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4巻【一】

7 進路指導室

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 朔也はすぐに教室に引き返し、山宮の席に駆け寄った。廊下の中村から山宮を隠すように立って机に手をつく。

「ホントにいいの? あの難しい文章を一からだよ? 数日しか練習できないよ?」

 ひそひそと小さな声で言うと、山宮がにやっと頬杖をついてこちらを見上げた。

「俺が教科書を声に出して読んで暗記したり勉強したりしてるって話、忘れてね?」
「あ!」

 朔也が思わず笑顔になると、「そういうこと」と山宮が親指を立てた。

「差し入れは水ね!」
「いつものメーカーを頼むわ」
「オッケー!」

 すぐに廊下で待っている中村のところへ引き返し、笑いかけた。

「お礼は借り物競走でミスしたおれから飲み物を奢るってことで手を打った!」
「じゃあそれは任せちゃおっかな」

 廊下を歩き出した中村は笑顔であれこれと朔也に考えを話し、やる気が加速したようだった。中庭に戻って中村が結果を報告すると、皆が拍手をして喜んだ。今井がほっとした表情になり、「あとで山宮君にお礼のメッセージを送っておく」と言う。

 皆は書道室に戻って練習すると言ったが、朔也はあとから行くねと断って一人で渡り廊下を渡った。クーラーの効いていないそこを通った夏を思い出す。次第に頬が緊張し始め、扉の前で足を止める。顔をあげると、進路指導室の文字がゴシック体で室名札に書かれていた。はあと肩で息をつき、捲っていたシャツの長袖を戻してノックする。

「お仕事中にすみません。高橋舞子先生、今よろしいでしょうか」

 手前に座席がある去年の担任に声をかけると、「あら折原君」と彼女は笑顔になった。以前と同じ丸椅子を用意してもらい、そこへ腰かけて鞄から夏休みの登校日に返された模擬試験結果を出した。

「これ、前回の模擬試験の結果なんですけど」

 朔也はそれを手渡した。もう一ヶ月以上前の結果だ。それを今頃渡してなにをやっていたのだと怒られないだろうか。一瞬懸念が頭を過ぎったが、勇気を出して言った。

「結果を見ても、なにを考えればいいのか分かりません……進路を考える上でどう役立てればいいんですか」

 彼女は朔也の結果を端から眺めた。その目の動きに、先ほどの山宮の目を思い出す。読まれている。そう思うと、一気に緊張してきた。彼女の目は大学の合格判定のところで止まった。偏差値に関係なく書道が学べる大学を第一志望から第三志望に書いた。それら全てがA判定。ただし、実技のある大学もあるから、A判定と言っても普通のA判定とは意味が異なる。名の通った国公立と私立がC判定とB判定だ。普通の生徒なら、偏差値の高い国公立を第一志望に書くだろう。今自分の勉強したいことを優先して書いたその順番をどう見るのか。

 彼女は「そう」と一言言い、こちらを見上げて質問を返してきた。

「折原君、この結果を見てどう思った?」

 教師の言葉にその紙を見つめる。再び差し出された結果を受け取り、偏差値の数字や全国平均を見た。

 付属大学の偏差値は超えている。他大学の受験を考えてもいいと前に言われたことも覚えている。だが、だからなんだと言うのだろう。結局そこに見えているのは数字だけだ。くちびるを湿らせ、言葉を選ぶ。

「……この模試を受けた人たちの平均と自分の位置は分かりました」
「大学の判定についてはどう思う?」

 印字された書道学科の文字に思わず言い淀む。彼女は察したのか、そこを指さしながら説明した。

「言い方を変えましょうか。国公立はC判定よね。五分五分って意味よ。更に勉強すればもっといい判定が出るかもしれないわ。第一志望にしてもいいと思う。B判定の私立もあるわね。これはこのまま勉強していけば合格圏内ね。どちらかの大学に合格したら、進学したい? どちらも入りたい受験生がたくさんいる難関大学だし、そのために浪人する子もいるようなところよ。将来就職にも有利なことが多いかもしれないわ」

