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第一幕『塞翁が馬』
第一幕・十六『正義の見方 -セイギノミカタ-』
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見た目がエルフ、種族名がイルフィン、そして吟遊詩人でもあるストレルと別れてから、なだらかな丘陵地帯をミツルとアリヤ、ローリアとシエラの四人は下っていた。
シエラはストレルの奏でた音楽を気に入ったのか、先ほどから鼻歌交じりに歌っている。ミツルと初めて出会った日は酷く怯えていたその顔も、今やひきつることなく綻ばせて愉しそうな笑顔を燦々と振り撒いている。
丘陵地帯ということもあるため上方からは景色がよく見え、まだ少し歩かなければならないものの森林はもはや目に見える距離に存在していた。
鬱蒼と生い茂るその森はミツルら一行がこれまで歩んできた陽のよく当たる場所とは違い、外から見る限り中の様子は木々の傘に遮られてうかがい知れない。ここに来てようやく平和な世界に自分は居たのだということを思い知らされる。
丘の頂上から横並び一列に立っている少女たち三人を横目で見ると、いつのまにか愉快な鼻歌も止んで全員が張りつめた表情で息を呑んでいるのがわかった。メルヒムの世界で生まれ育った住人でも、国から一歩外に出れば気を引き締めなければ案ずることはできないのだろう。
ミツルにとっては人生初の狩りだ。それも熊や猪などではなく、二足歩行で襲い来る、知性を持った怪人の。
ミツルは何体も潜んでいるであろうバッドグリムの住処を今一度じっと見据えると、深く息を吸って足を持ち上げた。
~ ~ ~ ~ ~
――悪には悪なりの正義がある。
いつもいつだって、善が必ずしも正しいとは限らない。
最も初めに生まれ出たバッドグリムは、一体何を思ったのだろうか。
人と同じ形をして、人ならざるものとして扱われたのだろうか。
忌み子として、蔑まれたのだろうか。
だとすれば、真の義はバッドグリムにあるのではないか。
ただ姿が違うというだけで、悍ましい目で見られ迫害され見限られ。
もしそうならば因果応報、自業自得。相手に憎まれても何も文句は言えまい――
そんなことを思いながら、ミツルは深い緑に覆われた木々の中を一定の速さで進んでいく。
昼間でもこの森の中は薄暗く、影で湿った泥が靴底にべっとりと付着するくらいだ。
今の時期でこの肌寒さ。きっと真冬にもなれば野生の動物でも凍死するのが現れるのだろう。
常日頃から周囲を警戒しているため、さほど緊張感は感じない。それよりも、毒性を持った虫などに噛まれたりしないだろうかといったほうに意識を向けているまである。
少女たちも沈黙を貫き、土を踏みしめる足音と弱々しい風が木々の隙間を縫って、草木を擦らせる音だけが耳へと入ってくる。
聞いた話ではバッドグリムはとても弱い部類に居する魔物だそうだが、それはミツルにとっても同じことだ。
弱者VS弱者。けれどこちらにはローリアやアリヤがいる。シエラだって不得意ではあるものの決して戦えないわけではない。勝算はある。
一寸先は闇とまではいかないにしろ、そこそこ奥が暗くて見えづらくなっているのをミツルは目を凝らしてじとりと先を睨み続ける。
「――気を張りすぎだよミツル」
皆が黙って周囲を警戒する中、そんな静寂を破ったのはローリアの一言だった。
