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第四十二話 「あなたが百愛していても、相手に伝えないかぎりゼロなのよ」

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 冬には珍しい雨雲が立ち込めていた。空は薄暗く、時折雷の音がする。
 
「アンニーナさん、近々旅行でも行くの? でも、春になるまで待った方がいいわよ」

 ソファで寛ぐスティーナに問われ、彼女は苦笑する。居間の隅には、女物のトランクが二つ並べられていた。アンニーナは『そういうわけではない』と答えようとしたものの、彼女になら話してもいいのではないかと考えを変える。
 
「スティーナさんは、わたしでも勤まる住み込みの仕事をご存じないですか?」
「アンニーナさん就職するの? ……どこでもいけるんじゃない? 若くて可愛いし、献身的で器用で働き者じゃない。引く手あまたよ」

 スティーナは茶目っ気たっぷりにウインクする。普段、褒められ慣れてないアンニーナの顔面の温度が二度ほど上昇した。
 
「からかわないでくださいよ」
「本当のことよ。でもそのまえに、パヤソン補佐官に相談したら? 来てそれほど経ってないけれど、既にわたしより顔が広いわよ」
「主人には居場所を知られたくないんです」
 
 アンニーナの街歩きの師匠は、ナッツを摘まむ手を止める。彼女の爪には真紅のマニキュアが施されており、アンニーナはその美しさに目が釘付けになった。スティーナはおしゃれで小粋な人だ。どうして、こんな田舎町で暮らしているのかまったく分からなかった。
 スティーナは蠱惑的な笑みを浮かべる。
 
「それで、トランクに『住み込み』なのね。喧嘩でもしたの?」
「そんなこと、……ないですけれど」
「パヤソン補佐官が謝ってきたら、すぐに許してあげたほうがいいわよ。人生何が起こるか分からないから」

 スティーナの助言に、アンニーナはむくれた。
 
「主人は、わたしに謝ったりしないです」
「そんなことはないわよ。あなた、とっても愛されてるもの」
「あ、愛さ……っ? まさか。あの人は、わたしなんてどうでもいいんですよ」

 ラウリがアンニーナを愛しているなら、『エサイアスのところに行ってもいい』とは言わないだろう。もしかしたら、入院中アンニーナに不作法があって嫌になったのかもしれない。最近とてもいい感じだったのに、もう嫌われてしまった。残念過ぎることに、アンニーナのなかでは『行ってもいい』は『出ていけ』と同意語なのだ。
 
 しかし、それでもアンニーナは『エサイアスのところへ行こう』とは考えられない。もちろん、エサイアスのことは大好きだ。由緒正しき名門貴族の出で、天使のように美しく、なにより一途でアンニーナを愛してくれる。会ったこともない母親を恋しがる一面も愛おしく、アンニーナの母性本能をぎゅんぎゅん押してくる。なのに、あの夜は息が詰まるほど情熱的に求めてきた。エサイアスはアンニーナと手を重ねあわせて指で辿って、愛がどんな形をしているか教えてくれたのだ。彼女の人生であんなに大切に扱われたことはなかったし、ちっぽけな自分の存在が二回りぐらい大きくなった気がする。少なくとも、夫に立ち向かう勇気をもらった。

 しかし、それを言うならラウリだって負けていない。あの大きな体に包みこまれ、心と身体を余すところなく開かれ、快感と悦びの渦に堕とされ、こちらは何一つ考えられなくなってしまう。アンニーナは『支配されて嬉しい』感情が自分のなかにあるとは、この時まで知らなかった。
 いかんせん、あの日は自分に体力と免疫がなくて瀕死状態だったが、日が経つにつれ思い出は美化され、アンニーナは二人に抱かれたことを思い出すたびにドキドキしてしまうのだ。間違いなく身も心も満たされた、人生で一番幸せな夜だった。

 ――どちらかを選ぶなんて無理よ。でも二人とも好きだから、どちらとも離れたくないなんてとても言えないわ。恥ずかしいわ。

 いつの間に、自分はふしだらで貪欲な人間になってしまったのだろう。こんな本性、誰にも知られたくない。それを明かすなら、どちらも選ばず一人でいることを選択する。ひっそりと何事もなかったように、かつての臆病で引っ込み思案な自分に戻りたい。アンニーナはそのために、同時に二人から離れなくてはならないのだ。
 そんなことを思い込んでいる彼女に、スティーナが口を開いた。

「あの日だってそうよ。パヤソン補佐官があなたに贈り物をするならどこに行けばいいか私に聞いてきたのよ。だから、ちょうど有名な宝石商が行商に来ていることを教えてあげたの」

 アンニーナはハッと頭をあげる。
 
「え……じゃあ、あのバレッタ、わたしの……?」

 あの、砕けたバレッタ。粉々になっていたけれど、キラキラして綺麗だった。そのとき、ふとエサイアスの言葉を思い出す。

『パヤソン補佐官の内面は、ガラス細工のように繊細ですね』

 ――あれが、あの人の愛の証なら? わたしは嫌われているわけじゃないのかしら? 他に理由があってわたしを遠ざけようとしているの? どうして?

 クエスチョンマークでいっぱいになった彼女の向かいで、スティーナが組んだ手を膝に押し付けて長い睫毛を伏せる。

「あなたが百愛していても、相手に伝えないかぎりゼロなのよ」
「百愛しても、伝わらない……?」

 ――わたし、夫に愛していると言ったことがあったかしら?

 アンニーナは自分の二年間を振り返る。言ったら迷惑がられる、もっと嫌われてしまうとずっと心の中に封印してきた。妻にしたのにどうして私を愛してくれないの? という疑問は諦観で押し流し、彼の癇癪に触れないようにビクビクしながら過ごした。これでは、ラウリも彼女が怯えていることしか分からない。
 
 スティーナに話を聞いてもらっていると、事態はそこまで厳しくはないような気がしてきた。アンニーナは思わず口元を緩ませる。自分次第で、まだやり直せるかもしれない。膝の上でギュッと拳を握った。
 
「わたし、あの人と一度よく話してみます」
「良かったわ。あなたたち二人が相思相愛なことを確認できて。こんな天気のなか、来たかいがあったというもの」

 その言い方が引っ掛かって、アンニーナは小首を傾げる。ふと、スティーナのカップを持つ手が、震えていることに気が付いた。目の焦点もあっておらず、スティーナにはありえないことに口からコーヒーをこぼしている。アンニーナはかつて同じような表情を見たような気がしたが、それが誰のものか思い出せなかった。

「スティーナさん、具合が悪いんですか? ソファで横になりましょうか?」

 アンニーナが右手を伸ばすと、スティーナはそれをぎゅうっと掴んだ。
 
「スティーナさん?」
「わたしのお陰というなら、わたしの望みを聞いてほしいのよ。協力してくれるわよね?」
「もちろんです」
「じゃあ、着いてきて」
「今からですか? 雨が上がってからのほうがいいんじゃないですか? それに体調も……」

 見上げたスティーナの顔が意外にも近くにあって、アンニーナはその瞳に浮かぶまごうことなきに息を吞んだ。後ずさる彼女をスティーナは手荒に引き寄せる。

 「そうよ、今から。何もいらないわ。着いてきて」

 アンニーナはどこでそんな表情を見たのか、ようやく思い出した。
 
 ――スティーナさんの顔、王都で襲われそうになったゴロツキ貴族たちとそっくりだわ!
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