背きの秘事

千木

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3話

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 マリア像を眺めるセイの瞳は、やはり無興味を露にしている。優しく微笑む彼女に似ているだなんて言われたこともあるが、彼の本当のところを見るに、どちらにとってもかなり失礼なことだろう。それを見抜けない人間の怠惰に欠伸を噛み殺すことにも慣れている。
 普段使われる大きな礼拝堂とは違い、敷地の端に追いやられた此処は規模も小さく設備も古い。昼さえ人気がなく静かだが、こんな夜更けの時間はいっそう無音だ。自分の呼吸音でさえ耳に入ってくる。

「……、来ましたか」

 近づく足音に振り返る。そこには開け放していた扉を閉める見慣れた顔があった。見慣れた顔といっても、顔の上半分は相変わらず白く清潔な包帯でしっかりと覆われているのだが。

「これはこれは、神父様。ご足労いただいて恐縮です」
「思ってもいないなら、言わなくて良いよ」

 仰々しくお辞儀をするセイに、レンは肩を竦めて笑う。
 何回目かの逢瀬。密会はあの夜以降、レンの不可解な提案と、セイの好奇心が合わさり成立してしまった。セイが任務を終わらせた帰り、決まってこの小さな礼拝堂で、少し会話を交わすだけ。しかしそれはマリア像の前で発するにはそぐわない言葉が飛び交い、一切が他言無用を強いられるものだった。

「先に言っておきたいことがあるのだけれど」
「なんでしょう」
「今日の賛美歌、あれは何?」
「何とは?」
「明らかに手を抜いていたでしょう。もはや冒涜なレベルで。隠す気は失せたの?」
「まさか。私は此処に大変お世話になっているというのに」
「白々しい。なら、どうして?」

 レンが長椅子に腰掛けると、セイはその前の机に座った。察したレンがセイの身体を軽く叩いたが、退く気が無いのがわかると溜息を吐いて手を膝の上に戻す。頭上からセイのくすくすと笑う声が聞こえて、顔を上げた。

「いらっしゃった信者の方々、皆さん涙を流して褒めてくださいましたよ。『今日のは特に良かった』なんてね」
「……」
「主任神父様にもお褒めの言葉をいただきました。……ふふ、貴方だけですよ。わかるのは」

 レンの複雑そうな表情を眺めて、セイはにっこりと微笑んだ。
 セイはレンに対して、開き直ったように悪戯を仕掛けるようになっていた。レンにしかわからない言動や、聖歌の変化……指摘された部分を、あえて、わざと。そのたびに此処で説教されては、愉しそうに笑う。『彼は見抜けるだろうか』という試しと、ある意味で安心感を得るための、少し子供じみた行動。それは「つまらない」を連呼していたセイの、最近の密やかな楽しみだった。

「最近は、明らかにわざとやっている部分があるでしょう。俺じゃなくたって、そろそろ分かる者が出てきそうなものだけれど」
「それがまた、いないのですよ。残念ですね」
「……」
「人は、他人なんて見ていない。表向きさえ良ければなんとでもなるんですよ」
「それでも、神は見ているよ」
「それこそ冗談じゃない」

 先ほどの愉しそうな笑いとうってかわって、セイは鼻で笑った。時々入る神父らしい物言いには興味が無い。ぴしゃりと言い放つと、レンは再度小さく溜息を吐いた。

「俺は『一層気をつけて』と言ったでしょう。此処に居てもらいたいから、とも伝えたね?だからこそ、わざわざ危ないことをしないでほしい」
「ばれやしませんよ。私の普段の素行は至って良好です」
「最近の目に余る言動のことを言っているの。自ら余計なことをするのは、約束と違うでしょう」
「おや、でしたら追い払ってどうぞ」
「……はぁ……」

 もう一度、大きく吐いた溜息はやたらと響いて消えた。本来の密会の意味を考えればレンの物言いは真っ当だが、セイとしては『やっと見つけた楽しみ』なのだ。それを咎められるなら、上に通告されようがこの逢瀬に意味は無い。
 レンの知らなかった部分は、もしかしたら自分に近しいのではないかというセイの期待は、定期的にこうやってへし折られる。自分の背信的な思考を許してくれる気がして、レンという人間が他の右へ倣えな盲目的信者と違う気がして、興味と好奇心を持った。しかし話の節々に彼の《真っ当な人間性》が見えるたびに、急に冷めてしまう。自分とはやはり相容れないと再確認する。
 多少意地の悪い面があり、聖職者としては一部欠けている気がするも、やはり彼は人間の見本と言える気がして、セイのレンへの興味は初めと比べて随分薄れていた。もし自分へのこの処遇が、改心させる為の演技であれば、やり方はさておき聖職者としてだって良しとされるのかもしれない。そう考えれば彼には、やはり何も問題は無いと言える。セイは頬にかかる髪を指ではらうと、つまらなそうに立ち上がった。

「まぁ、貴方は人を導く立場ですものね」
「……」
「上に伝えていただいて構いませんよ。そろそろ本格的に飽きてきたところです」

 大きな十字架をくるくると手で操る。不自由な生活を望んではいないし、此処を出てあてがあるわけでもなかったが、生活能力や金が無いわけでもない。麓の村では顔がわれているものの、不自由さえ許容してしまえばなんとでも生きることは出来るのだ。唯一興味を持った彼がこれならば、特に思い残すことも無いわけで、これからのことを漠然と考えながらセイは扉に向かった。

