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185・ルール
しおりを挟む(ーーッチ、流石に声がデカすぎたか)
男は片手で汗ばんだ顔を覆うと奥歯を強く噛んだ。
「煩い!」と、このまま怒鳴られ喧嘩を売られるくらいならまだ良い。万が一、貴族へ従事している者が青年の言葉を聞いたのだとしたら大分面倒な事になる。
大声を上げた当人はすっかり頭の奥まで酒が詰まったのか、此方へと近付く人物に全く気付いていない。
(クソッ、面倒臭ぇ)
勿論、男は貴族への悪口など一切言ってはいないのだが、自分の不注意で財布を取られた事は棚上げし、取り返せなかった衛兵に怒りを向ける様な……貴族とはそんな理不尽に振る舞うものなのだと身を持って知っているーー「同席していた」「悪態を止めなかった」などの糞みたいな理由で何らかの罰を与える可能性は充分考えられた。
いっそこのまま一人で席を立ってしまおうかとも思ったが、青年が捕まったとして尋問の苦痛に耐えてまで自分を庇うとは思えない。所詮一月やそこら仕事を教えた程度の関係だーーそこまでの仲では無い。
此処で席を立つのはかえって自分を不利にする悪手だと男は仕方なく腹を括った。
此方へと真っ直ぐ歩み寄る人影は随分と細く小柄だ。目深く被ったフードでその表情は良く分からないが、ニヤリと歪む口元が見える。
ーーしかし、見た目にそぐわぬ妙な雰囲気がある。
この相手の雰囲気からある程度の危険度を読み取るのは、男が衛兵での経験から習得した一種の特技の様な物で中々に馬鹿に出来ない物である。
フードを被った人影はテーブルの傍らで立ち止まると、ジッと此方を観察するかの様に無言で男達を交互に見つめる。
「ーー何だお前? 何見てやがる」
やっと自分が凝視されている事に気が付いた青年は、不快だったのか喧嘩腰で席に手を掛けると勢いよく立ち上がる。しかし酩酊したその足腰はヨタヨタと便りなく、喧嘩など出来る状態では無い事は誰の目にも明白であった。
「まぁ、待てーー」
男はそんな青年を宥めながら、なるべく穏便に済まそうと無言で此方を見つめる者へと穏やかに声を掛けた。
「すまんな、少し嫌な事があってどうやら飲み過ぎたらしい。あ~、もしかしたら何か聞こえたかもしれんが……コイツの本心じゃあ無いんだ、分かるだろ?」
フードを被った人物はそれに対する返事はせずに、代わりにポケットへ手を突っ込んでジャラリと何かをテーブルへと投げ置いた。
「すげぇ、金貨がこんなにーー痛てぇっ!?」
思わず手を伸ばした青年は小さな悲鳴を上げて椅子に崩れ落ちるーーテーブルの下で男に脛を思い切り蹴られたからだ。
「…………なんのつもりだ?」
「……今の話……もう少し……詳しく……聞かせる」
フードの奥から聞こえたのは意外にもまだ若い女性の声だ。背格好と声からは十代にも思えるが、纏う雰囲気と無造作に出した大金が随分とその印象をチグハグにさせた。
「あ~お嬢さん、話ってのは一体どの話の事だろう?」
「……魔法無効……」
(そっちかよ、脅かしやがって……)
偶々居合わせた貴族の側近が大金を見せて悪態の言質を取るつもりかと思ったが、どうやら違った様だ。
確かに闇市で魔道具が流れてきている話はまだ一般には浸透していない。頻繁に貧民街に出入りしていた衛兵だったからこそ得られた比較的新しい情報である。
この只者ならぬ雰囲気の女は恐らく冒険者、それであれば帝国製の魔道具に興味を持つのも納得だ。
男は貴族絡みで無い事に安心すると同時に僅かな欲が湧いて来た。
テーブルに置かれた金貨、これだけの金があれば他の街への旅費どころか当面の生活費になる。しかし、二人で分けるには少々心許無い額でもあった。
「あぁ、魔道具の話か……どうだったかな? 最近嫌な事が多かった所為で物忘れが激しくてね」
ーー男は金貨と女をチラリと見比べるとワザと惚ける様に言った。
普通、酒場で得られる程度の情報など精々相手に酒を奢るくらいな物だ。しかし女は初っ端から大金を提示してきたーー物を知らないのか、もしくは余程この情報が欲しいのか……。
交渉次第では更に女から金貨を引き出せるかも知れないと男は考えたのだ。
フードの女は首を傾げ暫く思案していたが、男の意図を汲み取ったのか、ポンッと一つ手を打った。
「……そう……じゃあ……これなら……思い出す?」
そうして男の思惑通りテーブルの金貨をーー
「ーーちょ、何でだよ!?」
キラキラ光る沢山の金貨を夢見心地で眺めていた青年が急に酔いから覚めた様に引き攣った声を上げた。
なんと女が金貨を増やすどころか、テーブルから一つ取り上げて自分のポケットへと戻してしまったからだ。
「あ~お嬢さん、こう言う交渉事は初めてかい? じゃあ教えてやる、この場合はなーー」
女は男の言葉を遮る様にその口元へと人差し指を押し当てると、感情が消えた様な抑揚の無い声で冷たく言った。
「……それは……貴方達のルール……私のじゃ……無い……」
女はまた一つ、テーブルから金貨を戻す。
「……全部……無くなる前に……思い出す……」
「おいおいおい! 先輩、無くなっちまう!」
それを見て焦った青年が思わずテーブルの金貨をかき集め様と身を乗り出すがーーどういう訳か尻が椅子に吸い付き離れない。
「な…んだ、こりゃ? 尻がーー」
ガタガタと身体から離れぬ椅子と格闘している青年を怪訝な顔で見る男は、自分の足も床から離れない事に気付き慌てて足下を確認する。
床にはドライアイスを敷き詰めた様に青白い冷気がゆらゆらと立ち込め始めていたーー既に男の足先の感覚は無い。
(氷結拘束?ーーい、いつの間に魔法を!?)
詠唱は間違い無く聞こえなかった……それなのに青年の尻は椅子に、男の足は床へとしっかりと凍り付いている。
「……どのみち……思い出すまで……帰さない……」
「クソッ! 分かった、分かった! 全部思い出したからこれ以上は勘弁してくれ!」
時間と共に凍っていく身体と減って行く金貨ーー男が両手を上げ知っている事全てを女へと話すまでそれ程時間は掛からなかった。
「……貧民街……それは盲点……」
一通りの情報を仕入れた女は満足気に小さくガッツポーズを取る。そうして足速に酒場の扉を開くと、まだ騒がしい夜の雑踏へとその姿を消したのだった。
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