背きの秘事

千木

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2話

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 窓から差し込む朝日は、嫌味なほどに穏やかだった。昨夜の彼を彷彿させる、柔らかな光。
 睡眠時間が削れども、染みついた生活サイクルによって同じ時間に目を覚ます。ベッドに横たわったまま、セイは手を上へ伸ばした。指の間越しに白い天井を見る、その行為に何の意味もない。

「……」

 昨夜のことを思い出すその表情は、不服に満ちていた。


**


「君の先の言動は、背信行為に値する。それは自分でわかっているのでしょう?」

 神父は困ったように笑いながらそう言って、ゆっくりとセイに近づく。長椅子の位置を時々指先で確認するだけの、そんな程度で迷いなく歩を進めている姿を眺めながら、やはり盲目は似非なのではないかと、失礼なことを考えていた。

「いつからお聞きになられていたのですか」
「随分初めの方からかな」
「……はぁ。ならば、言い訳の余地もありませんね」

 神に身も心も捧げるべきこの場所にあるまじき言葉は、たとえ独り言といえどただでは済まされないことはわかる。わかっているから、人気のない時間、場所を選んでいたのだ。
 なのに見つかった。しかもよりにもよって、品行方正な神父である彼に。それなりの処分は免れないだろうと、特に言い返すこともなく、セイは神父の言葉を待った。
 神父はセイの前で立ち止まる。パーソナルスペースを侵した、異様に近い距離。咄嗟に少し後退ったが、何故かそこまで不快感は無くて、しかしその理由を探している余裕は無い。
 身長が変わらない二人の視線の高さはほぼ同じ。布越しに目を合わせる。彼からはどう見えているのだろうか。どういった言葉を吐くだろうか。なんであれ事態が好転することはないだろうと、セイは諦めをもって目を閉じた。
 しかし、その予想はあらぬ方向へ覆された。

「きっと、懺悔なさいと言ったところで、君はしないのでしょう」
「……え?」

 苦笑を浮かべたままの神父の口から出た言葉は、叱責でも説教でもなかった。想定外の言葉に、セイは目を開け言葉を失う。そんな彼をよそに、神父はわざとらしく「あぁ」と声を上げて言い直した。

「懺悔なさいと言えば、するだろうね。そこに気持ちがなくとも」
「……!」
「君はずっと、そうしていたものね」

 神父はするりと手を伸ばし、セイの頬に触れた。体温が低いのか、ひんやりとした指先に少しだけ震えたが、内心はそれどころではない。
 今まで隠していた全てを知られているような口ぶり。一貫して穏やかな声音と表情に、なんとか動揺を押し隠す。揺さぶりの可能性もあるが、聖職者として評判の高い彼から出る言葉としては不自然だ。彼を理解しきれていないとはいえ、今どういう感情で自分と向き合っているのか、驚くほど何も伝わって来ないことに胸がざわついておさまらない。そんなセイの様子がまるで見えているかのように、神父は言葉を続けた。

「君の普段の言動は、シスターとして問題ない。むしろ手本とも言えるだろうね。歌声は他のシスター、主任神父、信仰者の皆を癒やしていて……うん。申し分ない」
「……」
「上手に生きているな、と感心しているんだよ。あんな中身の無い聖歌が、あれだけ人間を感動させるのだからね」

 あぁ、駄目だ。
 これまでの経験上、どうしても理解させられる。処世術として使いこなしてきた物分かりの良さゆえに《理解わかる》。気づかれないように、セイは奥歯を鳴らした。
 揺さぶりではない。彼はわかっている。セイがどうやって生きているかを。どういう思考を持っているかを、全て。
 実直で優しい、自分とは無縁の人間だと思っていたが、どうやら随分意地悪く強かな男であるらしい。そうとわかれば、より一層反論をする気が失せた。一方的に弱みを見せている状況では、おそらく彼に勝てないだろう。しかし彼はどういうつもりか、全てわかった上で自分に理解を示してくる。その真意ぐらいは知りたくて、セイはようやく口を開いた。

「……それで、どういうつもりですか」
「どういうつもりとは?」
「主任に突き出すのではないのですか」
「そのつもりなら、最初からそうしているよ。君と話してみたかったから、こうして君の時間をもらっているの」
「何故です」
「以前から気になっていたからね」

 ゆっくりと輪郭を撫で、神父は微笑む。そしてその手を退かすと、一番近い長椅子に腰をおろした。

「君のことだから、こうして現場をおさえなければ、のらりくらりとかわすだろうと思ってね。俺は君と『話がしたかった』から」
「……」

 明らかに不服を浮かべたセイの顔は、神父には見えていない。しかしその表情は妥当だろう。要は、見事に罠に嵌められたということだから。
 たまたま通りかかったわけではもちろんないし、任務帰りに此処に来ていたことも、前から知っていた可能性が高い。話すために、機会をうかがって泳がせていたということだろう。

「初めて君の聖歌を聴いた時からずっと、信仰心の無さには気づいていた。けれど周りは、未だにそれに気づかない。驚いたよ。君は本当に上手く生きている」
「……お褒めに預かり、光栄です」
「怒らないで。本心だから」
「怒ってなどいませんよ。気分は悪いですが」
「はは、そうだろうね」
「それで?私の弱みも握れたわけでしょう。満足ですか?」

