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第四十三話 「愛する人を奪われる苦しみを思い知らせてやるの」
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ざぁ……という音とともに、本格的に雨が降ってきた。スティーナは人通りの無くなった通りを進みながらも、絶対にアンニーナの手を離さない。冷たい雨が身体に叩きつけられて、雫が目に入り不快だった。ぬかるみに脚をとられて、何度も転びそうになる。城下町と民家が立ち並ぶ集落を抜け、広い放牧地を過ぎて森に入った。アンニーナは私兵団に属するスティーナの体力について行けず、最後は引きずられるように目的の場所に着く。
「ここは……?」
使われなくなって久しい炭焼き場だ。真っ黒に焼かれた木が折り重なり、落ち葉が降り積もってふきっ晒しの屋根の下に麻袋がいくつか並べられている。スティーナはアンニーナをその屋根の下に引きずり込んだ。
アンニーナはすっかり濡れて重たくなったコートの下で、白い息を吐く。二十分ほど小走りさせられたので、震えるほど寒かった。
「どうして、……わたしをここに?」
「パヤソン補佐官から『修道士の眠り』のこと、聞いていない?」
「いいえ、主人は仕事のことは家では言いませんから……」
少し高いところにあるスティーナの瞳は、濁ったガラス玉のように虚ろだ。アンニーナはそれに後ずさりするものの、すぐに足が麻袋にぶつかってしまった。スティーナは覆いかぶさらんばかりの勢いで迫ってくる。色気たっぷりに軍服を着こなしていつも自信ありげな彼女が、まるで壊れた人形のようだった。
――怖い……っ!
「じゃあ、教えてあげる。――わたしの復讐を果たすために、アンニーナさんには死んでもらうの」
アンニーナは言葉を失う。あんなに仲良くしてもらったのに裏では自分を殺すことを考えていたとは、心が切り刻まれるように痛んだ。自分の肩をぎゅっと抱きしめる。
「どうして……? スティーナさんは初めてできたお友達だったのに……っ」
ボロボロと零れる涙が、屋根から落ちる雨と同化する。同じように雨に打たれるスティーナの顔が、歪んだような気がした。
「仕方ないわ。侯爵家の坊ちゃんとパヤソン補佐官が、わたしの旦那様を殺したのよ」
「どういうことですか……? スティーナさんの旦那様って……」
彼女は独り身だと思い込んでいたが、結婚していた?
「わたしの旦那様は、先代のクルマラ伯爵よ! 貴族と平民が結婚できないこの国では夫婦にはなれないけれど、たしかにあの人がわたしの主人だったのよ。なのに、あの二人が旦那様に火をつけて殺したのよ! わたしはこの目で見たわ!」
スティーナの言うことがおかしい。何がどうなっているのか。何故、彼女は突然人が変わってしまったのか。アンニーナはしどろもどろながら反論に転じる。
「ま……前の領主様は、階段から落ちて亡くなったって……。エサイアス様と主人がここへ来たのは、その方が亡くなってから後のことです……っ!」
「階段から落ちたですって? そんなはずないわ」
スティーナの鬼気迫る表情に圧倒されて、アンニーナはギュッと身を縮こませる。スティーナはその隙を逃さなかった。物置に積まれていた縄を取り出すと、顔の前でビンッと張ったのだ。
「スティーナさん、何を……っ!? は、放してくださいっ!」
スティーナは手早くアンニーナを物置の屋根の柱の根元に座らせると、柱を通して後ろ手に縛った。
「パヤソン補佐官にも愛する人を奪われる苦しみを思い知らせてやるの。あなたの死体を見て、何を感じるかしら? 後悔? 絶望? それとも罪悪感かしら? わたしと同じ気持ちを味わえばいいわ」