三人を恐がらせないよう冷静さを装っていたのに、逆にローリアに気を遣われてしまいミツルははっ、と知的な少女へと目を向ける。
「いざとなればボクがキミを守ってやる。だからキミは、シエラを守ってやればいい」
ローリアは声を窄めながら、ミツルの背中に盾を張るように勇気づける。
「守るんだよミツル。守れる強さを身につけるんだ」
「私もある程度の治療ならできるし、昨日薬も買ったから安心してね」
アリヤも優しさの浮き出た笑顔で後ろからミツルに声を掛ける。
出立の時といい今といい、年下の少女たちから励まされて、本当に惨めな男だ。いくら虚勢を張って騙し欺き蔑もうとも、彼女らはそれをかいくぐってミツルの弱々しい部分を優しく撫でてくれる。
――ああ。どうして前の世界で、こんな人達がいなかったのだろう。一人でも側に居てくれたのなら、これほどまでに眩迷することも無かったろうに。
人間、性格を良い方向へ戻すのはとてつもなく難しいのに、悪い方へは意思に関わらずいとも簡単に落ちていくからふざけた話だ。到達するのは大変なのに、戻るときは楽。まるで階段である。
ミツルは哀愁漂う顔つきで少女たちの目を見つめ、感謝と哀しみの入り混じった笑みをこぼす。
周りにいたのは独善的で自己中心的な人間ばかりだったミツルにとって、彼女たちの励ましの言葉は身をよじらせるものがある。
――暖かいのに、辛くて。柔らかいのに、痛くて。
その優しい気持ちに寄り添いたいのに、人間不信である自身が彼女たちの仮面を剥がそうと勘繰る。
もし彼女たちの優しさが心の底からの本音なのならば、ミツルは仮面ではなく彼女らの顔の皮を剥がして傷付けていることになる。
無垢な思いやりを憚り、真誠な微笑みに泥を塗り、純粋な気持ちを踏みにじり、やがて後悔するのだ。
今まで不信がっていたのが裏目に出て、信じれるものをさえも信じずに棄ててしまうことによって。
――守ってやると言われて、背後から刃を突き立てられるのではないかと未だにそんなことを想像してしまうミツル。ローリアに限ってそんなのあるはずが無いのに、それでも最悪の事態が脳裏から離れない。被害妄想も甚だしいと心底自分で思う。
とどのつまり、一番の自己中心的な人間はミツルなのだ。
最悪の事態と言っておきながら、考えるのはいつだって自分のことばかり。アリヤやローリア、シエラにしてみれば、現状での最悪の事態はこの四人に危機が及ぶことなのに、ミツルは自身の身の危険にしか目を向けていない。
そのような保身的な部分を客観視して、ミツルは性悪な自分を卑下して歩く――――
「ッ、――?」
そんなことを考え思い耽っていると、右腕に何か軽い衝撃を受けたと同時にピリピリと痛みが生じるのをミツルは感じた。思慮の深淵に入って思考を割いていた分、痛覚が鈍感になる。
虫に刺されたかとも思ったが、それにしてはやけに図太い感覚。
何が起きたのか周囲を見渡すが、他の三人の表情を見て一変、すぐに理解する。
「右だッッ!!」
目を見開いてローリアは叫び、言われたほうへと目を向ける。と、ギラリと鈍く光るものがあった。
視界にそれを捉えた瞬間、ミツルは直感的に頭を下げる。すると、弦を弾く音の刹那にミツルの頭上を細長い矢が通り過ぎるのがわかった。
再び視線を戻すと、二射目を撃ち終え弓を構えてこちらを見つめる紅い眼球と目が合った。
頭から足先にかけて全身緑っぽく、上半身は裸のまま毛皮のボロ布を腰に巻いている。
――――こいつがバッドグリム?
