狂い蝉

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狂い蝉

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 あの日は、ムカつくほどの晴天だった。
 母が死んで、その虚無感から何をする気力もなくなった俺は、河川敷の土手に寝転がり、灼熱の太陽に照らされながら、眩しい空を見上げて呆けていた。

 『蝉うるせえ……』

 思わず殺したくなるほどに、耳に響いてくる騒がしい鳴き声。
 今すぐ握りつぶして黙らせようか。しかし、それさえも億劫で仕方がなくて、俺はふと思いついたことをポツリと呟いた。

 『ああ……俺が死ねばいいのか』

 高校卒業後、一応定職に付いていたが、母親の介護のために5年ほどでやめてしまった。その母親がいなくなった今、早く仕事を探さねばならない。しかし、学歴も経験もない俺が、そんな簡単に社会復帰なんか出来るのか。
 どうせもうたった一人の家族もいないんだ。蝉ごときに気を揉むくらいなら、自分がこの世界から退場した方がずっと良い。そんな思いで、血迷ったことを呟いた、ちょうどそのとき。

 『おにーさん、何してるの?』

 突然ヒョイっと顔を覗かせた少年に、俺は息を飲んだ。
 この暑いのに一切乱れていない黒い髪。ノースリーブのシャツから覗く華奢な肩と白い肌。見る者を魅了するつぶらな瞳と桜色の唇。

 そのすべてが麗しく、儚く──そして、危うかった。

 俺はそのとき、自分よりも何歳も若いその少年に、心の臓をガッチリと掴まれたのである。

 『もし暇ならさ、俺について来ない?』

 そんな誘い文句につられて引きずり込まれたのは、いわゆる裏の世界。あのときの少年──ナツキは、毎日のように身体を男に売る、いわゆる売り専だった。

 「あっ、あそこのコンビニに車止めて!アイス食べたい!」
 「……腹は大丈夫なんですか」
 「大丈夫大丈夫。そんなすぐ出てこないって」
 「……分かりました。買ってきます」
 「やった!」

 バックミラー越しに見る、無邪気な笑顔に心が安らぐ。誰かの笑顔ひとつでこんな風に思えるなんて、あのときは思いもしなかった。あの日から、かれこれ一年。俺はナツキの専属の運転手として働いている。

 「今日は中まで付いてくんで」

 運転席から振り返るように身体をひねって、買ってきたガリゴリ君をナツキに渡す。ナツキはアイスを受け取りつつ、ご自慢のつぶらな瞳をキョトンと瞬かせた。

 「え、なんで?慎二さん、いっつも一回事務所戻るじゃん」
 「……ナツキさん、最近身体に痣が増えたってオーナーが」
 「……はぁ……あの人はすーぐ余計なこと言うんだもんなぁ」

 ナツキが自らの身体を抱くように腕をさする。悩ましげなため息がいやに色っぽくて、思わず、脳内にとある声が流れた。頻繁に事務所の奥から漏れ出てくる、ナツキの甘ったるい声。それが聞こえるのは、決まって、オーナーが事務所に訪れて来る日。

 「慎二さん?」
 「……っ」

 ぐちゃぐちゃな感情に、いたたまれなくなった俺は、すぐに前に向き直った。そして、咳払いをして気を取り直す。

 「……だから用心しろとのお達しです。なんかあったら、すぐ知らせてください」
 「んー……え、てか、つまり慎二さんにエッチ見られちゃうの?興奮するなぁ~。あ、どうせなら3Pしちゃう?」
 「……勘弁してください。ドアの前で待機です」

 平然と爆弾を投下してくるナツキに少し乱暴な物言いをしながら、俺はサイドブレーキを下げた。

 「ありゃ、なんか怒らせちゃった?」
 「……別に、怒ってないですよ」

 と言いつつ、それっきり黙り込んだ俺の心の内は、きっと勘付かれているのだろう。ナツキは賢い。しかし、それ以上踏み込んでこようとはしなかった。
 




 時間どうりに客が部屋から出てったにも関わらず、ナツキがなかなか出てこない。痺れを切らして中に様子を見に行くと、そこには、ベッドの上で膝を抱えて座ってる痛々しいナツキの姿が。
 身体中に男の体液をまとって、首という首に新たな痣が付いている。

 「あは。プロポーズ断ったら逆上。大分イジメられちゃった」
 「……っ!何で叫ばないんですか!知らせろって言ったでしょう!」

 ヘラっと笑うナツキに、俺は慌てて駆け寄る。放られていたバスローブで汚された身体を拭うなか、ナツキがポツリと言葉をこぼす。

 「最近多いんだぁ。身請けしたいって。まったく、いつの時代のこと言ってんだろうねー。誰も俺のこと、本気で愛してなんかいないくせに」

 ナツキの弱音を初めて聞いた気がした。

 「でも、どうだろ。身請け金入ったら、オーナー大喜びかな?あの人お金大好きだし。ねえ、慎二さん、どう思う──」
 「──ろ」
 「ん?慎二さん?」
 「逃げろ」

 気づけば俺は、尻ポケットからボロボロの財布を取り出し、ナツキの手に握らせた。いつもヘラヘラ笑ってるナツキの弱いところに触れて、何もしないではいられなかった。

 「これで逃げろ」

 繰り返す俺に、ナツキは面を食らった顔をする。

 「え……慎二さん?何言ってんの?」
 「そんなに入ってないけど、これ使って出来るだけ遠くまで逃げて、それから働けば良い。今度はまともな仕事で稼げ」
 「は?い、意味わかんないんだけど……てか、まともって……そんなの今さら無理に決まってんじゃん。それに俺には借金が──」
 「俺が払う」
 「──え?」
 「残りは俺が一生かけてでも払う。それでお前は自由だ」
 「は……?なにそれ……俺いなくなったら、慎二さんもう運転手じゃいられないんだよ?それが何を意味すんのか、分かってんの?」
 「……分かってる。だから、今すぐ逃げろ。早い方がいい」