スティーナは火打石を懐から出すと、何度も打った。
「つかないわね……仕方ないわ」
こんなに雨が降っているのに、火が付くはずない。やっぱり、スティーナはおかしい。火をつけることを諦めた彼女は、アンニーナの首の付け根を上から押さえつける。
「やめて、……元のスティーナさんに戻って……っ」
「やらなきゃ、絶対やらなきゃいけないのよ! あの人のために!」
スティーナは大きく腕を振り上げ、白い首目掛けてナイフを振り下ろす。
「きゃあああ……っ!」
アンニーナは、まもなく訪れる死を意識した。
*
「アンニーナ、無事か!」
ラウリは炭焼き場に着くなり、馬から飛び降りた。胸の傷が痛んだが、それどころではない。ラウリは今まさにスティーナに首を刺されそうになっている妻の姿にぞっとする。馬の足音が背後から響き、遅れてエサイアスも到着した。
「アン! 僕が助けに来たからもう大丈夫ですよ!」
その声に、スティーナは一瞬唖然とした表情を浮かべる。小雨になっていたので、彼女の呟きは余すことなく聞こえてきた。
「『アン』? 驚いたわ。アンニーナさん、パヤソン補佐官だけじゃなくて侯爵家の坊ちゃんまでいつの間に手なずけたの……っ? ……ヤリチンと童貞を同時に手玉に取るなんて、あどけない顔してやるわね」
「僕はもう童貞じゃありません! パヤソン補佐官と同列に扱わないでください!」
ギュッと胸の前で握りこぶしを作ったエサイアスは、全く空気を読まなかった。ラウリは頭の中で渦巻が発生し、アンニーナは羞恥心からか顔を深く伏せる。スティーナは早速空気を読んだ。
「へぇ、そういうことね。――でも、これで脅す相手が二人になったわ。それ以上近づいたら、あなたたちの最愛を殺すわ」
スティーナはアンニーナの上体を起こして、背後からその喉元にナイフを押し付ける。
ラウリは妻を傷つけずにスティーナを仕留める方法を考える。軍人とはいえ相手は女一人、難しいことではない。彼は慌てて病院を飛び出したため丸腰だったが、それを気取らせないくらいの度胸はあった。
「そんなナイフ一本で、俺たち二人を倒せるわけがないだろ。大人しくお縄につけ」
ラウリが一歩踏みだそうとすると、何故かアンニーナが声を張り上げる。
「ダメです! スティーナさんを殺さないで!」
「馬鹿か! 自分が殺されそうになってるのに何言ってる!?」
うちの嫁はおかしい。こめかみを押したラウリの代わりにエサイアスが口を開いた。
「アンを離してください。そうすれば、死刑は免除してあげますよ」
「死ぬのなんて怖くないわ。いまのわたしは誰かを道連れにしたいだけなの」
「ひぃ……っ!」
ナイフの刃がアンニーナの首に押し付けられる。
「そうよ。『修道士の眠り』と名付けたのは、旦那様よ。あの修道院から運び出して、わたしたち王都で売りさばいたわ。領地の繁栄に役立てるつもりだった。それが三カ月前、旦那様はボボジール修道会の人間に火をつけて殺されたの! 遺体を真っ黒にされてね! わたしは、犯人をおびき寄せるために『修道士の眠り』の売価を下げたわ。するとどうしたこと! あんたたち二人が来たじゃない。王配の弟と乳兄弟を寄こすなんて、ボボジール修道会は国と手を組んだのね」
ラウリは、ようやくスティーナの異常性に気が付いた。
「違うぞ、領主は火事で亡くなったんじゃない。階段から落ちて頭をぶつけて死んだんだ」
エサイアスも進み出て、声をあげる。
「ボボジール修道会は『修道士の眠り』の製造を中止したんです。意図したものと違うものが出来上がってしまったので、開発者を切り捨て一切の薬物製造から手を引きました。だから、領主がクスリを横取りしても黙認していたのです。だから、彼らには領主を殺す理由がない」
「そんなはずはないわ、……わたしはたしかに……っ」
