・内藤家を、殿のお味方に引き留めておくことの方が重要なのです」
「なるほど。そうであれば、我らはご命令を遂行するだけです」
そこで間部が、横の文箱から一通の書状を取り出した。内藤家の家老に宛てたもので、吉之助・竜之進両名の身分証明と事後の段取りについて記してある、という。
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