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2巻【一】
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「折原、お前な!!」
ちょうど「山宮」と「基一」の間で破れたプリントを前に、山宮が真っ赤な顔でカーペットの床をドンッとこぶしで叩いた。狭い室内いっぱいに声をあげる彼を「まあまあ」と宥める。
「ちょっと言ってみただけじゃん。怒らないでよ」
「怒るわ! プリントどうしてくれんだよ!」
「おれは終わっちゃったから新しいのはないよ」
「俺が注意されんじゃねえか! クソ、お前が変なことを言うから……」
ぶつぶつと文句を言って頭を抱える山宮のぴょんと覗く耳が赤い。二人きりのときはマスクを外してくれるのだが、花粉症がそれを邪魔している。照れているに違いないマスクの中でこほっと空咳をして、こちらを睨んできた。
「大体エロいことってなんだよ⁉ お前は言うことなすこと唐突すぎんだよ!」
「物事は唐突に起こるものじゃん」
「お前の唐突は飛躍しすぎてんだよっ! 付き合わねえかっつったときもそうだったじゃねえか! 頭よすぎてバカになってんのか!?」
「おれが頭いいんじゃなくて、山宮のテストの点数が」
「悪いんだろ。知ってるわ‼」
また山宮が怒ったので、朔也は肩をすくめて壁に寄りかかった。あぐらを掻いた足を引き寄せる。ふと自分のキャメル色のカーディガンに茶髪の毛がついているのを見つけ、慌てて拾って持っていたビニール袋に入れた。染髪が禁じられているこの高校で、茶髪と言ったら地毛の自分しかいない。放送室に自分の痕跡を残して、山宮を困らせたくない。
「あとどれくらいで宿題終わるの」
ビニール袋をぎゅっと縛りながら聞くと、くしゅんとくしゃみをした山宮がプリントを数え始めた。
「今回はお前に聞ける問題を先に片づけたから、繰り返し書くやつが終わってねえ。今日の下校放送までには絶対終わる。多分、あと一時間以内」
チャイムを鳴らす黒のデッキを見れば、15:27:46。下校放送までには終わる計算だ。
山宮ががさがさと鞄から出したプリントを手に取って眺める。漢字と英語のスペルをマス目に入れて書くだけだ。朔也は書き終わった漢字のプリントを眺めた。急いでいても、字を崩していない。相変わらずゴシック体のようなきちっとした字だ。
山宮の字はいい。縦に書いた「山宮基一」が線対称になるようなまっすぐな線を書く。朔也がなにかしらで字を書くと書道をやっているとバレるが、原稿用紙のマス目に沿って書いたような字も整然としていてきれいな印象だ。
「……で、エロいことってなんだよ? 神聖な放送室でそんなことさせねえぞ」
山宮の言葉にプリントから顔をあげた。前髪とマスクの間のアーモンド型の目がちょっぴりこちらを睨んでいる。朔也はプリントを戻しながら言った。
「ここで何回かキスしたじゃん。エロいキスしたいなと思って」
こちらの言い分に山宮が少し驚いたように目を見開き、なにか言いかけた言葉を呑むようにごくりと喉仏を上下させた。
「……エロいキスってなんだよ?」
「顔の角度が九十度に互い違いになっててはむってやるやつ」
「……九十度は開きすぎじゃね」
山宮が頭を掻いて片膝を立てて座り直した。何故かふうとため息を漏らす。
「つか、なんで今提案した?」
「明日から授業が始まるじゃん。なかなか一緒に過ごせないなって思って」
「同じクラスなんだから、去年と同じじゃね」
山宮があっさりと言ったので朔也はむっとした。
「山宮って冷たい。こっちは新しいクラスで一から人間関係のやり直しだって緊張してるのに。せめて山宮と思い出を作っておこうと思ったのにさ」
「五月にオリエンテーションがあるだろ。そこでオトモダチ作りゃよくね」
「そのオリエンテーションまでに人間関係を作らなきゃいけないの! 元々同じクラスの子なんて副委員長とか数人じゃん。距離感が分からなくて難しいんだよ」
元いじめられっ子は気にするの。朔也が口をとがらすと彼は小さくぷっと笑った。
「お前、でかい図体のわりに小せえよな」
「おれは山宮と違って繊細なの。で、エロいキスさせてくれんのくれないの」
