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第三十三話 「あの赤ちゃんは、ママのなに……?」

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「ねえ、マルヤ。ママは、いつかえってくるの?」

 幼い日の記憶だった。まだ娘の顔をした家政婦は何度目かの質問に顔を曇らせる。

「奥様が仕えるウーノお坊ちゃまが、六歳になった日ですよ」
「僕、もう六歳になったのに」

 ラウリは椅子の上で足をぶらぶら振りながら、頬を膨らませた。ウーノお坊ちゃまの誕生日は、正確にはわからない。ただ、ラウリの誕生日から何カ月も経っているのに母は帰ってこず、彼の寂しさは限界だった。普段でも、半月に一度は帰って来るのに。ラウリが聞いても、家のなかの人は誰も教えてくれない。

 ――僕がママを迎えに行くからいいよ!

 小さなラウリは向かいの家の人に道順を書いてもらい、メモを握りしめて一人でピエティラ侯爵家の屋敷を訪ねたのだ。それはそれは、目を見張るほど大きな屋敷だった。街の中心にある有名な建物だけど、ラウリはここが母親の勤め先だとは知らなかったのだ。
 白亜の門の前で、制服を着て立っているおじさんに声をかける。

「あの!」
「どうした、坊や? 迷子になったのかい?」

 おじさんの優しい声に、あと一歩足らなかった勇気を手に入れた。ラウリはこの時のために何度も練習したセリフを口にする。
 
「ぼく! ラウリ・パヤソンといいます! ぼくのママに会わせてください!」

 守衛は、はてと不思議そうに首を傾げた。
 
「パヤソン……? ウーノ坊ちゃまの美人の乳母さんのことかい? ……とっくにお屋敷を辞してるはずなんだが」

 ――おやしきにはいない?

 そんなはずはない。だったら、どうしてラウリのところに帰ってきてくれないのだ。ラウリを抱きあげ『わたしと旦那様の天使ちゃん』とほっぺたにチュウしてくれないのだ。ママの得意なミートボールを作って、ラウリの口の端しについたソースを拭ってくれないのだ。アイスブルーの大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
 門番は慌てて、片膝をつく。

「おいおい、ぼうや。泣くんじゃない。おじさんが中の人たちに聞いてあげるよ」
「騒がしいこと。どうしたの?」
 
 そのときだった。門の内側から凛々しい女性の声がしたのだ。二人の付き添いを連れて、高くまとめた髪に深い緑色のドレスを着ている。
 
「奥様!」

 ラウリの母親よりやや年上の貴婦人でキリッとして、ラウリの祖母より厳しそうだ。奥様ということはこの人がウーノ坊ちゃまのお母様なのだ。

「この子はパヤソン夫人の息子さんだそうですが、パヤソン夫人に会わせてくれっていうんですよ」
「まあ、可愛らしい子」

 その女の人はラウリのまえでしゃがむと、ハンカチをとりだして涙を拭いてくれた。金色の厳しそうな眉が緩やかに落ち着いて、それを見たラウリの涙が止まる。

「お姉さん、ありがとう」
「まあ、ふふふ。亡くなったパヤソン将官に生き写しだわ。……将来が楽しみね、きっと多くの女の子を泣かせることでしょうね。――パヤソン将官もそうだったから」

 ラウリはよく亡き父親にそっくりだと言われる。大人がそれを語るとき、みんな笑顔でラウリの頭を撫でてくれる。母もそう言われると、とても嬉しそうだった。その母にもうすぐ会えると思えば、ラウリは嬉しくてたまらない。
 しかし、女性は急に顔色を変えたのだ。まるで自動人形の電源が落ちたようで、ラウリは今日を覚える。
 
「だけど、可哀そうな子。あなたのお母さんは……あなたもパヤソン将官との思い出も全部捨てて、わたしの主人を選んだわ。おそらく、自分の家には二度と帰らないでしょうね」
 
