先生、おねがい。

あん

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 思ったよりも早く学校に着いて、まだ人通りのない廊下を歩いていると、前方から人が歩いてきた。

 高い身長にスラリとしたスタイル。誰よりもスーツが似合うその人を見た瞬間、ドキッと胸が跳ねる。


 「おはよう」

 「おはよ、ございます」


 なんだか気まずい挨拶。俺は目も見ずに頭を下げて、早々にこの場を立ち去ろうとした。だって、まともに顔を見られたら、きっとバレてしまうから。


 「──心、待って」

 「な、何ですか?」

 
 パシッと腕を取られ、俺は顔を逸らしながら腕を引いたけど、逆にもっと引き寄せられて、先生のもう片方の手で顔を上げさせられてしまった。


 「心……その目、どうした?」

 「……っ」


 (やっぱりバレちゃった……)


 それもそのはず。昨日たくさん泣いたせいで、俺のまぶたは腫れに腫れているのだ。
 

 「何でもないです……」

 「心」

 「先生……名前、駄目です」


 誰かに聞かれたら困るっていうのもあるけど、これ以上俺の大好きな声で名前を呼ばれたら、決心が揺らいでしまいそうで、やめて欲しかった。


 「……望月。ちゃんと教えて、その目どうしたの?」


 そのくせ、いざ名字で呼ばれたら寂しいなんて、俺は本当に浅ましい。

 俺は一度唇を噛み締めてから、嘘をつくために口を開く。それは、どうしようもない、非現実的な幻想のような嘘。悲しくて虚しい真っ赤な嘘。


 「お、お父さんと暮らせるのが嬉しくて……舞い上がっちゃって……」

 「……本当に?」


 (ううん、違う……悲しくて泣いたの)


 「はい……昨日は、お父さんとハンバーグを食べたんです。美味しいって言ってくれて……すごく嬉しかった……やっぱり、お父さんと一緒にいられるって、すごく幸せです」


 (違う。先生といられるのが、俺にとって何よりも幸せだった)


 「せんせ……俺、もう大丈夫です。だから、もう、俺のことは気にしないでください……」


 そう言うと、先生の手の力が弱まって、俺はその手から腕を抜いた。

 先生の優しさにすがっておいて、いざ父親と上手くいったら手のひらを返すなんて、酷い子どもだと思うだろう。ずいぶん恩知らずな子どもだと思ってくれていい。自己中心的な子どもだと罵ってくれていい。

 
 (だけど、どうか、幸せになって欲しい)


 あの人と……希さんと、幸せな家庭を築いて、子どもが出来て。いつか、俺もその子と会えたら嬉しい。親戚のおじさんだよって紹介されて、そういえば一緒に住んだ日もあったねって懐かしむ。

 そんな風にいつか、先生と過ごしたこの数週間が、昔の思い出になりますように。
 
 


 
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