「……俺はもっと普通のことがしたいわ」
突然山宮が真剣な口調になった。
「ノートの貸し借りとか、食堂でたまたま会って食券を買うのに並ぶとか、同じ電車で隣に座って帰るとか……去年できなかったことがしてえ」
山宮が顔を俯かせ、膝に頭を載せてはああと息をつく。
「お前にとっちゃ、どうでもいいことかもしんねえけど」
山宮からの告白をずっと真剣に受け取っていなかった朔也は、一年の殆どを山宮と関わりなく過ごしていた。山宮にとって、自分が他の生徒たちとしていたようなことこそがやりたいものなのだろう。
朔也はすぐに鞄から新品のノートを取り出した。表紙を開き、継ぎ目のところを指を滑らせてきちんと広げる。
「じゃあさ、やりたいことを書き出して、達成できたらチェックをつけていこうよ。チェックが増えていったら楽しくない?」
山宮が言った項目を箇条書きにしていく。
「おれ、朝に駅で偶然会って教室まで一緒に歩くっていうのをやりたい。スポーツテストのシャトルランで一緒に走るのもやりたいな。出席番号が遠いから難しいかな?」
朔也が顔をあげると、山宮が嬉しそうに目を細めた。
「お前、去年のシャトルラン、最後まで走ってただろ。すげえ目立ってたから覚えてる」
「おれはそういうところで人に負けたくないの。山宮はここでいいやってところでやめそう」
「そりゃあやめるわ。俺が平均まで行けばすげえよ」
ようやく山宮がははっと笑顔を取り戻した。
「お前のそういうところが成績とか書道の腕とかを伸ばすんだろうな」
「好きなことに集中する山宮だっていいんじゃね。あ」
朔也が言葉を途切れさせると山宮は不思議そうな顔をした。
「……山宮の口調が移った」
朔也が照れ笑いすると彼も噴き出した。
「さっき俺もナントカじゃんって言いそうになったわ」
互いに笑い、向かい側に膝をついた山宮がノートを覗き込む。さらりとした髪が流れ、優しげに目尻の下がった瞳がノートに目線を落とした。
「部活で大会に出るって項目、忘れてね?」
「おれ、山宮の下校放送を目の前で聞きたい。あ、今日聞けるか」
「次に一緒にパフォーマンスができるのは文化祭だな」
ノートが二人の未来で埋め尽くされていく。書き出してみるとあっという間に数ページになった。
ちょうど「山宮」と「基一」の間で破れたプリントを前に、山宮が真っ赤な顔でカーペットの床をドンッとこぶしで叩いた。狭い室内いっぱいに声をあげる彼を「まあまあ」と宥める。
「ちょっと言ってみただけじゃん。怒らないでよ」
「怒るわ! プリントどうしてくれんだよ!」
「おれは終わっちゃったから新しいのはないよ」
「俺が注意されんじゃねえか! クソ、お前が変なことを言うから……」
ぶつぶつと文句を言って頭を抱える山宮のぴょんと覗く耳が赤い。二人きりのときはマスクを外してくれるのだが、花粉症がそれを邪魔している。照れているに違いないマスクの中でこほっと空咳をして、こちらを睨んできた。
「大体エロいことってなんだよ⁉ お前は言うことなすこと唐突すぎんだよ!」
「物事は唐突に起こるものじゃん」
「お前の唐突は飛躍しすぎてんだよっ! 付き合わねえかっつったときもそうだったじゃねえか! 頭よすぎてバカになってんのか!?」
「おれが頭いいんじゃなくて、山宮のテストの点数が」
「悪いんだろ。知ってるわ‼」
また山宮が怒ったので、朔也は肩をすくめて壁に寄りかかった。あぐらを掻いた足を引き寄せる。ふと自分のキャメル色のカーディガンに茶髪の毛がついているのを見つけ、慌てて拾って持っていたビニール袋に入れた。染髪が禁じられているこの高校で、茶髪と言ったら地毛の自分しかいない。放送室に自分の痕跡を残して、山宮を困らせたくない。
「あとどれくらいで宿題終わるの」
ビニール袋をぎゅっと縛りながら聞くと、くしゅんとくしゃみをした山宮がプリントを数え始めた。
「今回はお前に聞ける問題を先に片づけたから、繰り返し書くやつが終わってねえ。今日の下校放送までには絶対終わる。多分、あと一時間以内」
チャイムを鳴らす黒のデッキを見れば、15:27:46。下校放送までには終わる計算だ。