 難関大学の言葉に朔也はまじまじと教師の顔を見た。

「高校としては合格して進学してほしいですよね? 進学実績になります。それよりも付属に進んで、授業料を系列の大学に払ったほうがいいですか」

 すると教師は目を丸くした。進路指導室内にいた他の教師が笑い、「折原の思考回路は随分と冷静だな」と感想が飛んでくる。目の前の彼女がおかしそうに口元を笑わせた。

「そういう答えをした生徒は初めて! でも、大人の事情を聞いてるんじゃなくて、折原君の感じ方を聞いてるの。今すぐに答えられなかったら、この紙に書き込んでみて」

 教師から渡された薄桃色の一枚の紙には、今回の結果でなにが分かったか、どう捉えたか、なにが足りなかったか、次の目標はなにか等の項目が細かく記述式で書かれていた。次の目標という空欄に、ふと山宮と書いているノートのことが蘇る。

「模擬試験の結果が出たら、毎回ノートに貼るの。そしてこの紙を書き込んで、それも貼ってね。次の模擬試験は十二月だから、模擬試験を受ける前はノートを見返してから勉強するの。目標が可視化して分かりやすいわ。これから十月考査の試験勉強も始まるから、そうね、試験一週間前には持ってきてね。私が見るから」

 思わずくちびるを噛むと教師は「安心して」と落ち着いた声を出した。

「見るって言っても採点するわけじゃないわよ。誰かに見せるっていう約束があったほうが自分と向き合いやすいから。前に言ったわよね。進路には正解がないって。折原君の本当の気持ちを書いていいわよ。私はそれを否定しない。言えるとしたらアドバイスだけね」

 将来って、なんだろう。進路って、なんだろう。おれ、なにがやりたいんだろう。

――自分は折原朔也だ、でいいんじゃね。

 いつかの山宮の言葉が蘇る。空っぽに感じた自分が埋まる音は学園祭で聞いた。今の自分なら、渡された紙の空欄を埋めることができるだろうか。上履きの爪先を見つめ、ぎゅっと紙を握り締めて顔をあげた。

「先生以外の誰かにノートを見られることはありますか」

 すると元担任は察したのか眉尻を下げた。

「折原君が見せたくないって言うなら見せないわよ。でも、担任の先生に見せて相談する子が多いことは事実ね。担任の先生が一番身近だもの。三年生になるときにもスムーズに話が行くから」

 高橋舞子元担任と高橋茂現担任。そして現担任は学年主任の先生でもある。なにかあったら相談しやすいというのは確かだろう。二人の高橋先生にお世話になるんだなというくだらないことを思いつく。

「それなら、茂先生にはノートを見せて相談します」
「じゃあ私がノートを受け取って、茂先生に渡すわね。ノートは茂先生から折原君へ返してもらうようにするから」
「……分かりました。ノートを作ってまた伺います。ありがとうございました」

 朔也はぺこっと礼をして立ち上がった。失礼しましたと進路指導室を出ると、自然とため息が漏れた。進路指導室前は生徒が気軽に立ち寄れるよう、少し広さをとった場所にソファが置いてあり、受験に関する資料などを見られる空間がある。朔也はそこのソファへ腰かけ、結果とプリントを鞄にしまった。

 ポケットの中のスマホが振動する。山宮のアイコンがメッセージを受信した。

『山月記、久しぶりに読んだけどいいわ。勉強してるときもリズムがいいなって思ってたけど、中村の要望を考えると読み方が違ってきておもしれえ。頼んでくれてサンキュ』

 それを読んでほっとする。山宮は書道部の依頼を楽しんで受け止めてくれたようだ。

 そうだな、おれも楽しもう。進路のことは今夜から考えればいい。試験勉強も明日からにしよう。

 次に筆を握れるのは試験最終日の放課後なのだ。今日は試験前に書道室のにおいの中で書道をできるラストチャンス。久しぶりに文化祭で使ったようなカラー墨汁以外の落ち着いた色の文字を書きたい。

 書道室に戻るか。

 朔也は頭を切り替えると、すくっとソファを立って書道室へ向かった。
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