ミツルの抱いた第一印象は、様々な本やゲームで登場するモンスター、ゴブリンのまさにそれだった。
名前が違うだけで見た目はゴブリンそのものである。しかし絵ではなく現実でその姿を目に映すとなるとまるで違う。非常にリアルだ。
水浴びすらしないのか、目には垢が溜まり、僅かに頭から生えた毛は枯れ草のようだ。身体は脂で艶めき、生理的に近付くのを躊躇わせるような造形をしている。
「他にもまだいるぞ」
矢の突き刺さった右腕を押さえて警戒態勢に入りながら、ミツルは一瞬一瞬アリヤ、ローリア、シエラが無事か目を配る。
「あそこに隠れよう」
左手で傷口を押さえているため、顎で大きな岩を指し示す。
――岩の影に身をひそめ、わずかな時間休息をとる。
バッドグリムたちも間抜けではない。きっと警戒してあまり近付くことはかなわないだろう。
「ミツル! 腕が……! やだよ!」
今にも泣き出しそうな表情をしたアリヤが、市場で買った薬を手に詰め寄る。
「落ち着けよアリヤ。思ったよりは痛くないから」
取り乱すアリヤをなだめるためミツルは軽く笑ってみせるものの、正直のところ激痛だ。異物が腕を貫いて反対側から飛び出ているのだから、痛いのも当然だ。彼女のアリシャの翠眼が思想ではなく本心を暴くものだったらすぐにバレる嘘だっただろう。
「……本当にすまない。守ってやるなどと偉そうに言っておきながら、キミにこんな怪我を……」
「ローリアも大丈夫だよ。これから戦闘になるんだ。気分切り換えないとそっちのほうが危ない」
黒い服の下から出た血が滲み、簡易に作られた矢と皮膚の微妙な隙間から流れ落ちる。
その様子を横で見ていたシエラの頭にミツルは軽く手を置きながら、
「大丈夫か?」
眉間の皺を絞るように寄せるシエラに平気振りを見せつけて安心させる。
「……私は大丈夫です。ミツルさんが、前に居てくれたおかげで……」
なかなかどうして肝の座った少女だ。腰を抜かすことも泣き叫ぶこともせず、こうしてミツルの無事を最優先している。
少女三人とも、良い性格だ。――なら、守ってやらないとな。
「アリヤとローリアはここから支援してくれ。シエラは回り込まれないように後方の警戒。いいな?」
そう言って、ゆっくり、ゆっくりと警戒するように近付いてくる足音を地面に耳を当てがって慎重に聞き分けながら、ミツルは大きく息を吸って勢いよく飛び出す。
現状聞こえた足音は三つ。つまり近距離にいるのは三体だ。けれど、それもこちらを騙す相手の戦略かもしれない。遠くには必ずまだいるはずだ。そのことを踏まえて、近距離には最低四、五体、遠距離に二、三体と実際よりも多めに想定しておく。
「待って、ミツル!」
背中越しにアリヤの悲痛な声が聞こえるが、この行動も全ては君を守るためだ。
己の持てる全てを費やしてでも、彼女は守りきる。
純白の姫を守るのは、漆黒に包まれた騎士。
初めて他人を守りたいと思えた、孤独な弱者の意思。
岩陰から飛び出した勢いで、瞬時に視界に入る魔物達の数を把握する。やはりすぐ近くにいるのは、三体。
視界に捉えると同時に、短い気合いと共に闇のオーブから刀身まで真っ黒な両刃の剣を繰り出すミツル。
左右にそれぞれ二体、中央やや後ろに一体。
「――せぁッ!」
ミツルは左側にいる自分よりも一回り小さいバッドグリムに向けて突進すると、具現化した黒刃の剣を有らん限りの力で振り下ろす。
振り下ろした刃はバッドグリムの右腕に真っ直ぐ入ると、肩と胴体の接地部を切り離して血飛沫を上げさせる。
つんざくような叫び声の主からはどす黒い血液が溢れ出で、切断された右腕がぼとりと鈍い音を立てて地面に落下する。
落ちて血溜まりを作っていく右腕の先には、ミツルを撲殺しようとした太い棍が強く握り締められていた。
ミツルは痛みでのたうち回りながら握り潰す勢いで必死に骨の見える腕の断面を抑えつけるバッドグリムをよそ目に、次いで右側から猛り狂うようにして襲いかかってくるバッドグリムの一撃を紙一重のところで避ける。しかしほんの僅か頬に掠り、薄く傷を作る。
棍棒と言っても、先ほど射出された矢と同様削って作られただけの質素な武器だ。ところどころに削り残った部分が突出しており、それが逆に脅威となっている。
アドレナリンが過剰分泌して思ったよりは痛みが少ないのを思考の隅で自覚したミツルは、片手に持っている剣を消却させる。
交渉の余地もなく、言語も通じぬ魔物であろうとも、相手が知性を持った人型をした魔物なのならば。
もしも、人間と同じような構造をした身体をしているのであれば。
――急所も、人間と同じではないのか。
(痛がるのなんて、あとにしろ――!)