山宮ががさがさと鞄から出したプリントを手に取って眺める。漢字と英語のスペルをマス目に入れて書くだけだ。朔也は書き終わった漢字のプリントを眺めた。急いでいても、字を崩していない。相変わらずゴシック体のようなきちっとした字だ。
山宮の字はいい。縦に書いた「山宮基一」が線対称になるようなまっすぐな線を書く。朔也がなにかしらで字を書くと書道をやっているとバレるが、原稿用紙のマス目に沿って書いたような字も整然としていてきれいな印象だ。
「……で、エロいことってなんだよ? 神聖な放送室でそんなことさせねえぞ」
山宮の言葉にプリントから顔をあげた。前髪とマスクの間のアーモンド型の目がちょっぴりこちらを睨んでいる。朔也はプリントを戻しながら言った。
「ここで何回かキスしたじゃん。エロいキスしたいなと思って」
こちらの言い分に山宮が少し驚いたように目を見開き、なにか言いかけた言葉を呑むようにごくりと喉仏を上下させた。
「……エロいキスってなんだよ?」
「顔の角度が九十度に互い違いになっててはむってやるやつ」
「……九十度は開きすぎじゃね」
山宮が頭を掻いて片膝を立てて座り直した。何故かふうとため息を漏らす。
「つか、なんで今提案した?」
「明日から授業が始まるじゃん。なかなか一緒に過ごせないなって思って」
「同じクラスなんだから、去年と同じじゃね」
山宮があっさりと言ったので朔也はむっとした。
「山宮って冷たい。こっちは新しいクラスで一から人間関係のやり直しだって緊張してるのに。せめて山宮と思い出を作っておこうと思ったのにさ」
「五月にオリエンテーションがあるだろ。そこでオトモダチ作りゃよくね」
「そのオリエンテーションまでに人間関係を作らなきゃいけないの! 元々同じクラスの子なんて副委員長とか数人じゃん。距離感が分からなくて難しいんだよ」
元いじめられっ子は気にするの。朔也が口をとがらすと彼は小さくぷっと笑った。
「お前、でかい図体のわりに小せえよな」
「おれは山宮と違って繊細なの。で、エロいキスさせてくれんのくれないの」
「……俺はもっと普通のことがしたいわ」
突然山宮が真剣な口調になった。
「ノートの貸し借りとか、食堂でたまたま会って食券を買うのに並ぶとか、同じ電車で隣に座って帰るとか……去年できなかったことがしてえ」
山宮が顔を俯かせ、膝に頭を載せてはああと息をつく。
「お前にとっちゃ、どうでもいいことかもしんねえけど」
山宮からの告白をずっと真剣に受け取っていなかった朔也は、一年の殆どを山宮と関わりなく過ごしていた。山宮にとって、自分が他の生徒たちとしていたようなことこそがやりたいものなのだろう。
朔也はすぐに鞄から新品のノートを取り出した。表紙を開き、継ぎ目のところを指を滑らせてきちんと広げる。
「じゃあさ、やりたいことを書き出して、達成できたらチェックをつけていこうよ。チェックが増えていったら楽しくない?」
山宮が言った項目を箇条書きにしていく。
「おれ、朝に駅で偶然会って教室まで一緒に歩くっていうのをやりたい。スポーツテストのシャトルランで一緒に走るのもやりたいな。出席番号が遠いから難しいかな?」
朔也が顔をあげると、山宮が嬉しそうに目を細めた。
「お前、去年のシャトルラン、最後まで走ってただろ。すげえ目立ってたから覚えてる」
「おれはそういうところで人に負けたくないの。山宮はここでいいやってところでやめそう」
「そりゃあやめるわ。俺が平均まで行けばすげえよ」
ようやく山宮がははっと笑顔を取り戻した。
「お前のそういうところが成績とか書道の腕とかを伸ばすんだろうな」
「好きなことに集中する山宮だっていいんじゃね。あ」
朔也が言葉を途切れさせると山宮は不思議そうな顔をした。
「……山宮の口調が移った」
朔也が照れ笑いすると彼も噴き出した。
「さっき俺もナントカじゃんって言いそうになったわ」
互いに笑い、向かい側に膝をついた山宮がノートを覗き込む。さらりとした髪が流れ、優しげに目尻の下がった瞳がノートに目線を落とした。
「部活で大会に出るって項目、忘れてね?」
「おれ、山宮の下校放送を目の前で聞きたい。あ、今日聞けるか」
「次に一緒にパフォーマンスができるのは文化祭だな」
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