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第一話 「俺は、おまえ以外の女も抱くから」
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初夜が済んだばかりの寝台で、夫は煙草を吹かせながら彼女に言った。
「俺は、おまえ以外の女も抱くから」
淡い月光の下、たゆたう白い煙が夜の空気にかき消されていく。アンニーナは自分の存在の軽さを思い知らされ、むきだしの肩を小さく震わせた。
貧しい下級貴族の家に産まれた彼女は十八歳のとき娼館に売られ、危ういところを慈善家のパヤソン夫人に助けられた。パヤソン夫人はアンニーナのことをいたく気に入り、孫のラウリとの結婚を持ち掛けてきたのだ。彼女は自分の振って湧いた幸運が信じられなかった。何故なら、ラウリ・パヤソンは都でも指折りの美男子として知られていたから。
ラウリは二十六歳という若さながら、王都の警ら隊の大隊長格を務めていた。彼は王配の乳兄弟で貴族のしきたりにも明るく、支配階級からの信頼も厚かったのだ。
月光のような銀色のサラサラした短髪、人の内側を覗き込むような切れ長の青い瞳、ギリシャ彫刻のような左右対称の美しい面立ちと引き締まった体躯。野生の獣のような危険な香りをまといながら夏の明かりのように漂う蝶をひきつけてやまない。明るく面倒見の良い性格で部下から慕われる一方、大の人妻好きで知られていた。若い令嬢や未亡人から愁派を送られても見向きもせず、ラウリの好みは良くも悪くも一貫していた。
パヤソン夫人はとっくに成人した孫がいつまでも他人の妻の尻を追いかけていることにあきれ果て、所帯を持てばその悪癖も鳴りを潜めるに違いないとアンニーナに白羽の矢を立てたのだ。だが、夫人のそんな企みはうまくいかなかった。二人が結婚して二年、ラウリの人妻好きは健在だ。
*
「あら? ラウリの奥様じゃありませんこと?」
朝から賑わう市場を歩いているとき、アンニーナは突然売り子に話しかけられた。『ラウリの奥様』という何とも言い難い単語の並びに、彼女の胸はざわつく。振り向けば、色鮮やかな果物が並んだ売り台の奥から、艶やかな黒髪女性が顔を覗かせている。
――売り子さんがどうして、あの人のことを?
頭を巡らせていると、野菜の配達をほかの店で頼んできた家政婦があ、旦那様の……と口走る。さすがのアンニーナも気が付いて、ぼんやりと頭を下げた。
「主人がお世話になっております。あの、……お名前を存じ上げず申し訳ありません」
ラウリの不倫相手にどんな態度をとるべきかが分からない。アンニーナの控えめな態度のせいだろうか、売り子は美しいボディラインを強調するかのように胸を張った。たわわなふくらみが波打つさまに、目のやり場に困ってしまう。
「リーアといいます。ええ、奥様には及びませんけれど、わたしもラウリをお世話してあげてます。おもに下のほうですけれど」
媚態を含んだ笑みが、アンニーナの胸に見えないナイフを突き刺した。ベテラン家政婦であるマルヤもさすがに二の句が継げないようで、ハッと鼻で息を吐くと同時にアンニーナの手を掴む。
「行きましょう。ここは若奥様が来るような場所ではないようです。昔は売り子にもまだ品があったのに、近頃ときたら品物と一緒に色まで売るとは嘆かわしいこと。全く落ちたものです」
リーアは滑らかな頬を紅潮させて、マルヤを睨みつけた。
「あらあら、売れるだけの色が残ってるだけましですわ、マルヤさん。歳をとると僻みっぽくなるって本当だったんですね? ――待ってください、若奥様。ここで会ったのも何かの縁ですから、これをお持ちください。きっと気に入ってくださるはずです」
売り子は片手で持てるくらいの紙袋を押しつけてくる。おそらく、野菜か果物だろう。
「え、あの」
「受け取ってください。奥様にお似合いの品を選びましたの」
「あ、……ありがとうございます」
アンニーナは遠慮がちに受け取ったが、袋の中から熟しすぎた香りが漂ってくる。嫌な予感がしたが、それよりも早くここを離れたい気持ちの方が強かった。ラウリの不倫が周知のこととはいえ、実際にその愛人を目にすると胸が痛くてたまらない。
――夫はあの人に愛を囁いて、情熱的なキスをしたのかしら?
