どうあがいても恋でした。

タリ イズミ

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4巻【三】

3 隴西の李徴は博学才穎1

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 今井の言葉に一年生全員が声を合わせ、山宮がごくっと息を呑んだのが分かった。だが、すぐにふっと息を吐き、少し緊張していた表情から自然な表情に顔つきが変わった。自然な広さに足を構え、斜め前の方向へ教科書をあげる。不意に山宮の前にマイクスタンドが見える気がした。

「さんげつき。なかじまあつし」

 先ほどの口調とは異なる、落ち着いたしっとりとした声。紙から一つひとつの音をゆっくりと指先で拾うようなゆったりとした音が部屋に広がった。声の振動がさざ波のように場の空気を動かす。題名と筆者の名前の発音だけでどんな雰囲気の話なのか伝わってくる。以前、大会の練習で名前を言っただけで感動したときのことを思い出した。一年生が驚いたように顔を見合わせたのが分かる。朔也は本に目を落とした。

隴西ろうせい李徴りちょうは博学才穎さいえい天宝てんぽう末年まつねん、若くして名を虎榜こぼうに連ね、ついで江南尉こうなんいに補せられたが、狷介けんかいみずかたのむところすこぶる厚く、賤吏せんりに甘んずるをいさぎよしとしなかった」

 文を読み上げるスピード、言葉と言葉の間、高いトーンと低いトーン、どれも聞き取りやすい。ゆっくりとした口調だから、山宮が読み上げていくところから遅れず漢字の意味を思い出せる。難しい言葉のはずなのに、声を聞いているだけで李徴の人物像が頭に入ってきた。音の一つひとつを聞き漏らすまいと耳を傾ける。

「いくばくもなく官を退いた後は、故山こざん虢略かくりゃく帰臥きがし、まじわりを絶って、ひたすら詩作にふけった」

 程なく仕事を辞めて故郷へ帰り、ひたすら詩を作っていた李徴。朔也は目を瞑った。学校に行かなかった頃、人と交わらずに家で書道をやっていた時期があった。高校の書道部に入ってからもずっと一人で書いているだけで、皆で行うパフォーマンスの意味も分からずにいた。きっと字だけのせいではない。全員で作品を仕上げることの意味が分かっていなかったから、選手に選ばれなかったのだ。

下吏かりとなって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。しかし、文名は容易にあがらず、生活は日をうて苦しくなる。李徴はようやく焦躁に駆られて来た。この頃からその容貌も峭刻しょうこくとなり、肉落ち骨ひいで、眼光のみいたずらに炯々けいけいとして、かつ進士しんしに登第登第とうだいした頃の豊頬ほうきょうの美少年のおもかげは、何処に求めようもない」

 李徴の苦しい気持ちが伝わってきて胸がずきずきと痛んだ。詩人を志したのに上手くいかない。生活も苦しくなり、焦りから顔つきが変わってしまう。どれくらい苦しんだのだろうか。パフォーマンス甲子園で選手に選ばれなかったあの日、泣くことしかできなかった自分は周りの力でここまでこられた。

 再び仕事に就いた李徴だが、自分より下だと思っていた人々の命令を聞いて働くことになる。とうとう発狂し、行方知れずとなった。翌年、友人の袁傪が一行を伴いある地へ赴く。人食い虎が出ると知りながらも宿を立つと、案の定虎が現れ、藪の中へと隠れる。

くさむらの中から人間の声で『あぶないところだった』と繰返し呟くのが聞えた。その声に袁傪は聞き憶えがあった。驚懼きょうくの中にも、彼は咄嗟とっさに思いあたって、叫んだ。『その声は、我が友、李徴子ではないか?』」

 朔也は袁傪の台詞に思わず山宮の顔を見た。まるでそこに袁傪がいるように聞こえる。藪の中の向こうにいる虎の姿をした李徴へ語りかけている。

 部室内が静まり返り、全員が山宮の声に聞き入っていた。

 藪を隔てて会話する虎の李徴と袁傪。未だ詩人を夢見る李徴が即興で作ったという詩が朗々と書道室に響く。人々が彼の不幸を嘆いたという気持ちがよく分かる。詩人を志し、虎になってから気づいた自分の欠点。だが、もう遅い。次第に人間としての意識が侵され、李徴は虎になっていくのだ。彼が作る詩は一流になるにはなにかが欠けている。自分たちの今年の作品もそう評価されたから予選に落ちた。

 暁が近い。残月が浮かぶ空の下、李徴の嘆きの言葉が続く。慟哭する李徴と朝露のように涙に濡れた袁傪たち一行の悲しい別れが来る。

「一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮ほうこうしたかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった」

 紙に広がった墨が滲むのをやめて止まる縁。山宮の声もその縁まで広がり、宙に音が吸い込まれるように消えた。丘の見える早朝の空気の中、山宮が目を伏せて教科書を下ろす。悲哀の余韻に包まれた書道室内に皆の息がゆっくりと落ちた。次の瞬間、一斉に拍手があがり、「すごい!」と長谷川が感動したように腰を浮かせた。
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