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196・焦燥
しおりを挟むーー嫌な予感はしていた。
あれ程濃かった臭いがまるで絵の具を筆でぼかしたかの様に次第に薄れていくのを感じていたからだ。後半など、恐らく嗅覚の鋭いヘイズにしか感じられない程臭いはその存在を散らしていた。
(どう言う事だ?)
ヘイズが疑問に思うのも無理は無い、通常臭いは時間が経つに連れ薄れて行くものだからだ。
ヘイズの嗅覚のおかげで追跡は順調、魔獣人との距離は縮まっている筈である。となれば、残る痕跡は強くなって然るべきだ。
それが何故か今回は逆の現象が起きている。
これまで余りに明確過ぎる臭いに目(鼻)を奪われ、本来見るべきだった地面に残る足跡や、枝の折れ具合などの観察を怠って来たヘイズ。
ガウルを攫われた動揺があったのかもしれないが、これは通常ではあり得ないミスだーー追跡者たる者一つの痕跡を盲目的に追ってはならない。
野生の動物の中には『止め足』といった逃げ方で追跡を撹乱するモノも居る。自分の足跡を踏むように後退し、足跡の着かない場所まで跳躍する事で追手を撒く野生の技術……もし、魔獣人が臭いを使って同じ様な事をしていたとしたら? ヘイズの様な狼獣人でなければきっと途中で見失っていただろう。
そしてとうとう懸念した通り、目の前を流れる川を境に僅かに残っていた臭いもサッパリ消えてしまった。
「糞ッ! 川に入りやがったな!」
川底から伸びた深緑の藻が水中で暴風にさらされた様に横へ靡くのが見える。川幅は然程広くは無いが飛び越すには遠い、例えあの魔獣人が規格外であっても深く流れの速いこの川をガウルを抱え渡ったとは考え辛い。
となれば、魔獣人は足が浸かる浅い水際を移動したと考えるべきだ。
(これ以上は俺でも臭いは辿れねぇ……どうする?)
人間の100倍はあるとも言われる狼の嗅覚。人に近い獣人にそこまでの嗅覚は無いが、それでも他種族を圧倒するものであった。
しかし、その肝心な匂いが無くなったとなればその有用性は失われたに等しい。ヘイズにとっては自慢の武器を奪われた様なものである。
残こされたのは他の冒険者と同じく経験と勘。それを以って魔獣人が川を下ったのか、もしくは上ったのか……たった二つの選択肢が重く心にのし掛かる。
(どっちだ、どっちに行った?)
追手を躱す為に川の中を移動する事自体は珍しくは無い。しかし、魔力に侵され理性が吹っ飛んでいる魔獣人が、意図して自身の臭いを消そうと考えて行動するだろうか?
(いや、ここまで生き残ってるんだ。それにあの臭いの痕跡がワザとってんならかなりの知恵が残ってると考えた方がいい……それにしても嫌な事ばかり重なりやがる!)
ヘイズは魔獣人の姿を思い出してガシガシと頭を掻き毟る。
虎獣人特有の縞模様、そして遠い記憶に残る臭い……ヘイズの中であの時の忌子と魔獣人が完全に重なっていた。
ーーシェリーは今年15になる。
つまりあの魔獣人もまた、シェリーと同様に15年生きている事になる。
魔力に侵され気の触れた赤子が一体どうやって15年もの年月を生き延びたのか? 偶然にしては無理がある、余程の能力に恵まれたか、それとも……
(ーー誰かが世話してたかだ……)
一瞬、ヘイズの脳裏にティズの顔がチラつくが、直ぐに頭を振って考えを改める。
いくらティズが慈悲深くともそれは無い。仮にそうだとしたならば、もっと沢山の魔獣人が目撃されていなけければおかしいーーティズが森へ還した忌子の数は10を越すのだから。
だがこの15年、森に魔獣人の目撃情報が昔よりも増えたという話はギルドでも聞いた事は無い。
それにだ、赤子の世話をするとなれば頻繁に森へと向かう必要がある筈だ。しかし教会の仕事に孤児の世話と、毎日を忙しく過ごすティズにそんな暇は無かった事は一緒に過ごしてきたヘイズが一番分かっている。
「いや、今はそんな事はどうでもいい! どっちだ? 俺はどっちに進めばいい?」
魔獣人の足取りを辿る様にザブザブと冷たい川へと入ってはみるが当然臭いは分からない。
ーー焦燥感から後頭部が燃える様に熱くなる。
一瞬、目の前が傾く様な感覚に思わず川の中へと倒れ込みそうになるが、ヘイズは膝に手を付いて何とか中腰で堪えた。
その足下をクルクルと踊る様に流れて行く沢山の黄色い落ち葉……偶然目の端で捉えた一枚をヘイズはハッとして拾い上げる。
「こいつは……血か?」
ーー黄色い葉の端に僅かに着いた朱色。
見れば川の淀みに同じ様な葉が幾つか流れ着いていた。
「上流か!!」
濡れた枯葉を握り締め川上を睨みつけたヘイズは、跳ねる様に川から飛び出すと、大急ぎで元来た方へと駆け出した。
(兄弟達に知らせねぇと!)
いくら焦燥感に駆られていても、魔獣人がいるかもしれない場所に一人で行く程冷静さを欠いてはいない。
しかしこの出血量……ガウルはヘイズが想定している以上の深傷を負ってる可能性が出てきた。
回復手段を持たないヘイズ達がガウルを助けるには街まで戻るしか手が無い。
(ガウルを背負って全力で走ったとしてーー糞ッ、どう考えても三時間は掛かる……)
そしてその搬送には、誰かがあの魔獣人の足止めをしなくてはならないという問題があるのだ。
(あの時、兄弟は「俺に任せろ」と言ってくれた。あれは救助に踏み切れなかった俺の後押しする為の方便だったんだろうが……)
善意の言葉を盾に使うのは気が進まないとは思いつつ、ヘイズの心の天秤は既に弟分のガウルに傾いている。
付き合いの長さや組織の一員である事、そして何より群れの子供達を守るのは目上の務めだ。たかが数ヶ月前に知り合った人族と比べるまでも無い。
(兄弟を囮にして三人で街へ戻る、やっぱこれしか浮かばねぇ……)
犠牲有きの案しか出せない自分が不甲斐なく奥歯を噛み締めるが、一方で僅かな期待もあった。
「あのピリル達を負かした兄弟だ。マジで何とかしてくれるかもしれねぇ!」
ヘイズは拳をギュッと握ると、足に一層の力を込めて森の中を疾風するーー後ろめたさをその場に置き去りにする様に。
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