「少しは楽しめましたよ。ありがとうございました」

 わざとらしく笑んで、閉まった扉に手を掛ける。長椅子に座ったまま、真っ直ぐマリア像を見つめるレンから視線を外した。
 これで終わりだ、と。

「君の歌、とても好きなんだ」

 ふと言葉が響いて、セイは振り向いた。レンは此方を向いていない。同じ姿勢のままで、表情が見えない。言葉にも感情が乗っておらず、何も伝わってこないことに首を傾げる。黙っている間に、レンがまた言葉を紡いだ。

「君の歌を聴くたびに、嗚呼、赦されるのかなと思ったりしてね。神父がシスターに導かれるっていうのも、どうかと思うけれど」
「何のことですか。大体、貴方は私の歌を冒涜的だと、」
「うん、とても。だからだよ」
「は……?……、!」

 訝しげに眉を顰めたセイが、刹那はっとした表情を浮かべる。視線の先でレンは立ち上がって、セイと向かい合っていた。彼の纏う雰囲気が変化する。そこに笑みはない。思わず息を呑んだ。
 ステンドグラス越しに差し込んでいた月光が雲に遮られると、辺りはすっかり暗くなる。闇に阻まれた視界で、うっすらと見えるお互いの姿はシルエットのように浮かび、表情は見えない。

「最近の言動は、俺を試していたのでしょう?けれど、そんなことはしなくていいんだ。必要が無いから」
「……ッ、」

 こんな闇の中で、レンは躊躇なく歩いてセイに近づく。気配を察して少しだけ後退るが、その声は今は『ちゃんと』穏やかで、セイは顔を見ようと目を凝らした。ようやく目が慣れてきた頃になって、雲が晴れたのか光が戻る。少しだけ眩んだ視界の目の前に、にこりと笑んだレンがいた。

「だから、俺にも君を試させて?」
「な、にを、」

 セイの唇に、レンの人差し指が触れる。相も変わらず冷たいそれで遮られた言葉の代わりに、レンはそっと囁いた。

「俺は、『神を信じているよ』」
「……ーーーー!!」

 その言葉に含まれた意味合い。わかりやすく声に乗せられた『真意』を、セイはしっかりと受け取って目を見開いた。眼前で口角をあげ、自分を試すと言うレンに返す言葉を、要領よく生きてきたセイは何より正確に把握する。動揺する心を鎮めるために一度深呼吸をしてから、ふ、と目を細めて唇にあたる指にそっと口づけた。

「……嘘吐き」
「あぁ、やはり君は賢いんだね」

 感嘆するその声音に、セイは正解を確信する。レンの表情や声に動揺は見られない。それは、《嘘を吐き慣れている》証拠だった。平然と、流れるように嘘が吐ける。そして、今の言葉が嘘なら。

「私は……まだまだ未熟なのですね」
「そんなことはないよ。わかってくれたじゃない」
「貴方の手の上、でね」

 セイは息を吐く。同士であるレンの本質を一切見抜けず、稚拙な悪戯を繰り返し、臍を曲げていた自分の完全敗北。圧倒的な強かさ、人間としての能力の高さをむざむざと見せつけられてしまえば、悔しさを感じる前に感服してしまった。

「でも、これでわかってもらえたかな。今後は余計なことはしないように」
「どっちみち、貴方にしかわからないのに」
「油断は禁物と言ったでしょう。せっかく見つけた同士の君が追放されたら嫌じゃない」
「最初からそう言えば良かったじゃないですか」
「言うつもりはなかったよ。君が自ら出て行こうとするから」
「……少し焦りでもしましたか?」
「だいぶね」
「そうは見えないのが残念ですけど、一矢報いたようで何よりです」
「負けず嫌い」
「そうですよ」

 唇から指は離れたが、ほぼ身体が触れているような至近距離で会話を続ける。お互いに指摘も避けもしない。鼻先さえ掠りそうで、呼吸を感じるほどで、なのにそれが不思議と苦ではなかった。同士だとわかったからなのもあるだろうが、おそらくはもっと単純なことだろうと、セイは自身の鼓動の速さに一人自嘲する。
 思えば初めから、このパーソナルスペースを侵食した距離に嫌悪感はなかったのだから。

「レン、」
「!何……、」

 名を呼ばれて肩をぴくりと跳ねさせたレンの唇に、今度はセイが人差し指を置いて、言葉を遮って、
 その指越しに、キスをした。

「私は、とことん神が嫌いなようです」
「……、そう」
「はい」

 レンはキスされたことまでは認識できてないように見えた。少し首を傾げている彼の様子に満足そうに微笑んで、セイは後ろ手に扉を開けた。

「戻りましょう。いつもより随分遅くなってしまいましたから」
「そうだね」

 礼拝堂から出て見上げると、なるほど雲の多い空だった。雲に透けるように霞む月を眺めてから、後に続いて外に出たレンに振り返る。

「おやすみなさい」
「おやすみなさい。また後で」

 セイが立ち去る背中を見送って、足音が遠くなってから踵を返したレンは、自身の唇に手をあて微笑んでいた。
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