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1巻【三】

8 ココアの紙パック

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「これとこれ、今井はどっちがいい」

 先ほど山宮と眺めていた自販機で買った紙パックを左右に掲げると、ベンチに座った彼女が目をぱちぱちとさせた。

「朔ちゃん、あたしには右も左もココアに見えるんだけど」
「今井がよく飲んでるイチゴ・オレを買おうとしたんだけど、動揺して同じのを二つ買っちゃった」

 困り顔の朔也に今井があははと明るく笑った。

「なにそれ! じゃあ右のをちょうだい」
「ん」

 それを差し出すと彼女は「ありがとう」と受け取った。朔也もベンチの隣に腰掛けた。差したパックのストローがきゅっと音を立てる。ずずっとすすると温かいココアが口内に広がった。混乱していた頭にじんわりと甘さが広がり、体から力が抜ける。中庭に見えるのは相変わらず寒々しい木々と等間隔に並んだベンチだけだ。

「……朔ちゃんが廊下にいるとは思わなかった。いつから聞いてたの」

 暫くして今井がそう言った。今井の口調は静かだったが、責めるような言い方ではなかった。ばつの悪い思いがして、ココアを一口飲む。教室に戻せなかった道具入れの朱色のお守りが鮮やかに映り、そっと人差し指で触れた。

「連絡先の交換ってあたりから。盗み聞きする気はなかったんだけど、びっくりして、離れるタイミングを失っちゃって……ごめん」
「過去は変えられないし、山宮君には心の中で謝っておこう。……朔ちゃん、山宮君の気持ち、やっぱり知らなかったんだね」

 再びココアを吸って小さく頷く。なんとなしに校舎を見上げた。先ほど廊下からこのベンチを見下ろしていた。

「山宮にも言ったけど、てっきり男に告白してこいっていう罰ゲームだと思ってた」

 朔也は初めて山宮が告白してきたときのことを思い出そうとした。親しくないクラスメイトの「好きだ」という言葉に驚いたものの、すぐに笑顔を作ったことは覚えている。

――山宮、だっけ? 突然どうかした? 誰かに罰ゲームでもさせられてるの?

 確か、そのような言葉をかけた。彼がどんな表情をしたかまでは覚えていない。委員長に試験の点数で負けたからだとか、たまたま見かけたからお前にしたといった、もっともらしい言い訳をしていたという曖昧な記憶しかない。

「というか、今もあんまり受け止められてないんだけど」

 すると彼女がポニーテールを揺らして朔也の顔を覗き込んだ。

「それって、山宮君の気持ちが嫌だってこと?」
「そうじゃなくて……山宮って本当におれのことが好きなの? そこが分かんないんだよ。おれ、山宮に好かれるようなことなんて、なにもしてない。話すようになったのもここ数週間くらいなのに」

 そうだよ、と朔也は内心頷いた。

 山宮にこちらから話しかけたのは、食堂で偶然会ったときだ。確かに、それまでも罰ゲームで会話はしていたし、教室内でもなにかの用事で話したことはあったかもしれない。だが、それだけだ。少なくとも朔也の記憶に強く残るようなやり取りをした覚えはない。

「だから、現実味がなくて信じられないっていうか。今井はどうして山宮の気持ちを知ってたの?」

 朔也の言葉に今井がふふっと笑った。少し眉を寄せて困ったような笑みでこちらを見てくる。

「山宮君を見てれば分かったよ! うーん、朔ちゃんのそういうところ、山宮君っぽく言えば周りが見えてないってことなのかな?」
「ぐうの音も出ないよ……最近自分の悪いところを認識した」
「あたしは悪いと思ってないよ。朔ちゃんが空気を乱さないように皆に合わせてるの知ってるし。ただ心の奥にある気持ちまで知るのは好きじゃないってだけだよね」

 朔也はそれには答えなかった。今井も特に同意を求めていたわけではないらしく、すぐにストローに口をつける。

「朔ちゃんと山宮君ってそういうところが似てるよね。自分の気持ちを隠して誰かに伝えることが不器用。悪いことじゃないよ。でも、二人の仲は前進しないなって思ってたんだ」

 今井はそこで一息つき、にこっと笑ってこちらを見た。

「電話するくらい仲良くなってたんだもんね! 朔ちゃんは山宮君の気持ちを知ったんだし、これで変わるなら結果オーライなのかな」

 朔也のジュースを持つ手が止まった。

 前進? 変わる? ……おれはなにを変えなくちゃいけないんだ?

「……おれ、これからどうしたらいいんだろ」
「どういう意味?」
「おれ、今まで一度も山宮の告白を真剣に聞いてなかった。なんでおれを罰ゲームに巻き込むんだろうくらいに思ってた。だから、今日山宮を怒らせたんだし」

 すると今井が驚いたようにココアを飲むのをやめた。

「怒らせた? なにかあったの?」
「山宮から聞いてない?」
「ううん、なにも」
「おれが気持ちを踏みにじるようなこと言っちゃったから、山宮がものすごく怒っちゃってさ。……いや」

 朔也はそこで言葉を切った。先ほど見た山宮の激情。

「怒らせたんじゃない。おれ、傷つけたんだ」

 何度告白しても本気にされず、挙げ句の果てには相手がふざけて罰ゲームを仕掛けてきた。自分の行動は彼の目にそう映ったはずだ。朔也には山宮の気持ちは分からない。だが、叩かれた朔也の頬より叩いた山宮の心のほうが痛かっただろう。

「……なにがあったのか分からないけど」

 今井の手が冷たい風に揺れたスカートの裾を整える。

「山宮君のことを傷つけて後悔してるなら、ごめんねって謝ればいいんじゃない?」
「今井の言うことって明確でいいよな」
「あはは、そう? そこがあたしのよさってことにしておく」

 謝ればいい。そうだ、ちゃんと謝ろう。

 朔也は最後まで飲みきると、パックを潰してゴミ箱に捨てた。

「今井、ありがとう。やるべきことが分かったよ」

 するとベンチに座ったままの彼女も笑顔になった。その頬がいつの間にか寒さで赤くなっている。

「それならよかった! もうすぐ下校の放送だけど、朔ちゃんは山宮君のところに行く?」
「時間もないだろうし、明日にする。今日は帰って謝る言葉を探すよ。今井、帰ろ」
「そうだね。そろそろあたしも寒くなってきたよ」

 ポニーテールの彼女が立ち上がり、寒そうに指をこする。ココアの紙パックがまた一つゴミ箱に落ちた。
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