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5巻【一】
7 じゃあこっち来てください
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「えっちょっと待って」
朔也は慌てて字典を引っ張り出した。切磋琢磨は「切」だけ画数が少ないから、そこは少し太めにすべきだと思うが、他はあまり書かない字だ。朔也の好きな『曹全碑』にもそれらの文字はない。
「えーと、ちょっと待てよ。これは練習しないと駄目だ」
字典を横に置き、朔也はピンでびしっと前髪を留めた。直接筆を入れるタイプの墨汁を開けると墨のにおいがする。呼吸を鎮め、動揺を落ち着ける。手にした筆に墨を吸わせると、朔也は紙に筆を落とした。
逆筆で入れて一画目は横にまっすぐに、二画目と三画目は縦と横をバラバラに。旁は止めを太めにして字に厚みを出す。半紙一枚全てに「切」の字を少しずつ変化をつけながら書き、とりあえずと横に置いてすぐに「磋」の字に入った。だが、案外こちらのほうがやりやすい。石偏も差も、朔也の好きな四角があって横三列均等な感覚で書くのは隷書の感覚を取り戻してくれる。最後の一画に波磔を出すと、いかにも隷書という気分になってテンションがあがった。「琢磨」も案外書きやすかった。横線が多くて最後が払いで終わる「琢」に、同じ「木」が並んでいる「磨」も、隷書の特徴である平らな雰囲気を存分に出してくれる。
今度は半紙に切磋琢磨の四文字を並べていく。書いているとどんどん書道に没入していくのが分かった。楽しい。ちょっと指先の動きを変えるだけで違う雰囲気を出せる。切磋琢磨。まさにこうやって書いて書いて書いて、努力を重ねることが未来の自分の字に繋がる。
半紙の狭い世界で伸び伸びとした線を書くのは、書道パフォーマンスの大きな紙に向かっているのとは全然違う。半紙の四隅の把握。今日立ち向かうのはこの大きさの世界だ。線と線が繋がって文字へ、文字と文字が繋がって言葉へ、言葉と言葉が繋がって文へ、そうやって書いた文章が人の心を打つ。余白の白さと文字の濃墨のバランスが紙の上での字を生かす。ああやっぱり、人の心に響く書を書きたい――そこで誰のために書いているかを思い出してはっとした。顔をあげると、じっとこちらを見ていた山宮と目が合う。
「ごめん! 山宮がいることを忘れてた」
夏の部屋と同じ台詞を言うと、またも山宮は笑った。
「そうなんだろうなと思ってたわ。相変わらずのすさまじい集中力」
「でもごめん、もうちょっと書いていい? まだベストじゃない」
ん、と言う山宮の了解を受けて筆を握り直す。
この切磋琢磨は山宮へ贈る言葉だ。山宮は自分と切磋琢磨していくことを望んでいる。未来の山宮と自分へ贈る言葉。山宮の心に響く字はどんなイメージだ? 受験を応援するとはどんな気持ちだ? 夢を追いかける山宮を応援するように、自分も夢を追いかける気持ちで筆を動かす。
一枚書くとそれまでよりも線が太くて元気で明るい印象になった。だが、これを見るはずの山宮は優しく穏やかな字で癒されることを望んでいるかもしれない。そう思うと今度はやわらかく優しい線の流れになる。四枚書いたが納得がいかない。五枚目の最後の石の一画の筆を抜いたところでようやく脱力した。
「山宮……これでいい? これが今のベスト。山宮への応援の気持ち」
紙を持ち上げて山宮の方向に向けると、山宮は「すげえな」と紙を見つめ、積み上がった反古紙も見る。
「やっぱり目の前で見てよかった……この一枚に今の全ての時間が詰まってんだろ。ただ一枚をはいって渡されただけじゃ分かんねえ努力が分かる」
山宮はまだ乾ききっていない紙を朔也の手から受け取った。
「これ……見るたびに今のお前の様子が思い出せるわ。俺も頑張ろうって思える。ホントにありがとう」
呟くような山宮の声にほっとし、朔也は反古紙で筆の墨を片づけ始めた。
「半紙ホルダーっていう折らないで持って帰れるものがあるから、あげるよ。乾いたらそれに入れたら」
すると山宮が「サンキュ」と嬉しそうに顔をあげた。
「お前が夏に書いてくれた名前、八つ切りってサイズって言ってただろ。調べて掛け軸みてえに飾れるように台紙に貼った。俺の名前を緑にしてお前の名前を茶渋っぽい色。すげえいい感じ」
緑は山宮の好きな色、そして茶渋と言ったのは朔也の髪の色に合わせたのだろう。朔也は山宮の部屋でその作業を行う様子を思い描いた。興味がなければ捨てるだけのただの紙でしかないのに、ちゃんと作品として扱ってくれている。それが嬉しい。
被っていた服を脱ぐと、ちょっと筆を洗ってくるねと言って後始末をしてから部屋に戻る。山宮はまだ嬉しそうに半紙を眺めていて、朔也は反古紙もまとめて道具一式を紙袋に戻した。
「じゃあ山宮先輩、次は約束していたスマホでの映画鑑賞です。こっちに来てください」
壁に背をつけてベッドにあぐらを掻き、両手を広げる。自分の前に座れ、の意味だ。警戒アラートがどうのと言って山宮が嫌そうな顔つきを見せるかと思ったが、予想とは逆ににぽすっと朔也の前に座った。それどころかこちらに寄りかかってくる。ちまっとした体がくっつくと、冬から薄くなった服の布越しに骨の硬さと体の温かさが伝わってきた。
