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213・声
しおりを挟む荒立つ波の間を掻き分ける様にして、風を纏いし巨躯が疾走する。
正に疾風怒濤を体現する攻防一体の突進ではあったが、それは何て事の無い障害物ーーヘイズに躓いた事で徒労と化した。
宙を飛んで、回って、幾つもの回転を経てた先で、勢い付いた身体はそのまま水面を打ち破ると、派手な水飛沫を上げて冷たい湖中へと魔獣人を押し込んだ。
魔獣人はシェリーと同じく虎がベースであり、ネコ科の中では珍しく水が苦手では無い種族である。だが浅瀬で魚を獲る様な事はあっても、頭から水へ突っ込む様な経験は無かったし、ましてや水中深くへと落ちたのは初めての事だ。
出鱈目に水を掻く程に生まれる水泡は只でさえ濁った視界を遮り、天も地も分からないままに焦り踠く魔獣人の肺からは容赦なく空気が抜けて行く。
四方八方へと風を放出するも複雑な水流を生み出すだけで、却って身体が湖底へと向かう始末。それでも一心不乱に水中を掻き続ける事で、魔獣人は何とか水と空気の境目まで辿り着く事に成功する。
「ガボッ ケハッ ハッ ハッ」
新鮮な空気を吸い込んだ魔獣人は、望んだ結果と違う結末に怒り猛る。そしてその原因を作った男を見据え、息荒く唸り大きく威嚇した。
そうして今度こそはと再び身構えた魔獣人の耳がシェリーの声を拾う。
「おいっ、おいって! こっち、こっちに来い!」
威嚇、雄叫、叫喚、絶叫ーー言葉は分からなくとも、相手が言わんとする事、これからするであろう行動は、ある程度声色で分かるものだ。警戒に値しない、脅しにもならぬ様な物。
だが、どうにもあの声は耳に障る。
魔獣人の頭の中には、いつも痛みと焦りと怒り、それらが全部合わさった様な赤黒い感情が暴風の如く駆け巡っている。
魔力枯渇症と同じく、身の丈に合わない過剰な魔力は異形の身体だけでなく精神にも悪影響を及ぼすのだ。
多くの魔獣人は年齢と共に増え続ける魔力に耐え切れずに自滅してしまう。そんな中、魔力を風として吐き出し、ある程度の自我を残す事が出来たシェリーの弟は稀有な存在と言えるだろう。
それであってもーー暗い絶叫が永遠に反響する、狭い箱の中に閉じ込められたかの様な、平穏とは程遠い安寧無き世界の中で生きてきた。
しかしあの声を聞く時、今まで感じた事の無い感情が胸にぽかっと浮かび上がるのだ。
それは未知なる感情で有り、惹かれると同時に空恐ろしく感じる物でもあった。
この場で一番の脅威であったあの男は死にかけだ、もう怖く無い。
次に恐ろしいのはーー、
イカダでゼェゼェと喘ぐヘイズと、岸辺で尚も挑発を繰り返すシェリー、魔獣人は値踏みする様ゆっくりと両者を見渡した。
◇
「おいっ、おいって! こっち、こっちに来い!」
シェリーの声に、ほんの一瞬、僅かに岸へと首を傾けた魔獣人だったが、唸り声を一つ上げるだけに留まり、またヘイズに向かって飛び掛かろうと身構える。
ーーだが、反応した。
この滝音が轟く湖で、シェリーの声が魔獣人にしっかり届いている事の証明である。
(アタシが、アタシが皆んなを助けないと……)
魔獣人の反応が薄いと見るや、今度は棒で水面を叩きながらシェリーは自棄糞気味に大声で喚き出した。
「お前が恨んでんのはアタシなんだろ! ほら、姉ちゃんの言う事聞けよっ!!」
「ばっ、シェリ坊!! 何やってる、さっさと逃げろっ!」
ヘイズはシェリーの突然の狂言に耳を疑う。ピンチに陥った自分達を助けようとしているのは分かる、しかしあまりにも無謀過ぎる。シェリーに魔獣人をどうこう出来る実力は無い。
焦ったヘイズは直ぐにイカダの上で身体を起こそうとするがーー。
「糞っ、身体が動かねぇ……」
ヘイズの体力、気力、そして魔力までもが最早限界値を越えており、全身を駆け巡る痛みと疲労で首をもたげるのもやっとの有様だ。
せめてもの抵抗とヘイズは有りったけの文句を魔獣人へと投げつける。
「おい、俺はまだ生きてるぞ! 糞野郎ッ、この毛玉ッ、弱虫ッ!」
動けぬヘイズを手負の獣と同じく、未だ油断ならぬと感じたのかーーいや、最早敵では無いと踏んだのか……ヘイズの口撃虚しく、魔獣人の興味はシェリーに移りつつある。
ガウルを除く三人の中で一番小柄で柔らかそうに見えるからか、もしくは自分に似た匂いを持っているからか
……真相は定かでは無いが、最初から魔獣人がシェリーにこだわっている節はあった。
「グガッ グゥラァアア」
魔獣人は笑う様な咆哮と共に、暴風を纏って岸へ向かって駆け出した。
「ーーだ、駄目だ、やめろっ! やめてくれ! そっちに行くんじゃねぇ!!」
再び放たれた強風に煽られ、湖尻付近を漂っていたイカダは遂に川へと辿り着く。急流に乗ったイカダは、あっという間に湖から遠く離れて行った。
「糞ッ、止まれ! 止まりやがれッ!」
見る見るうちに小さくなる一人と一匹……絶望の中、ヘイズの目が僅かな希望を見つけた。
「あれは……兄弟ッ!? 兄弟っ、シェリーを、シェリーを頼むッ!!」
荒い流れに呑まれながらも、最後にヘイズの目が捉えたのは、崖上で逆光を浴びる大きな筋肉を持った男の堂々とした佇まいであった。
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