ミツルは右腕から飛び出している邪魔な柄の部分を強く握ると、一呼吸したのち、勢いよく引っこ抜く。
頬にできた傷が何倍にも濃縮されたようなあまりの激痛に気が飛びそうになるが、奥歯を噛みしめなんとか意識を引き戻す。
そして対峙する二体目のバッドグリムを明滅する視界に入れて睨みつけると、自分の血を一身に纏ったその紅い矢をバッドグリムの喉もとにありったけの力を込めて突き立てる。
「お、あああッ……!!」
痛覚を誤魔化すため、また気合いを入れるために声を荒げながら、ミツルはバッドグリムの喉に突き刺した矢を両手で握って思い切り捻る。
抉られた首筋は捻ったほうへ渦状に皺をつくり、あらわになった気道から空気が漏れてぶくぶくと血泡を吹き出しながら赤く染まっていく。
二体目のバッドグリムはミツルの腕を掴んで離さぬまま、大きな目を白く剥きながら背中から大の字になって倒れた。
ほんの微かにバッドグリムがしている呼吸も、ひゅーひゅーと小さな音を立てながら首から外に道順を変えて放出されていた。
「――ダメっ!」
直後、片腕を掴まれたままで体勢を崩しているミツルに向けて一直線に飛来してきていた矢が、アリヤの一言と同じタイミングで速度を落とす。
というのも、彼女が放った風の刃が、遠く木の陰から照準を定めて撃っていたバッドグリムの矢をはじいたからだ。
そして矢を落とされたバッドグリムめがけて、ローリアが水を切るようにしてマディラムを放つ。
ミツルとまだ十五、六メートルはあったバッドグリムの額を、水でできた流弾が獅子の如き速さで撃ち抜いた。
後ろを振り返ると、アリヤとローリアが岩から顔を覗かせて心配げな表情でこちらを見ていた。
一息つくのも束の間、三体目の中央にいたバッドグリムが目前にまで迫り来る。
ミツルはあくまで冷静に慎重に冷淡に、慈悲など知らぬ死神の如き薄情さでもってマディラムを操る。
途端、錆びついた片刃のナイフをミツルの顔面めがけて突き出していたバッドグリムの身体ががくん、と揺らぐ。
まったく異なる理解不能の言語を喋りながら、バッドグリムは己を支えていた地面に目を向けた。
バッドグリムの両脚はちょうど膝辺りまでをずっぽりと地面に埋めらせ、暗く黒い影のような中へと吸収されていた。
バッドグリムはもがくように両腕を大きく振りまわして腰を捻るが、底なし沼のように抵抗虚しくその場から動くことができぬまま時間が過ぎていく。
人畜無害へとなり果てたバッドグリムだが、ミツルは放っておくことを良しとせず、速やかにバッドグリムの持っている錆びたナイフを奪い取る。
苔色をした魔物は血を充満させたように紅い双眸で目の前の黒い男を憤怒と理不尽の思いで睨みつける。
それに対してミツルはどこまでも冷めた目で、見下すようにしてバッドグリムの顔を無言で見返す。
殺し合いにおいて、情けは無用。
可哀想だのきっと和解できるだの思ってしまった時点で、それは甘えによる自身の命の断絶にしか繋がらない。所謂死亡フラグというやつだ。
片方が思ってももう片方がまったく思っていなければ、言わずもがな、やられるのはこちらだ。
人という字はどうだこうだと言う者がいる。その者の受け取り方次第で良くも悪くもなるが、一個人の見解では、ミツルにとっては弱肉強食を表しているようにしか見えないでいる。
強者は弱者を蹂躙せんと押し潰し、愚鈍な弱者は無力なその力で不動の強者を押し返す。そんな惨めで愚かで残酷な、人間という象形を体現した文字にしか。
あれはまさに社会の縮図を二つの線だけで表した、見事で皮肉な文字なのだ。
だからきっと、今この瞬間にミツルとバッドグリムを横から見れば、人という字のような形になっていることだろう。
通常ミツルは弱者だが、今だけはバッドグリムよりも強い存在なのだ。
だが時として、強者は弱者に脅かされることがある。
――油断だ。
取るに足らぬ者だと、気を抜いていい相手だと油断する強者は、弱者に心臓を撫でられることを得意とする。