 ラウリの小さな顔が、絶望に染まった。
 
「え……? そんなはずないよ! ママ、ウーノぼっちゃまが六歳になったら、帰って来るって僕と約束したもん。ほんとだもん! ママは僕に嘘をつかないよ!」

 ドレスに縋りついて泣く子どもに、夫人は深いため息をつく。そうして、伴っていた侍女に声をかけた。
 
「この子を、家まで送ってあげて」
「はい、奥様」
「それから、パヤソン老夫人にこの子を二度とここには来させないように伝えて頂戴。いくらパヤソン将官の顔をしていても、あの女の血をひく子どもを見るのは耐えられないわ」

 ラウリは、固まった。内容はよく分からないけれど、『奥様』が母を良く思っていないことはわかった。だったら、何故ラウリを母を家に帰してくれないのだろう? 嫌いなら追い出せばいいのに。

「さぁ、坊や。馬車に乗っておうちに帰りましょうね。きっとお祖母さんが心配していますよ」

 主によく似た侍女は口調こそ優しげだが、有無を言わせずラウリの肩を掴んでくる。ラウリはバタバタと暴れた。

「やだよ! ぼく、ママに会いたいよ!」
「わがまま言わず、早くいらっしゃい。奥様がお怒りよ」
「ぼうや、すまんな。ちょっと大人しくしとってくれ」

 最初は優しく迎えたはずの守衛が、侍女を手伝って彼を羽交い絞めにする。わずか六歳のラウリには、敵うはずがなかった。
 
「ママのこといらないなら、ぼくに返して! ぼくずっとまってるって、ママに伝えて!」

 緑色のドレスを着た夫人は、無言で踵を返して屋敷の方角へと消えていく。ラウリの甲高い悲痛な叫びは白亜の門に反響して、虚しく落ちた。

 次にラウリが母親に会えたのは、一年半後の彼女の葬式の席だった。ラウリは母が他人から綺麗だと言われることが好きだった。なのに、棺桶の中に埋もれる母は骨と皮ばかりになり果て、見るも無残な姿だった。ラウリがあんなに会いたかった母なのに、亡骸が怖くて祖母の後ろに隠れてしまった。
 葬式に不似合いな、屋敷の窓から聞こえる乳児の泣き声。乳母のあやす声が聞こえても、赤子は何が悲しいのかずっと泣き続けていた。参列者の困惑の表情、沈鬱な使用人たちの顔。人目もはばからず泣き伏す侯爵。それを宥めることなく、胡乱な瞳でたたずむ侯爵夫人。沈鬱に下を向いたままの長男と乳母の死に涙する次男。幼いラウリには表現出来ない、奇妙な葬式だった。
 彼は、隣に立つ祖母のスカートを掴んだ。

「なんだい、ラウリ?」
「あの赤ちゃんは、ママの……?」

 ラウリの恐々とした囁き声に、何故か周りの喧騒が突然止んだ。あの侯爵の泣き声ですら聞こえない。祖母はそんななか、しばらく黙り込む。怪訝に思ったラウリが見上げた顔は、かつて見たことがないほど怖かった。その沈黙の一瞬が永遠に感じるぐらいの重たさだった。囁き声なのに、地の底から響くような声が静寂を破る。
 
だなどと、滅多なことを言うのはおよし。奥様が先日お産みになられたエサイアス様だよ。……元気な泣き声だね。きっと立派にお育ちになることだろう」

 ピエティラ侯爵家の礼拝堂はお葬式というのに、気持ち悪い空気を孕んだまま沈黙のうちに終わった。ラウリは小さかったが、周りの反応から祖母の嘘が分かってしまったのだ。ウーノのお母さんの言葉が思い浮かぶ。

『あなたもパヤソン将官との思い出も全部捨てて、わたしの主人を選んだわ』

 ――あの赤ちゃん、ママの子なんだ。ママは僕を捨てて、あの子のママになって死んだんだ……っ!
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