浮気夫なんて知りません!~虐げられ妻は美貌の伯爵に寝取られる~

柿崎まつる

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番外編(上) 「これぞ、権力の正しい使い道ですよ」

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「今の時期しか現れない樹氷並木、アンは観たくありませんか?」
「樹氷並木……?」
「湖の水蒸気や霧が氷の粒になって、木の枝をコーティングするんです。日光に照らされると、星みたいにキラキラ光って綺麗なんですよ」
「キラキラ……っ! エサイアス様、わたし、それ観たいです……っ!」

 ある晩のこと、ソファに寝転んで読書していたラウリは、厨房から聞こえてきた会話に頭を抱えた。『キラキラ光る』、『今しか見えない』。いかにも妻が飛びつきそうな単語を並べるところに、エサイアスの悪意を感じる。ラウリは腹筋だけでふんっと起き上がると、早速厨房に殴り込みをかけた。

「くぉらぁ! 余計なこと吹き込むんじゃねえぞ、坊主!」

 洗った食器を片付けるアンニーナの肩に、背後から顎を乗せているエサイアス。その手は彼女のお腹にまわされている。

「アンは毎日家の中に閉じ込もって、可愛そうじゃないですか。たまには外の空気を吸わせてあげないと」

 なわばりを荒らされ、家主の眉間に大きなしわが寄った。十センチの身長差を良いことに、異父弟にマウントをとる。

「俺の家で、俺の女に触るな。おまえは城に帰って見合いでもしてろ」

 エサイアスが気色ばみ、あからさまな嘲りを浮かべた。
 
「言いますね。アンの温情でぎりぎり亭主の座に踏みとどまっている身のくせに」
「んだとぉ?」
「はんっ! 目障りなのは僕も一緒です。今日こそ殺り合いますか?」
「望むところだ!」

 厨房の一角で、メンチを切る二人である。一方、エサイアスの腕の中にまだ収まっているアンニーナはのどかに皿を拭きながら、どうしてなのか羨望の眼差しを向けてきた。

「兄弟っていいですよね。心が通じ合っていて」
「おい、これのどこが通じ合っているように見えるんだ?」
「アン、それはあんまりです」
「わたしもなんでも言いあえる妹が欲しかったです」

 当人たちは割と本気なのだが、アンニーナにはじゃれ合っているようにしか見えないらしい。毒気を抜かれたラウリが皿を食器棚に片づけ始めると、彼女はその間に布巾を洗った。
 
「あなた、わたしも樹氷並木を見てみたいです。だめですか?」

 その言葉に、ラウリはぐっと詰まる。ハシバミ色の大きな瞳に涙をためて上目遣いされたら、言うことを聞くしかなくなるではないか。

「だからってな、このくそ寒いなかを長いこと外においておけるか。しかも、道中は馬に乗るんだぞ? 万が一にも落馬したどうするんだ?」

 アンニーナは現在妊娠三カ月だ。つわりはまだだが、やや情緒が不安定になっている。昨日は窓際にぼんやり座って「最近、青空の日がないわ。このまま一生見られなかったらどうしよう」とボロボロと涙を流す始末。北国のなかでもさらに北に位置するこの土地では、冬に空が晴れることは滅多にない。一体青空に何の用事があるのか。だが、アンニーナに泣かれるだけでこちらも悲しくなってくる。早く、いつものはにかんだ笑顔を見せてほしい。空に浮かぶ雲を払うことに比べれば、樹氷並木を見に行くことぐらいどうだというのだ。ラウリは、クソっと呟きながら手のひらを額に当てた。
 
「どちらにしろ、今の時期は雪が道を塞いで湖まで出られない。樹氷並木を観たらすぐに帰るぞ」
「それでもいいです! 嬉しい……っ ありがとうございます!」
 
 感極まるアンニーナの頭上で、エサイアスが整った唇を尖らせる。
 
「兄さんも行くんですか? せっかくアンと二人きりで楽しみたかったのに」
「おまえとアンニーナが、二人で出掛けるほうが不自然だろ。さっさと帰れ、坊やは寝る時間だぞ」
「たまには泊めてくれたっていいのに、兄さんはケチですね」
「わたしも夜道を一人で帰られるエサイアス様が心配です」