 そう言うと、ナツキはカッと顔を赤くして、俺の胸を押しやった。ベッドに倒れた俺に覆いかぶさったナツキが、そのまま胸ぐらを掴む。その手は、険しい顔とは裏腹に、痛々しいほどに弱々しかった。

 「分かってないよ!今度は慎二さんが、今の俺みたいなことしなきゃいけないんだよ⁉︎」
 「ああ、分かってる」
 「分かってないっ!なんで!なんで俺なんかのためにそこまでっ……」
 「お前は俺に生きる理由をくれた」

 唯一の肉親だった母親を亡くし、生きる理由を失い、ぽっかりと空いた心の隙間に、ナツキは入り込んできた。
 アイスが食べたいだの、焼肉を奢れだの、そんな簡単なことばかりでも、俺にとっては生きる道しるべのようなものだった。ナツキの見せる無邪気な笑顔に、どれほど救われたか分からない。
 だから、生きたいと──ナツキと過ごす毎日のために生きていたいと、そう思ったんだ。たとえ、一方通行でも。

 胸ぐらを掴む小さな手に、俺のをそっと添えれば、ナツキはビクッと震えて、そのまま手の力を抜いた。

 「訳わかんないよ……」
 「俺は人の為じゃないと生きられない性分なんだ」

 前までは母の為だった。これからはナツキの為に。一緒に過ごすことは叶わなくても。ナツキのためなら。

 「……はは、なにそれ。慎二さんって、ほんと面白いよね」
 「……」
 「……バカだよ。俺なんかほっといて、自分の幸せ見つければいいのにさ。……本当にばか、ばかばかばか」
 
 ナツキは「ばか」と繰り返しながら、ポスっと俺の胸に頭を預けた。

 「そんなに言ってくれんならさ、一緒に逃げてよ。慎二さん」




 「蝉うるさいねー。蝉って夜も鳴くんだっけ?」
 「……鳴かねえ。最近暑すぎて、感覚狂ってんですよ」
 「ふーん……俺と一緒だ」

 ふと、ナツキは足を止めた。
 河川敷の橋の上。いつだか俺たちが出会ったあの場所が、下に見える。

 「ナツキさん?」

 呼びかけると、ナツキは俺は背を向けて欄干の方を向いた。

 「俺ね」

 月に手をかざしたナツキが、ポツリと呟いた。

 「十五のときに、親に捨てられたんだ。俺バカだったから、国に助けてもらおうなんて思いつかなくて、こっちの世界に来ちゃた」

 その手はまるで、月の住人に助けを求めるかのごとく、真っ直ぐと輝く満月へむかって伸ばされた。

 「お先真っ暗。いつまで経っても明けない夜。最初は苦しいって思ってたのに、そんな感情もどっかにいっちゃった。俺、狂っちゃったんだ……狂って狂って、朝も夜も関係なく、啼くの」

 月光が照らすナツキの頬に、一筋の涙が伝った。

 「ねえ、下、川だね」

 ナツキは涙を拭い、欄干に手をかけて、その上に座った。俺の方へ向き直ったナツキは、悪戯っ子のような笑みを見せた。

 「慎二さん。貴方は、俺にとって最初で最後の人だよ」

 何の、とはナツキは言わなかった。俺もそれで良いと思った。未練は残さない方が良いから。

 「初デートのお誘いだけど、断ってもいいんだよ?」
 「……断るわけないだろ」

 (覚悟は決めた)

 俺はは軽々と数十センチ幅の欄干に上り、手を差し出した。

 「お手をどうぞ」
 「ふふっ、何キャラ?」

 珍しく戯けてみせた俺の手を取り、ナツキも立ち上がる。
 生暖かい風が、弄ぶように、二人の足元に吹いた。

 「慎二さん……名前、呼んでくれる?」
 「ああ。ナツキ──夏生」
 「うん……うん。慎二さん……あったかいや……」

 俺と夏生は身を寄せ合って、示し合わせたかのように同時に身体を傾けた。
 底のないベッドの上で抱き合うような、そんな感覚。胸に抱く夏生の重みにどこか心地良さを感じながら、嗅覚に全神経を集中させた。
 生い茂る緑のにおい、湿気を帯びた土のにおい、そして──夏生の香りを、心残すことなく堪能し、ジワリと涙腺から溢れた滴が、宙を舞った。

 (嗚呼──これで、俺たちの夜が明ける)

 これでもう、蝉の声は聞こえない。


END
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