どうせ先の短い命ならば、最期に一矢報いてやろうという、その底力を知らないでいる。
けれどその点ミツルはそのことを知っている。よく知っている。弱者の抗いの強さを。もうどうとでもなれとなった者の、その狂気じみた感情を。
ミツル自身が何度となくその身で体験してきたから。
「――ブッ!」
だからこうしてバッドグリムが行った最後の抵抗――唾を吐きつけるという行為も、ミツルは容易に察知していた。
ミツルはバッドグリムが顔面に飛ばしてきた黄色がかった唾を、顔にかかる直前で手のひらで受け止める。それから手に付着した汚い液体を近くの木に擦りつけて取ると、
「…………」
無心に無情に無道に無慈悲に、ミツルはバッドグリムから奪い取った片刃のナイフを腕を伸ばして横に一閃なぎ払った。
一文字に振られた赤茶色に錆びた部分のある刀身の先端が、影に埋もれて身動きのとれないバッドグリムの喉元を切り裂く。
一般的なカビのように色濃く緑がかった皮膚が上下に開き、血液が噴水のように飛び出す。それと同時に、バッドグリムは一度全身を痙攣させてから意識を失って倒れた。
「ギュルギッ!」
仲間の死にゆく光景を遠目で見ていた最後のバッドグリムは動揺したのか、声を荒らげて歯を食いしばっている。そんなバッドグリム相手に、ミツルは未だ離さず持っている錆びたナイフを投げつけた。
ミツルの投げたナイフは弧を描いてバッドグリムのほうへ向かっているが、回転するナイフは刃か柄どちらが当たるかわからない。
だがそれでもいいのだ。
当たろうが外れようが、重要なのは刃物を投げたこと。仲間の身を切り裂き、仲間の血肉を吸った自分たちの武器が己を殺そうと飛来してくる恐怖にこそ意義がある。恐怖に怯えた者はその場から動けなくなり、それが結果として逆に逃げるチャンスを逃すのだから。当たるか外れるかなど、二の次に運として任せておけばいいのである。
――ナイフを投げた直後に走り出して一気に距離を詰めるミツル。アリヤとローリアとの訓練で培った戦い方をベースに、様々な格闘技や己の相手の考えを読むという技を組み込んだ、ミツルだけの戦闘法。
投げたナイフはうまく相手の顔めがけて飛んでいく。が、バッドグリムの顔面に当たったのは刃の部分とは真逆の持ち手――柄だ。
バッドグリムは条件反射による影響でナイフが当たる直前に咄嗟に両眼を強く瞑った。
そのタイミングを見計らっていたミツルは、バッドグリムが目を瞑って視界を遮断した瞬間を狙って蹴りを一発、相手の胸に真っ直ぐ入れた。
蹴りによる運動エネルギーの衝撃で、バッドグリムは後ろに大きく仰け反る。
次の瞬間、バッドグリムの甲高い呻きと同時に、真後ろで鋭く枝を横向きに生やしていた木にバッドグリムの腹が勢いよく突き刺さった。
――呻き声を上げて噛み締めた口から血を垂らしながらも、バッドグリムは必死に抗って自分の腹から突き出た枝から脱しようとする。しかし、反しの付いた枝は抜けさせることを許さず、さらにバッドグリムの腸を抉り続ける。
激痛で冷汗をだらだらとその身に流すバッドグリムに、戦い終えたミツルが警戒心を保ったままそっと近付いていく。
その様子を岩から顔を出して見ていた三人の少女達も、辺りに残敵がいないか見渡しながら近付く。
「――ミツルさん、大丈夫ですか……!? 怪我は、怪我は平気ですか!?」
「シエラ落ち着いて。息くらいつかせてやれ」
ミツルが無理矢理矢を引き抜いた腕からは血が滲んでおり、それを目の当たりにしたシエラは心配そうに声を荒らげる。ローリアはそんな焦るシエラをおだてようと後ろから両肩を掴んで声を掛ける。
「ああ。なんとか、な」
疼く腕を押さえながら、ミツルは目前で徐々に衰退していく魔物を見つめる。バッドグリムはもはや踏ん張る気力も残っておらず、その肢体の全体重を腹に刺さった鋭利な枝に任せていた。手は力無くぶらりと下げており、朦朧とした意識の中でただ一点、ミツルの目を睨み続けている。