 エサイアスがコートを羽織りながら文句を言うと、アンニーナが加勢した。妻を異父弟と共有する、それだけでも鳥肌が立つほど嫌なのに家に泊めるなどありえない。

「執事のニエミさんを心配させるな」
「兄さんが言う通り今日は城へ戻りますけれど、僕の心は常にアンの隣にありますから」
「うふふ、エサイアス様ったら詩人みたい」
「鬱陶しいから、二度と来るな」
 
 恒例の応酬をして、数日後の昼下がり。ラウリの家に到着したエサイアスは何をしていたのか、コートが雪まみれになっている。普段率先して体力仕事をやるタイプではないので、ラウリは珍しく感じた。
 厚手のコートやマフラーで着ぶくれした妻を鞍に乗せると、ラウリはその後ろから手綱を握る。腕のなかのアンニーナが早速鼻の頭を真っ赤にして口をとがらせた。

「こんなに厚着してたら、着いてからちゃんと歩けないです」
「心配するな。今のところ家に帰るまでアンニーナが馬から降りる予定はないぞ」

 小さくて薄っぺらい背中が、ぷんぷんと不満を伝えてくる。ラウリは手綱を片手に纏めると、空いた左手で小さな頭をなでた。アンニーナはそれが心地よいのか、『もっとやって』とこすりつけてくる。それが猫みたいで、こっちまで心を和んできた。妻の妊娠が分かってから、ラウリは雛を護る親鳥のように彼女の世話を焼いている。アンニーナは己を軽んずるところがあるので、彼が過保護なぐらいがちょうどいい。

 城とは反対側の雪で真っ白な牧草地を通り抜け、森へと入る。小一時間進むと急に視界が開け、別世界のような風景が広がっていた。

「わぁ、氷の木みたいで綺麗です!」
「本当だな」

 通り沿いに連なった樹木が氷の粒に覆われ、幹も枝も真っ白だ。枝に着いた雪の結晶が広がり、まるで雪の花を一面咲かせているよう。

「すてき……」

 アンニーナがほぅっとため息を漏らした。この土地この季節にしか現れない繊細な美に、ラウリもしばし言葉を無くす。隣で馬を進めていたエサイアスが身を乗り出してきた。

「これはこれで圧巻ですけれど、樹木がどんどん氷や雪をまとって肥大化していくと、雪の巨人が出来上がるんですよ」
「巨人……っ それも観たいです!」
「巨人たちが現れたら、またアンをここに連れてきてさしあげます」
「はい、お願いします! わたし、楽しみにしていますから!」
 
 馬を進めながらしばらく樹氷並木を堪能する。そろそろ湖が見えてくるころだが、例年この時期は雪で道が塞がれてこれ以上進めないはず。
 次の瞬間、ラウリは目を疑った。道の雪は取り除かれ、住民や警ら隊の制服を着た若者が思い思いに凍った湖を楽しんでいるではないか。

「どういうことだ?」
「これぞ、権力の正しい使い道ですよ」

 若き伯爵がラウリに向かい、どや顔で親指を立たせた。 どうやら彼は今朝から警ら隊と共に、湖に続く雪道を馬が通れるように整備したらしい。噂を聞きつけた住民たちがこぞって樹氷並木を見に来ており、仕事を終えた警ら隊も靴裏に木の板を付けて、湖でスケートに興じている。そのなかにハイネスの姿もあったが、土地っ子だけあってスイスイ人を避けて滑っていた。

「わたしも湖のうえに立ってみたいです……っ!」
 
 それを見てうずうずと両手を握っているアンニーナを馬から降ろさないわけにはいかず、ラウリは大きな溜息をつく。妊婦に凍った湖の上を歩かせるわけにはいかないのだ。

「転んだらどうするんだ。ここで見ているだけだぞ」
「せっかく来たのに……っ」

 アンニーナのむくれた顔が子どもみたいだった。可哀そうだが、ラウリは常識人なのでここは心を鬼にする。
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