「精神錯乱にせん妄、幻覚。その症状から察するに『修道士の眠り』を飲みましたね。それもかなり症状が進行してる。二月は前から常用しているはずです。あなたがクスリに走ってまで逃げたい記憶は何ですか?」
取り込まれそうな悪魔のような青年の表情。エサイアスの言葉をきっかけに、スティーナの脳裏にある情景が蘇った。
「ここは……?」
使われなくなって久しい炭焼き場だ。真っ黒に焼かれた木が折り重なり、落ち葉が降り積もってふきっ晒しの屋根の下に麻袋がいくつか並べられている。スティーナはアンニーナをその屋根の下に引きずり込んだ。
アンニーナはすっかり濡れて重たくなったコートの下で、白い息を吐く。二十分ほど小走りさせられたので、震えるほど寒かった。
「どうして、……わたしをここに?」
「パヤソン補佐官から『修道士の眠り』のこと、聞いていない?」
「いいえ、主人は仕事のことは家では言いませんから……」
少し高いところにあるスティーナの瞳は、濁ったガラス玉のように虚ろだ。アンニーナはそれに後ずさりするものの、すぐに足が麻袋にぶつかってしまった。スティーナは覆いかぶさらんばかりの勢いで迫ってくる。色気たっぷりに軍服を着こなしていつも自信ありげな彼女が、まるで壊れた人形のようだった。
――怖い……っ!
「じゃあ、教えてあげる。――わたしの復讐を果たすために、アンニーナさんには死んでもらうの」
アンニーナは言葉を失う。あんなに仲良くしてもらったのに裏では自分を殺すことを考えていたとは、心が切り刻まれるように痛んだ。自分の肩をぎゅっと抱きしめる。
「どうして……? スティーナさんは初めてできたお友達だったのに……っ」
ボロボロと零れる涙が、屋根から落ちる雨と同化する。同じように雨に打たれるスティーナの顔が、歪んだような気がした。
「仕方ないわ。侯爵家の坊ちゃんとパヤソン補佐官が、わたしの旦那様を殺したのよ」
「どういうことですか……? スティーナさんの旦那様って……」
彼女は独り身だと思い込んでいたが、結婚していた?
「わたしの旦那様は、先代のクルマラ伯爵よ! 貴族と平民が結婚できないこの国では夫婦にはなれないけれど、たしかにあの人がわたしの主人だったのよ。なのに、あの二人が旦那様に火をつけて殺したのよ! わたしはこの目で見たわ!」
スティーナの言うことがおかしい。何がどうなっているのか。何故、彼女は突然人が変わってしまったのか。アンニーナはしどろもどろながら反論に転じる。
「ま……前の領主様は、階段から落ちて亡くなったって……。エサイアス様と主人がここへ来たのは、その方が亡くなってから後のことです……っ!」
「階段から落ちたですって? そんなはずないわ」
スティーナの鬼気迫る表情に圧倒されて、アンニーナはギュッと身を縮こませる。スティーナはその隙を逃さなかった。物置に積まれていた縄を取り出すと、顔の前でビンッと張ったのだ。
「スティーナさん、何を……っ!? は、放してくださいっ!」
スティーナは手早くアンニーナを物置の屋根の柱の根元に座らせると、柱を通して後ろ手に縛った。
「パヤソン補佐官にも愛する人を奪われる苦しみを思い知らせてやるの。あなたの死体を見て、何を感じるかしら? 後悔? 絶望? それとも罪悪感かしら? わたしと同じ気持ちを味わえばいいわ」
スティーナは火打石を懐から出すと、何度も打った。
「つかないわね……仕方ないわ」
こんなに雨が降っているのに、火が付くはずない。やっぱり、スティーナはおかしい。火をつけることを諦めた彼女は、アンニーナの首の付け根を上から押さえつける。
「やめて、……元のスティーナさんに戻って……っ」
「やらなきゃ、絶対やらなきゃいけないのよ! あの人のために!」
スティーナは大きく腕を振り上げ、白い首目掛けてナイフを振り下ろす。
