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4巻【二】
4 なんでおれ?
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「えっ?」
ぽろっと口からこぼれた疑問は拍手にかき消されてしまう。
「……え?」
バカみたいに同じ言葉を繰り返して、口があんぐりと開いた。同時に一気に血の気が引く。
なんで? なんでおれ? どうしていきなり。そんなこと聞いてない。
脳裏に蘇ったのは、予選落ちしたと知らされたとき、六月の雨粒が屋根を叩いていた体育館だ。あのとき真っ先に気持ちを切り替えて文化祭に向けて練習すると発言し、行動したのは今井だった。今井の行動がなければ、この引退式の雰囲気も違ったものになっていただろう。あのときの書道部の空気を考えれば、新部長は今井だ。今井はリーダーシップがあるし、同学年の女子にだってそう見えているはず。今井がクラスのことで忙しいと断ったということであれば、性格的には次は中村だ。どう考えても自分ではない。
待って。なんでおれ? おれ、向いてない。できるわけがない。
血の気が引いたと思ったら、体が硬直した。体の中心が一気に冷えて、手に汗が滲む。
目立つのは得意じゃないし、意見をはっきり言うのも苦手。自分は書道部の中で格別に字が上手いわけではないのだ。上手かったらとっくに選手に選ばれている。そんな自分が部長に選ばれて、後輩がついてきてくれるのか? 今耳に聞こえてくる拍手は同意の意味なのか、それとも単純にする場面だからしているだけなのか。――そうだ、こうやって人の感情が気になるときだけ、人の顔はのっぺりとして見える。表情の隙間から見えそうなものが見えない。今目の前にある教壇の上に立ったとき、皆の顔はどう見える?
「朔ちゃん! ほら、前に出て!」
ぽんと肩を押され、はっと我に返る。なんで、と声がうわずりそうになったが、ぐっと堪えた。
「――はい、分かりました」
朔也は椅子からゆっくりと立ち上がり、こぶしを握り締めた。ここでうろたえてはいけない。ここからパフォーマンス甲子園を目指すのに、頼りない部長では部員をまとめることはできない。できないじゃない。向いていなくてもやらなければ。
部長が立っていた教壇のところへ立ち、皆のほうを向く。一年生も二年生も笑顔で拍手をしていて、やはりその表情は読めなかった。だが、一呼吸置いて三年生を見る。
「先輩方、今までありがとうございました。明るい先輩たちがいてくださったから、文化祭のパフォーマンスも明るい作品になりました。個人的には、自分が怪我をしたときに励ましていただいたことが心に残っています。後輩を支えてくださったことに感謝の言葉しかありません」
部長を始め、三年生が嬉しそうに顔を見合わせて頷く。
「先輩たちが築いてくださった部を、もっといいものにするよう努力します。じゃあ早速新部長から一言」
朔也は教卓に手をつき、きっと教室の後ろを見た。その壁の向こうに自分たちが目指す甲子園がある。朔也は会場へ向かう飛行機の飛ぶ空を思い描いて言った。
「絶対に来年のパフォーマンス甲子園に行こう」
書道室内の拍手が大きくなった。深呼吸し、教室の後ろに置いてある本屋の名前の入った紙袋を見る。教壇から逃げ出したくて堪らなかったが、落ち着けと内心言い聞かせながら部室内を見回す。
「例年はここから次のパフォーマンスについて題材を話し合って決めるけど、今年はもう題材を決めてある」
朔也の言葉に二年以外が驚いた顔になり、一瞬ざわっとした。顔を見合わせる部員たちに深呼吸し、朔也はぐっと顎を引いてそれを告げた。
「次の甲子園で披露する作品の題材は、中島敦の小説『山月記』。二年生五人で決めた。知らない人もいると思う。まずは全員に小説を読んでもらいたいんだ」
朔也はすぐに長谷川を見た。
「長谷川、本を配ってくれる?」
「分かった」
三つ編みを揺らした彼女はさっと立ち上がり、本屋から引き取ったばかりの山月記の本を配った。三年生にも「どうぞ」と渡す。ページを捲った一年生の一人が「これ知ってる」と呟き、三年生が「懐かしいね」と白い歯をこぼした。
「今井、作ってくれたプリントを配ってくれる? 語彙のほうね」
「はい!」
笑顔の今井もすぐに「これを回して」と紙を送った。今井がまとめた、難しい語句の読み方や意味をまとめたものだ。
「今配られたプリントを見ながら、一度話を読んできてほしい。三十分くらいで読めるから。二年生以上は既に授業で習っている。一年生の中には話が難しくてよく分からない人もいると思う。それでも、どうしてこれをおれたち二年生が選んだのか、考えてみてほしい。理由は説明するし、話の内容も二年生が授業する。理解してもらえると思う」
三年生がおおと感心したようにこちらを見た。それはそうだ、いつもと流れが違う。題材を勝手に決めたのを押しつけがましく思っていないだろうか。一瞬そう思ったが、二年生全員でこれがいいと決めたのだ。自分は二年生の代表としてそれを口にしなければならない。ぐっとくちびるを噛みしめて、ざわめく腹に力を入れる。
「今は十月考査に向けて忙しいよな。まずは学業優先。でも、試験の最終日は金曜日。金曜の午後は部活だし、土日もある。金曜日は書かずに本を読んでも構わないから、一度目を通してみて。翌週から山月記の勉強を始める」
大丈夫。準備は進めてきた。絶対にいいスタートを切ってやる。朔也は大きく息を吐き出し、皆を見回した。
「ここまで、なにか質問がある人はいる? ……いないなら、はっきり宣言する。さっき甲子園に行こうって言ったけど、訂正。おれたちが甲子園で優勝しよう!」
力を込めた朔也の言葉に、書道室が大きな拍手の音で溢れかえった。
ぽろっと口からこぼれた疑問は拍手にかき消されてしまう。
「……え?」
バカみたいに同じ言葉を繰り返して、口があんぐりと開いた。同時に一気に血の気が引く。
なんで? なんでおれ? どうしていきなり。そんなこと聞いてない。
脳裏に蘇ったのは、予選落ちしたと知らされたとき、六月の雨粒が屋根を叩いていた体育館だ。あのとき真っ先に気持ちを切り替えて文化祭に向けて練習すると発言し、行動したのは今井だった。今井の行動がなければ、この引退式の雰囲気も違ったものになっていただろう。あのときの書道部の空気を考えれば、新部長は今井だ。今井はリーダーシップがあるし、同学年の女子にだってそう見えているはず。今井がクラスのことで忙しいと断ったということであれば、性格的には次は中村だ。どう考えても自分ではない。
待って。なんでおれ? おれ、向いてない。できるわけがない。
血の気が引いたと思ったら、体が硬直した。体の中心が一気に冷えて、手に汗が滲む。
目立つのは得意じゃないし、意見をはっきり言うのも苦手。自分は書道部の中で格別に字が上手いわけではないのだ。上手かったらとっくに選手に選ばれている。そんな自分が部長に選ばれて、後輩がついてきてくれるのか? 今耳に聞こえてくる拍手は同意の意味なのか、それとも単純にする場面だからしているだけなのか。――そうだ、こうやって人の感情が気になるときだけ、人の顔はのっぺりとして見える。表情の隙間から見えそうなものが見えない。今目の前にある教壇の上に立ったとき、皆の顔はどう見える?
