狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪

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第3章 吉之助の富士(後段)

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 西田は、吉之助が山役人として作成した江戸時代版ハザードマップにひどく感心した様子で、しばらく熟視していた。その後、おもむろに顔を上げ、背後に掛かった富士図に目を向けた。
「これはやはり、絵師としての観察眼と表現力があればこそ、だろうな」

 西田に釣られて吉之助もそちらに目を向ける。
「さあ、どうでしょうか。いずれにせよ、私が今、山役人としてやっていけているのは、富士のお陰ですよ」

 すると、「いや、そこは御新造様のお陰でしょ」と、五平爺が即座に突っ込みを入れた。
「こら、余計なことを」
「それはどういう? 聞きたいな」

 いつもの吉之助なら、そこで会話を打ち切っていただろうが、西田春之丞という人間が持つ、何とも柔らかい雰囲気に、つい口が軽くなった。
「はあ。こうなったら仕方ありません。お話しましょう」

 吉之助は、目を閉じて少し頭の中を整理すると、静かに話し始めた。
「私は、先程お話したように、江戸の御用絵師・狩野常信の次男として生まれました。私には二つ上の兄がいます。しかし、絵師の技量と年齢は関係ない。いつしか、兄やその取り巻きにとって、私は邪魔な存在となり、つまらない諍いを繰り返すようになりました。今にして思えば、私も狭量だったのです。譲るということを知らなかった。結局、家中を静穏に保ちたいと考える父によって、私は遠縁の家に婿養子として出されてしまいました」

「それで甲斐へ」

「はい。父は、元々が己の画技を磨く以外関心のない人です。分かってはいました。しかし、甲府に着いて驚きました。私が婿入りした家は、狩野は狩野でも、もう何代も前に絵画の世界から離れてしまっていたのです。恐らく、父は知らなかったでしょう。ただ、厄介払いさえ出来ればそれでよかったんだ」

 吉之助は、五平爺が黙って差し出した湯呑の茶を一口すすると、話を続けた。
「そして、妻に伴われてこの村に来ました。江戸生まれの江戸育ち、絵筆より重いものを持ったこともないような人間に、この山奥で山役人をやれと。さすがに荒れました。ここは、甲府の藩庁からも遠いし、何かなければ、放ったらかしです。なので、私は仕事もせず、江戸を離れるときに母方の祖父が餞別に持たせてくれた狩野宗家秘伝の絵手本を見て、毎日、画の練習ばかりしていました」

「そんな私に対して、妻は不思議と何も言いませんでした。しかし、半年ほど過ぎた頃でしょうか。その日、絵手本を見て富士を描いていました。すると、いつの間にか洗濯桶を抱えた妻が背後に立っていて、言ったのです」

「あなたは馬鹿ですか、と。驚いて振り向くと、私の目を真っ直ぐ見据えて、もう一度言いました。あなたは馬鹿かと。そして、戸口を指さし、外に出れば本物の富士が目の前にあるのに、なぜ本物を見て描かないのか、と」

「ほう」と、西田も驚いた様子だ。

「外に出ると、妻が洗ったばかりの浴衣を干していました。ちょうど、今と同じくらいの季節です。木綿の浴衣が春風になびく後ろで水田がキラキラと光り、あぜ道にはまだ菜の花も。背景は青々とした甲斐の山々。そして、まだ頂に雪を被った富士がそびえ立っていた。美しい、と思いました」
 
 そこで吉之助は、再び、床の間に掛かる自作の富士図に目をやった。
「それから、毎日外に出て富士を描くようになったのです。場所を変え、季節、時間、天候を変え、毎日毎日、いろいろな表情の富士を描きました。そうしている内に、思ったのです。結局、人は、与えられた環境の中で生きて行くしかないのだな、と。諦めではなく、それも悪くない、と。そこでようやく、山役人として働く気になった次第です」

「なるほど。ところで、役人としての知識はどこで?」

「勝沼にいる先任与力からも指導を受けましたが、この一帯を統括する大庄屋がなかなかの人物でしてね。その者にいろいろ教わりました。あの帳面も、その者と相談しながら作っているのです」

 そこで、五平爺が自慢気な顔で割って入る。
「な、狩野様が今あるのは、御新造様のお陰でしょうが」
「確かにその通りだ。ははは」

 その時、入口の戸が勢いよく開いた。
「ただいま戻りました」
 西田の快活な笑いに輪をかけたような明るい声。吉之助の妻・志乃である。

 志乃は、奥の間に陣取る男たちに構わず、隣村のお産の手伝いから共に帰った女たちに次々と片付けの指示を出す。それが済んだところで、ようやく五平爺に声を掛けた。
「五平さん。お客様と旦那様は、お食事を済ませましたか」
「へい。あっ、これは朝餉だ。しまった。昼飯の準備、忘れとった」
「今からお昼の準備を?」
「へ、へえ」
「いいわ。こちらでやります。あなた、ほうとうでよろしいですか」
「あ、ああ。それで頼むよ」

「志乃様、ほうとうを作るなら、ご一緒させて下さい。人参とごんぼうを持ってきますから」
 一人がそう言うと、他の女たちも次々参加を申し出る。
「そうね。みんな疲れているから、一緒にやってしまいましょう。大鍋で作った方が美味しいしね。南瓜と麺はうちにあるので足りると思う。里芋、誰かないかしら?」

 ほうとう作りの手配を終えると、志乃はさらに吉之助に問うた。
「あなた。お客様はいつお発ちになるのですか」
 それには西田の方が先に、「明日には」と答えた。
「なら、汚れ物を出して下さいませ。今から洗えば明朝には乾くでしょうから」
「いや、どうかお構いなく」と、西田が遠慮しても志乃は逃がさない。
「武士は相見互いでございます。ちゃちゃっと出して下さいな。もよさん、きぬさん、お洗濯はあなた達にお願いしますね」
「はい」

「では、これを」と、西田が無造作に丸めた衣類を少しバツの悪そうな顔で女たちに渡す。
「あれま。こちらのお武家様、お人形みたいに綺麗な顔しとる」
「ほんと、いい男。錦絵の役者みたい。やっぱり、江戸の御方は違うわね。ここらの男どもと来たら、里芋みたいなのばっかり。嫌になっちゃう」
「それを言うなら、女だって大根かごんぼうみたいなのばっかりでないか」と、脇から五平爺が言い返す。
「まあ、失礼しちゃうわ」
「こらこら、いい加減にせんか。お客様の前だぞ」と吉之助。

 すると西田が、野菜を刻む小気味よい音がし始めた台所の方に目をやり、爽やかな笑顔で言った。
「しかし、さすがしっかりした御新造様だ」
「いや、お恥ずかしい。先程お話した経緯もあって、頭が上がりません」
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