ミツルはそんなバッドグリムの抗うような血色の瞳を目を逸らさずにじっと見つめ返す。
今この瞬間、生と死の霧に薄れゆくこいつは何を思っているのだろう。
少なくとも、ミツルに対して恨みや憎しみは持っているはずだ。いくら依頼されたからとはいえ、何の関係も接点もない人間に仲間も自分もいきなり殺されたのだから。
彼らが農作物を盗んだのも、ミツルたちに襲いかかってきたのも、総じて生き残るためだ。やっていることは人間と何も変わらない。
しかし時代が進むにつれ、人間のほうがより強靭になり、聡明になり、狡くなり、道徳を生み出したことでバッドグリムは賤民のように下劣な存在になってしまった。
加えて人間とは肌の色も言葉も体格も違い、それを人間に仲間じゃないと判断され、バッドグリムも判断したことで決別したのだ。
古今東西異世界問わず、素直に甘受せずに差別化してしまうことによって、こうした諍いや戦争がいつまでも無くならないまま生命が亡くなることになっているのである。
それにもしも。
もしも全種族が、互いに認め合って助け合えることができたとしても。
結局のところ腹を満たすために生物を殺すことになる。
どうしたって無理なのだ。そのような絵空事、どんなに綺麗で平和な世界でも拭い去ることはできない。することを良しとしない。
――ミツルが世界の残酷さに思い耽りながら見つめ続けていると、やがて魔物の重い瞼は完全に閉じ、耐えきれなくなった枝を二つにへし折りながら地べたにうつ伏せで倒れ込んだ。
その一連の流れをずっと見守っていたアリヤとローリア、シエラの少女達は、どこかもの哀しげな表情で立っていた。
ミツルは驚きの感情以外に何も無く、その理由として今日初めて故意に生物を殺したからなのだと一人思う。
赤黒い返り血を浴び、大切な人を守るために両手は泥と血にまみれ、鼻孔を通る空気には背けたくなるような臭いが入混じり、目の前にも後ろにも、死体がいくつも転がっている。
セルムッド・クラトスと交えた戦いとはまた違う、命のやり取りというものを、初めて行った。
言葉も道理も想いも通じない相手など死ねばいいとずっとずっと思い続けてきたミツルだが、いざ己の手を血で染めてみると、何か感慨深いものを感じた。
けれどそこに弔意や陳謝といった思いなど介入せず、あるのはただ殺したという事実と、優しさに溢れた少女達がその手を汚さずに済んだという安心感だけだった。
何も生物を殺したこと自体が初めてではない。それは、アリヤにもローリアにもシエラにも、誰にだって言えることだ。豚や鳥だって例外ではない。
生きとし生けるもの、皆生きているだけで殺してしまう。
座るだけで、歩くだけで、知らぬ間に虫を踏み殺し、草花を引きちぎる。ただ小さいか大きいかの違いで、何千何万といった生物を日々殺している。だが大きさがあるだけでも、大が大を殺すとなると、それは看過できるものではなくなってしまうのだ。
小さければ、少数であれば仕方ないで済ませられるが、その逆になれば耐えられないと。それも人類の一方的で身勝手な価値観のひとつだ。
このファンタジーな世界に住んでいる限り、これからも様々な魔物を殺め葬っていくことだろう。そしていずれ、そう遠くない未来の自分は殺すことにすら慣れ、それが当たり前となり日常となるのだ。
穢れた手を洗って付着した血肉は流れ落ちても、その眼には、いつまでも血塗られた汚い手が見え続けるのだろう。
――そんな手を、彼女は握ってくれるのだろうか。
――こんな目を、逸らさず見てくれるのだろうか。
きっとしてくれるのだろう。彼女は、アリヤはそういう奴だ。
ならばせめてその優しさに応えられるように、彼女のためだけに剣を振ろう。
そう心に決め、ミツルは深い森の中、屍骸となったバッドグリムをしばらくの間見つめ続けていた。
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