「きゃあああ……っ!」
アンニーナは、まもなく訪れる死を意識した。
*
「アンニーナ、無事か!」
ラウリは炭焼き場に着くなり、馬から飛び降りた。胸の傷が痛んだが、それどころではない。ラウリは今まさにスティーナに首を刺されそうになっている妻の姿にぞっとする。馬の足音が背後から響き、遅れてエサイアスも到着した。
「アン! 僕が助けに来たからもう大丈夫ですよ!」
その声に、スティーナは一瞬唖然とした表情を浮かべる。小雨になっていたので、彼女の呟きは余すことなく聞こえてきた。
「『アン』? 驚いたわ。アンニーナさん、パヤソン補佐官だけじゃなくて侯爵家の坊ちゃんまでいつの間に手なずけたの……っ? ……ヤリチンと童貞を同時に手玉に取るなんて、あどけない顔してやるわね」
「僕はもう童貞じゃありません! パヤソン補佐官と同列に扱わないでください!」
ギュッと胸の前で握りこぶしを作ったエサイアスは、全く空気を読まなかった。ラウリは頭の中で渦巻が発生し、アンニーナは羞恥心からか顔を深く伏せる。スティーナは早速空気を読んだ。
「へぇ、そういうことね。――でも、これで脅す相手が二人になったわ。それ以上近づいたら、あなたたちの最愛を殺すわ」
スティーナはアンニーナの上体を起こして、背後からその喉元にナイフを押し付ける。
ラウリは妻を傷つけずにスティーナを仕留める方法を考える。軍人とはいえ相手は女一人、難しいことではない。彼は慌てて病院を飛び出したため丸腰だったが、それを気取らせないくらいの度胸はあった。
「そんなナイフ一本で、俺たち二人を倒せるわけがないだろ。大人しくお縄につけ」
ラウリが一歩踏みだそうとすると、何故かアンニーナが声を張り上げる。
「ダメです! スティーナさんを殺さないで!」
「馬鹿か! 自分が殺されそうになってるのに何言ってる!?」
うちの嫁はおかしい。こめかみを押したラウリの代わりにエサイアスが口を開いた。
「アンを離してください。そうすれば、死刑は免除してあげますよ」
「死ぬのなんて怖くないわ。いまのわたしは誰かを道連れにしたいだけなの」
「ひぃ……っ!」
ナイフの刃がアンニーナの首に押し付けられる。
「そうよ。『修道士の眠り』と名付けたのは、旦那様よ。あの修道院から運び出して、わたしたち王都で売りさばいたわ。領地の繁栄に役立てるつもりだった。それが三カ月前、旦那様はボボジール修道会の人間に火をつけて殺されたの! 遺体を真っ黒にされてね! わたしは、犯人をおびき寄せるために『修道士の眠り』の売価を下げたわ。するとどうしたこと! あんたたち二人が来たじゃない。王配の弟と乳兄弟を寄こすなんて、ボボジール修道会は国と手を組んだのね」
ラウリは、ようやくスティーナの異常性に気が付いた。
「違うぞ、領主は火事で亡くなったんじゃない。階段から落ちて頭をぶつけて死んだんだ」
エサイアスも進み出て、声をあげる。
「ボボジール修道会は『修道士の眠り』の製造を中止したんです。意図したものと違うものが出来上がってしまったので、開発者を切り捨て一切の薬物製造から手を引きました。だから、領主がクスリを横取りしても黙認していたのです。だから、彼らには領主を殺す理由がない」
「そんなはずはないわ、……わたしはたしかに……っ」
「精神錯乱にせん妄、幻覚。その症状から察するに『修道士の眠り』を飲みましたね。それもかなり症状が進行してる。二月は前から常用しているはずです。あなたがクスリに走ってまで逃げたい記憶は何ですか?」
取り込まれそうな悪魔のような青年の表情。エサイアスの言葉をきっかけに、スティーナの脳裏にある情景が蘇った。
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