「朔ちゃん! ほら、前に出て!」
ぽんと肩を押され、はっと我に返る。なんで、と声がうわずりそうになったが、ぐっと堪えた。
「――はい、分かりました」
朔也は椅子からゆっくりと立ち上がり、こぶしを握り締めた。ここでうろたえてはいけない。ここからパフォーマンス甲子園を目指すのに、頼りない部長では部員をまとめることはできない。できないじゃない。向いていなくてもやらなければ。
部長が立っていた教壇のところへ立ち、皆のほうを向く。一年生も二年生も笑顔で拍手をしていて、やはりその表情は読めなかった。だが、一呼吸置いて三年生を見る。
「先輩方、今までありがとうございました。明るい先輩たちがいてくださったから、文化祭のパフォーマンスも明るい作品になりました。個人的には、自分が怪我をしたときに励ましていただいたことが心に残っています。後輩を支えてくださったことに感謝の言葉しかありません」
部長を始め、三年生が嬉しそうに顔を見合わせて頷く。
「先輩たちが築いてくださった部を、もっといいものにするよう努力します。じゃあ早速新部長から一言」
朔也は教卓に手をつき、きっと教室の後ろを見た。その壁の向こうに自分たちが目指す甲子園がある。朔也は会場へ向かう飛行機の飛ぶ空を思い描いて言った。
「絶対に来年のパフォーマンス甲子園に行こう」
書道室内の拍手が大きくなった。深呼吸し、教室の後ろに置いてある本屋の名前の入った紙袋を見る。教壇から逃げ出したくて堪らなかったが、落ち着けと内心言い聞かせながら部室内を見回す。
「例年はここから次のパフォーマンスについて題材を話し合って決めるけど、今年はもう題材を決めてある」
朔也の言葉に二年以外が驚いた顔になり、一瞬ざわっとした。顔を見合わせる部員たちに深呼吸し、朔也はぐっと顎を引いてそれを告げた。
「次の甲子園で披露する作品の題材は、中島敦の小説『山月記』。二年生五人で決めた。知らない人もいると思う。まずは全員に小説を読んでもらいたいんだ」
朔也はすぐに長谷川を見た。
「長谷川、本を配ってくれる?」
「分かった」
三つ編みを揺らした彼女はさっと立ち上がり、本屋から引き取ったばかりの山月記の本を配った。三年生にも「どうぞ」と渡す。ページを捲った一年生の一人が「これ知ってる」と呟き、三年生が「懐かしいね」と白い歯をこぼした。
「今井、作ってくれたプリントを配ってくれる? 語彙のほうね」
「はい!」
笑顔の今井もすぐに「これを回して」と紙を送った。今井がまとめた、難しい語句の読み方や意味をまとめたものだ。
「今配られたプリントを見ながら、一度話を読んできてほしい。三十分くらいで読めるから。二年生以上は既に授業で習っている。一年生の中には話が難しくてよく分からない人もいると思う。それでも、どうしてこれをおれたち二年生が選んだのか、考えてみてほしい。理由は説明するし、話の内容も二年生が授業する。理解してもらえると思う」
三年生がおおと感心したようにこちらを見た。それはそうだ、いつもと流れが違う。題材を勝手に決めたのを押しつけがましく思っていないだろうか。一瞬そう思ったが、二年生全員でこれがいいと決めたのだ。自分は二年生の代表としてそれを口にしなければならない。ぐっとくちびるを噛みしめて、ざわめく腹に力を入れる。
「今は十月考査に向けて忙しいよな。まずは学業優先。でも、試験の最終日は金曜日。金曜の午後は部活だし、土日もある。金曜日は書かずに本を読んでも構わないから、一度目を通してみて。翌週から山月記の勉強を始める」
大丈夫。準備は進めてきた。絶対にいいスタートを切ってやる。朔也は大きく息を吐き出し、皆を見回した。
「ここまで、なにか質問がある人はいる? ……いないなら、はっきり宣言する。さっき甲子園に行こうって言ったけど、訂正。おれたちが甲子園で優勝しよう!」
力を込めた朔也の言葉に、書道室が大きな拍手の音で溢れかえった。
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