朔也は慌てて字典を引っ張り出した。切磋琢磨は「切」だけ画数が少ないから、そこは少し太めにすべきだと思うが、他はあまり書かない字だ。朔也の好きな『曹全碑』にもそれらの文字はない。
「えーと、ちょっと待てよ。これは練習しないと駄目だ」
字典を横に置き、朔也はピンでびしっと前髪を留めた。直接筆を入れるタイプの墨汁を開けると墨のにおいがする。呼吸を鎮め、動揺を落ち着ける。手にした筆に墨を吸わせると、朔也は紙に筆を落とした。
逆筆で入れて一画目は横にまっすぐに、二画目と三画目は縦と横をバラバラに。旁は止めを太めにして字に厚みを出す。半紙一枚全てに「切」の字を少しずつ変化をつけながら書き、とりあえずと横に置いてすぐに「磋」の字に入った。だが、案外こちらのほうがやりやすい。石偏も差も、朔也の好きな四角があって横三列均等な感覚で書くのは隷書の感覚を取り戻してくれる。最後の一画に波磔を出すと、いかにも隷書という気分になってテンションがあがった。「琢磨」も案外書きやすかった。横線が多くて最後が払いで終わる「琢」に、同じ「木」が並んでいる「磨」も、隷書の特徴である平らな雰囲気を存分に出してくれる。
今度は半紙に切磋琢磨の四文字を並べていく。書いているとどんどん書道に没入していくのが分かった。楽しい。ちょっと指先の動きを変えるだけで違う雰囲気を出せる。切磋琢磨。まさにこうやって書いて書いて書いて、努力を重ねることが未来の自分の字に繋がる。
半紙の狭い世界で伸び伸びとした線を書くのは、書道パフォーマンスの大きな紙に向かっているのとは全然違う。半紙の四隅の把握。今日立ち向かうのはこの大きさの世界だ。線と線が繋がって文字へ、文字と文字が繋がって言葉へ、言葉と言葉が繋がって文へ、そうやって書いた文章が人の心を打つ。余白の白さと文字の濃墨のバランスが紙の上での字を生かす。ああやっぱり、人の心に響く書を書きたい――そこで誰のために書いているかを思い出してはっとした。顔をあげると、じっとこちらを見ていた山宮と目が合う。
「ごめん! 山宮がいることを忘れてた」
夏の部屋と同じ台詞を言うと、またも山宮は笑った。
「そうなんだろうなと思ってたわ。相変わらずのすさまじい集中力」
「でもごめん、もうちょっと書いていい? まだベストじゃない」
ん、と言う山宮の了解を受けて筆を握り直す。
この切磋琢磨は山宮へ贈る言葉だ。山宮は自分と切磋琢磨していくことを望んでいる。未来の山宮と自分へ贈る言葉。山宮の心に響く字はどんなイメージだ? 受験を応援するとはどんな気持ちだ? 夢を追いかける山宮を応援するように、自分も夢を追いかける気持ちで筆を動かす。
一枚書くとそれまでよりも線が太くて元気で明るい印象になった。だが、これを見るはずの山宮は優しく穏やかな字で癒されることを望んでいるかもしれない。そう思うと今度はやわらかく優しい線の流れになる。四枚書いたが納得がいかない。五枚目の最後の石の一画の筆を抜いたところでようやく脱力した。
「山宮……これでいい? これが今のベスト。山宮への応援の気持ち」
紙を持ち上げて山宮の方向に向けると、山宮は「すげえな」と紙を見つめ、積み上がった反古紙も見る。
「やっぱり目の前で見てよかった……この一枚に今の全ての時間が詰まってんだろ。ただ一枚をはいって渡されただけじゃ分かんねえ努力が分かる」
山宮はまだ乾ききっていない紙を朔也の手から受け取った。
「これ……見るたびに今のお前の様子が思い出せるわ。俺も頑張ろうって思える。ホントにありがとう」
呟くような山宮の声にほっとし、朔也は反古紙で筆の墨を片づけ始めた。
「半紙ホルダーっていう折らないで持って帰れるものがあるから、あげるよ。乾いたらそれに入れたら」
すると山宮が「サンキュ」と嬉しそうに顔をあげた。
「お前が夏に書いてくれた名前、八つ切りってサイズって言ってただろ。調べて掛け軸みてえに飾れるように台紙に貼った。俺の名前を緑にしてお前の名前を茶渋っぽい色。すげえいい感じ」
緑は山宮の好きな色、そして茶渋と言ったのは朔也の髪の色に合わせたのだろう。朔也は山宮の部屋でその作業を行う様子を思い描いた。興味がなければ捨てるだけのただの紙でしかないのに、ちゃんと作品として扱ってくれている。それが嬉しい。
被っていた服を脱ぐと、ちょっと筆を洗ってくるねと言って後始末をしてから部屋に戻る。山宮はまだ嬉しそうに半紙を眺めていて、朔也は反古紙もまとめて道具一式を紙袋に戻した。
「じゃあ山宮先輩、次は約束していたスマホでの映画鑑賞です。こっちに来てください」
壁に背をつけてベッドにあぐらを掻き、両手を広げる。自分の前に座れ、の意味だ。警戒アラートがどうのと言って山宮が嫌そうな顔つきを見せるかと思ったが、予想とは逆ににぽすっと朔也の前に座った。それどころかこちらに寄りかかってくる。ちまっとした体がくっつくと、冬から薄くなった服の布越しに骨の硬さと体の温かさが伝わってきた。
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