 貧乏ゆすりのように、十字架の先をとんとんと床にぶつける。再三注意深く生きていたあれこれが露呈していた、しかもそれがわかっていて泳がされていたと知れば不快にもなる。なんなら、いっそ上に通告してくれた方がマシにも思えてきた。怒りに任せた声音での問い掛けも、神父には特に効いている様子はない。

「弱みを握ったつもりはないよ。これからは、一層気をつけなさい」
「……は?」
「気づく人はそうはいないだろうけれど、油断は禁物だからね。じゃあ、戻ろうか」
「……ッ、待ってください」

 立ち上がって入り口に向かう神父を思わず呼び止める。此処まで話して、何も無いはないだろう。神父は不思議そうな顔をして振り返った。そんな顔をしたいのは此方だと、喉まで出かかった言葉を引っ込めて、最優先の質問を脳から引っ張り出す。

「なんのお咎めも無いのですか」
「咎められたいの?」
「そういうわけではありませんが」
「なら良いじゃない。人の思想なんて好き好きでしょう」

 思想の自由は、この聖なる場所では『神へ忠誠を誓う』前提ありきでしか成り立たない。聖職者の集まりの中での異端分子。そんな自分を好き好きで済まそうとしている彼に反論しようとして、しかしその無意味さに気づくと、セイは言葉の代わりに溜息を吐いた。

「貴方を、神父の鑑だと思っていた私が愚かだったのでしょうか」
「寛容な方だとは思うよ」
「……なんなんだ、貴方は」
「俺はただの神父だよ。少しだけ察しの良い、ね」

 嘘つけ、と思わず反射で言いかけたのを必死に押し込んで、代わりに少しだけ睨んだが、神父はなんの反応も見せない。見えていないのだからそれはそうなのだが……自分を丸め込んだ男は、何を気にするでもなく微笑んでいる。それがあまりに気に食わなくて、しかし今自分に反撃の術はない。その事実に、更に不服の色は濃くなった。

「あぁ、そうだ。ねぇ、」

 扉に手を掛けながら、神父は再度振り向いた。なんでしょうか、と不機嫌を隠すことなく返事をすると、肩を竦めて言葉を続ける。

「また吐き出したくなったら、俺のところにおいで」
「……は……?」

 想定の斜め上にもない言葉に、今度こそ拍子抜けした声が漏れた。そんなセイに、やはり神父は構いもしない。

「此処が良ければ、此処でも。鍵は俺が持っているし」
「何故です」
「一層気をつけろと言ったでしょう。俺は、相当の人間に対して目眩しになると思うけれど」
「貴方が私に対して、何故そうするのか問うているのですが」

 至極当然の疑問だった。顔見知りではあれど、特段仲が良かったわけでもなく、そこまで世話をやかれる筋合いもなければ、彼にだって面倒な思考を持つシスターの肩を持つ義理はない筈なのだ。けれど神父は何食わぬ顔で言葉を返す。

「俺は、君に此処にいてほしいからね」
「……理由は?」
「表向きとはいえ、君ほど優秀で、かつ歌の上手いシスターはいないでしょう。さらに限られた少数の、任務を行える人間だ。此処を守る神父として、逸材を手元に置いておきたいと思うのは、おかしいかな?」
「……」
「君にとっても、悪い話ではない筈だけれど」
「筋は通っているように聞こえますが、そもそも問題はそこではありません。聖職者としての大前提を裏切る私を野放しにするという貴方は、一体、」

 不意に言葉が切れる。すっと距離を縮められたかと思うと、神父の冷たい指が唇に当てられて、紡がれかけていた言葉をぴしゃりと遮った。唐突なことに目を丸くしたセイに、やはり神父は優しげに微笑む。その裏に、初めて意地の悪そうな雰囲気を纏いながら。

「俺の名前は、レンだよ」
「……」
「さぁ、今度こそ戻ろうか。俺のところに来なくたって、上に密告なんてしないから。君の好きにしたらいい」

 そう言って、指を離す。そのまま踵を返すと、今度は振り返ることなく、レンは礼拝堂から出て行ってしまった。残されたセイは、不本意にもその背を見送ってから、大きく息を吐いた。

「なんなんだ、本当に。彼は……」


**


 ゆっくりと身体を起こす。普段から他の者より幾分か早く起きる癖がついているけれど、その時間は回想に見事に潰されてしまった。
 自分が後手後手になったことも、彼の言動も提案も何もかも、気に食わなくて仕方ない。
 仕方ないのに。

「……」

 その反面、誰にも開かなかった心中を、他人に打ち明けられるかもしれない。そんな安堵と背徳心を抱く自分がいる。そして同時に湧き上がる、彼に対する興味。

「(神父様の名前なんて、知る必要も無いのに)」

 固有名詞を知り、冷たい指を知り、垣間見えた彼の本性の輪郭。もっと知りたいと思う好奇心と、エトセトラ。常時整然とした思考が、久しぶりにぐちゃりと濁される。その感覚に酔うように、セイは笑みを浮かべた。

「……あぁ、面白いかもしれない」

 つまらない生活が、変わるかもしれない。そんな期待に、密かに心を躍らせて。
 今日もまた、一日が始まる。
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