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第十話  その笑顔、俺には見せられないってか。

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 一通り城を散策してから退城すると、目の前には夕焼け空が広がっていた。丘城の周りこそパン屋や道具屋といった生活必需品の店が並んでいるが、王都に比べると店の数は少なく全体的にコンパクトだ。先に荷物だけ運んでもらった新しい家も、城から近い徒歩圏内だった。貴族の屋敷が王宮の周りを縫うようにして建ち並ぶ王都では考えられないことだ。この地域の貴族は、クルマラ伯爵エサイアス卿ただ一人なのだ。
 ラウリはため息交じりに、妻のつむじを見下ろす。

「なんで言わなかったんだ」
「それは、その……あの……」

 下を向いてまごまごしているアンニーナに腹が立つ。伯爵の執務室から城門まで、ずっとこんな態度だ。ラウリは早速煙草を吸いたくなったが、マルヤの言葉を思い出した。

『若奥様にはくれぐれも優しく接してください。可哀そうに、今のままだと潰れてしまいますよ』

 内心舌打ちしながら懐を探る手を止め、しょぼくれる小さな頭をポンポンと撫でた。

「もしかして、俺に叱られるのが怖くて言い出せなかったのか?」

 アンニーナの瞳が一回り大きくなってこちらを凝視するや、次にはじわじわと涙が浮かんでくる。地面で膝を擦りむいた子どものように、口の形が歪んで泣き声が漏れた。

「ごめんなさい……っ、わたしがヘマばっかりするから……」

 細い肩を震わせてびくびくしている姿に、まるでこちらが弱い者いじめをしているような気になる。
 ラウリはおもむろに妻の肩を抱くと、路地裏に入った。正面を向かせ抱き締めると、よしよしと頭を撫でる。アンニーナはすすり泣きを始めた。

「うっう……ごめんなさい……」
「怖かったんだろ」

 そういえば、昨晩様子がおかしかった。伯爵領での仕事が始まればしばらくデキないと気が付いたラウリは、小用を足して馬車に戻ってきたアンニーナの背後から覆いかぶさった。いつもは大人しく従うのに、スカートをめくりあげたら珍しく嫌がって、それで興が乗ったラウリは普段よりしつこい突いてしまった。終わったときわずかな月明かりの下で、妻が鼻をすすりながらしきりに顔を拭っていたのが見えたが、あれはもしや襲われたときの恐怖を思い出して泣いたのではないだろうか。
 これには、厚顔無恥を地でいくラウリもさすがに後味が悪い。

 ――正直にマルヤにでも話していれば、俺だって手加減してやったのに。

 妻に対する呆れと苛立ちが、苦い胃液のようにこみあげてくる。ラウリの腕のなかでしくしく涙をこぼしていたアンニーナが泣くのも疲れたのか、こちらの腕を軽く押してきた。

「何か食ってくか。さっき教えてもらったが、城下に美味いジビエの店があるらしい。トナカイの肉は食べられるか?」

 不倫相手が替わるたびに投げている質問が無意識に出て、ラウリは眉根を下げる。二年連れ添ったはずの妻と一度として外食していないこと、妻の好物も知らないことに今頃気が付いたのだ。アンニーナの真っ赤になった目は信じられないとばかりに大きくなり、それから地面に向けられる。

「食べたことないけれど、きっとおいしく頂けます」

 わずかに見えた妻の横顔は緩んでいて、いつものように陰気ではなかった。

 ジビエ料理は、田舎にしてはなかなか良い味付けだった。肉の下処理がうまく、ベリーのソースが効いている。コックは仏頂面だが腕が良く、女将は陽気でおしゃべりだった。
 王都の屋敷では、ラウリに客でも来ない限り使用人たちと一緒に食事をとるのが習慣だったので、アンニーナが食事している姿をまじまじと観察することはなかった。妻はもの音を立てず静かに食べる。ナイフやフォークを持つ角度もいい。マナーは完璧だ。

 ――そういえば、こいつも貴族だったな。

 食べ終わったとき、アンニーナは「ちょっと待っていてください」と小さな声で言い、厨房を覗き込んでいた。コックと和やかに会話していたと思ったら、ペンを借りて何やらメモ帳に書き込んでいる。いつも薄ぼんやりとした印象の妻が真剣に話し込んでいる姿は新鮮だった。

「何聞いてたんだよ」

 戻ってきたところに話しかけると、アンニーナは途端に顔を強張らせる。

 「な、……内緒です」

 いそいそとメモをカバンに仕舞いこんで、誤魔化すようにテーブルに残っていたお冷を一気に呷った。

 ――強面のオヤジには笑顔を見せて、俺には見せられないってか。

 ラウリは面白くなかったが、それを口に出すつもりはない。帰りに総菜屋で明日の朝食べるパンとスープを買い、真っ暗な新居に戻る。わずかな月明かりを頼りに小さな一軒家のカギを開けた。灯りを付けた家の中は最低限のモノしかなく殺風景だが、一応住めるようにはしてある。家の手配は何とかなったものの、使用人の手配は案の定進まなくて当分は二人で生活するほかないらしい。
 ラウリはベッドメイキングされた寝室と掃除されたバスタブを確認して、暖炉で湯を沸かした。その間、アンニーナは物珍しいのか調理場や庭を見て回っていた。

「あ、……ごめんなさい」

 バスタブに湯を流し込んだところで、アンニーナが戻ってきた。ラウリは沐浴のために湯を沸かしていただけなのだが、そこでどうして謝られるか分からない。
 
「先に洗えよ」
「は……はい」

 ラウリはもう一度湯を沸かして、アンニーナのあとに沐浴した。湯を使うのは実は三日ぶりで、汚れと共に旅の疲れも湯に溶けていくような気がする。こぶつきの長旅は想像以上に忍耐のいるもので、ラウリはしばらく馬車たるものを見たくなかった。
 頭を乾かして寝室にはいると、アンニーナが落ち着きない様子でベッドに腰掛けている。おそらくラウリが性欲を処理するのを待っているのだろうが、強姦殺人魔たちに襲われかけた話を聞かされたばかりではさすがにやる気が起きない。
 
「疲れた。寝るぞ」
「え、あの……は、はい……きゃっ」

 ラウリは布団に潜り込んできたアンニーナを腕のなかに仕舞いこむ。女はこういうことをされると、気持ちが安定する。自分でも柄にもないことをしている自覚があったので、妻への説明を省いた。乳離れしていないガキみたいでカッコ悪いから、ラウリは女を抱いたまま寝ることはない。

「あ、あの」
「このまま寝るのは嫌か?」
「そういうわけじゃ……ないです。でも」
「でも、なんだよ」

 アンニーナは、あの……と言うと恥ずかしそうに布団へ潜り込んだ。
 
「胸が……ドキドキします」
「あ? それ動悸か? その歳で? ――おまえ、病院行ってきたほうがいいぞ。一度調べて来いよ」
「もう……いいです」
 
 妻は頬を膨らませて、頭まで布団をかぶってしまった。

 ――変なやつ。こっちは心配してやったのに。
 
 アンニーナはラウリの腕のなかで硬直していたが、しばらくするとうつらうつらと船を漕ぎ、最後は眠りへと落ちていった。寝ると、ますます子どものように見える。ラウリは妻から離れようとしたが彼の裾を握りこむ小さな手に気が付いて、ため息をついた。
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