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4巻【二】

2 喉元まで出かかった言葉

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 山宮の言葉がすっと胸に馴染んだ。急いで模擬試験の結果を貼ったノートを見る。元気な気持ちになるようにと黄色の表紙のノートに貼ったのだが、今ようやくそれが明るく目に映った。まるでこちらが見えているかのように山宮が続ける。

『お前さ、なんか焦ってね? 夏に模擬試験の結果が返ってきたときも変だったし』

 山宮が淡々と言葉を紡ぐ。

『結果が返ってきたとき、お前、俺にそれを見せなかったよな。定期試験なら平気で見せてくるのに。全国での順位とか偏差値を見せたくねえのかなって思ったけど、そのあとに将来の仕事がどうのって話し出したから、進路のことを口にしたくねえんだなって分かったわ。志望大学のところを見せたくなかったんだろ』

 思わず机にゴンと額を打つ。

「山宮ってなんでそんなに鋭いの……将来探偵になりなよ」
『今のとこ選択肢にねえわ。つうか、どうやってなるんだ、あの仕事』
「それはおれも知らないけど」

 おれ、そんなに分かりやすいのかな。頭を掻いて机に右頬をつける。横から眺める自分のスマホの厚みを見て、これを開発した人は物理を使ったのかななどと思った。

「おれたち、今は文理系だけど、三年になったら文系と理系に分かれて、更に外部受験組と内部進学組に分かれるよな」
『そうだな』
「それって、二月くらいに選ぶよな? でも、おれは文系理系のどっちに行きたいか分かんないし、外部受験か内部進学かなんて……まだよく分かんない」

 山宮と一緒に過ごせている今がすごく楽しい。だからそれに別れを告げるような選択を言葉にできない。喉元まで出かかった言葉を呑み込んでため息に変える。

「数ヶ月後の未来が分かんない。そう思ったら、勉強が手につかなくなった。正直に言うと、やろうとした物理にイライラした。階段を駆け上がる仕事率ってなんだよ。階段を駆け上がる前にエレベーター数台をフル稼働して効率をあげればいいじゃん」

 最後のほう、頭を掻きむしると、ははっとおかしそうな笑い声が聞こえた。

『そういう話じゃねえだろ! お前がそういうことを言うのって新鮮』
「山宮だってイライラする問題くらいあるでしょ」
『俺は和歌の掛詞を丁寧に訳す意味が分かんね。あれ、ダジャレだろ? 和歌を詠んだやつも、まさか何百年後に自分のネタをいじられるなんて思わなかっただろうな』
「いいネタを思いついちゃったなって空の上で誇らしく思ってるかもよ?」
『階段を駆け上がりながら掛詞使った和歌を詠むのはやばそうじゃね。重い荷物を持ってのぼったやつよりひどい疲労感』

 山宮の言葉に笑ったら、いつの間にか苛立ちは消えていた。山宮の声も心なしか明るくなる。

『文系クラスに行っても途中で理系をやりたくなったら理転すればいいんじゃね? 二月に選ぶ選択肢で人生の全てが決まるわけじゃねえわ。だったらなおさら今はどっちの勉強もしとくべきじゃね? 先生も言ってただろ。大学に行きながら将来の仕事を決めるやつもいるって。多分、大学に行ってから考えても遅くねえわ』

 山宮は「お前は焦りすぎ」と断言した。

『お前、前期末考査でクラス一位だったけど、文理系で何位だったんだよ? A組からC組の百人ちょっとの人数だろ』
「二位だったけど」
『負けず嫌いのくせに二位で満足か? 二週間後の十月考査、十二月考査、学年末考査、それぞれで文理系の一位をとるってあのノートに書いとけ。ついでに次の十二月の模擬試験では偏差値を2あげろ。少しでも可能性を広げとくべきじゃね』

 朔也はもう一度進路指導室でもらった紙を見た。十二月の模擬試験を意識して書くべき次の目標。自分は遠いところを考えようとして、目の前の小さなものを投げ出そうとしていたのかもしれない。

『数ヶ月後のことがはっきり分かるなら、占い師になることをお勧めするわ。分かんねえことはこれから考えりゃいい。単純な話じゃね?』

 山宮の言葉にぴっと背筋が伸びた。二人で書いているノートを取り出す。何ページにもわたって書いてきた目標の数々。自分たちはその小さな目標を重ねて仲良くなってきた。同じように、小さな目標を書いていけば自分の将来だって分かるのかもしれない。シャーペンを手にとると、グリップを握る指先に力が入った。

「分かった。ノートに書く。文理系一位、偏差値2アップな」
『それでいいんじゃね。……ところで、階段を駆け上がる仕事率ってどんなやつだっけ? あとで教えろ』
「ええ? おれの話、分かってて聞いてたんじゃないの?」
『覚えてるけど、応用問題を出されたら分かんねえ予感を宇宙から受信中。あ、俺、占い師になれるかもしれねえわ』

 占い師って宇宙から受信してるの? 霊界からかもしれねえか。それは占い師じゃなくて霊能者でしょ。くだらないお喋りをしたらすっきりした。自分を拒絶した物理の教科書の紙がなんだか優しい色に見える。

「じゃあ試験勉強をするか!」
『ん。とりあえず俺は数学をやるわ』
 そのあとはいつも通り、時間を決めて勉強に集中し、お喋りを挟んで休憩を取りながら夜まで問題集に向き合った。

 翌日、朔也は朝一に進路指導室へ行った。スカート姿の元担任はもう来ていて、ピンクのマグカップでコーヒーを飲んでいるところだった。豆のにおいが香ばしい。

「書いたのね」

 教師の笑顔に「はい!」と答えた。なにが足りなかったかのところに「未来のビジョン」、次の目標に「偏差値を2あげる」を書き入れた朔也は黄色のノートを渡した。

「今分からないことは分からないんだなって分かりました」

 朔也の言葉に彼女は「なるほどね」とくすりと笑った。朔也は頭を下げて進路指導室を出た。心が晴れやかになったのが分かる。明日の放課後は部活の三年生の引退式だ。そして来年のパフォーマンス甲子園に向けて動き出す。

 将来に向けてはまずは十月考査。パフォーマンス甲子園に向けては山月記。山宮だって試験勉強も山月記の読み上げも頑張るのだ。自分も今分かっている目標に向かって頑張ってみよう。

 日差しの注ぐ渡り廊下を歩きながら、イチョウとケヤキの木が風に揺れる中庭を見る。リノリウムでステップを踏む自分の足音が軽やかに聞こえた。
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