たわわな胸にラウリの節のある長い指が摺り寄せられるところを想像して、泣きたくなる。夫が自分を愛してくれないのは、リーアのように官能的でないからだろうか。たしかにアンニーナの茶色い髪とハシバミ色の瞳はこの国ではありふれたものだが、父親が娼館に高く売りつけようと考える程度には不美人ではない。
――どうして、わたしには冷たいの?
たった一人の妻なのに。愛してくれないなら、妻にしてくれなくてもよかったのに。
*
市場で買ったものを整理していると、テーブルの上に置いた紙袋の底が濡れていることに気が付いた。アンニーナは何も考えずにリーアからもらった袋を開ける。思考と動作が一瞬で凍り付き、数歩下がってようやく声が出た。
「きゃああああっ」
「若奥様、どうしましたか?」
マルヤが慌てて飛んでくる。アンニーナは震える手で、テーブルに散らばった葡萄を指さした。
「まっ!」
緑や紫の果肉のなかで、所狭しと蛆虫たちが畝っている。マルヤは無言で葡萄と紙袋を鷲掴みにすると、外の焼き場に叩きつけた。そして、怒り心頭でまくし立てる。
「あの女狐、若奥様が優しいことをいいことに! 旦那様の遊びもいい加減にしてほしいものです!」
「いいの、マルヤさん。……このこと、あの人には言わないで」
「いいえ、こればかりは黙っていられません! 旦那様は自分の罪を自覚するべきですっ!」
「お願いだから」
ラウリのことだ。そんなことも回避できないのか俺を困らせるなと、顔をしかめるだけだろう。アンニーナはこれ以上、夫から冷たい視線を浴びせられたくないのだ。
アンニーナは娼館に売られるところをラウリの祖母に救われた。ラウリが妻にしてくれなければ、今頃春を売っていたのだ。娼婦は稼げなければ食事の量を減らされ、お客から病気を染されてもろくに医者にも見せてもらえない。それに比べたら、夫に愛されないぐらいどうしたというのだろう。夫の愛人から『あなたにお似合い』と蛆虫を送られたぐらいで滅入っていてはいけない。
――これくらい、我慢しなきゃ。
アンニーナは必死に涙を止めようとしたがそれも叶わず、結局は体調を崩して寝込んでしまった。
「俺は、おまえ以外の女も抱くから」
淡い月光の下、たゆたう白い煙が夜の空気にかき消されていく。アンニーナは自分の存在の軽さを思い知らされ、むきだしの肩を小さく震わせた。
貧しい下級貴族の家に産まれた彼女は十八歳のとき娼館に売られ、危ういところを慈善家のパヤソン夫人に助けられた。パヤソン夫人はアンニーナのことをいたく気に入り、孫のラウリとの結婚を持ち掛けてきたのだ。彼女は自分の振って湧いた幸運が信じられなかった。何故なら、ラウリ・パヤソンは都でも指折りの美男子として知られていたから。
ラウリは二十六歳という若さながら、王都の警ら隊の大隊長格を務めていた。彼は王配の乳兄弟で貴族のしきたりにも明るく、支配階級からの信頼も厚かったのだ。
月光のような銀色のサラサラした短髪、人の内側を覗き込むような切れ長の青い瞳、ギリシャ彫刻のような左右対称の美しい面立ちと引き締まった体躯。野生の獣のような危険な香りをまといながら夏の明かりのように漂う蝶をひきつけてやまない。明るく面倒見の良い性格で部下から慕われる一方、大の人妻好きで知られていた。若い令嬢や未亡人から愁派を送られても見向きもせず、ラウリの好みは良くも悪くも一貫していた。
パヤソン夫人はとっくに成人した孫がいつまでも他人の妻の尻を追いかけていることにあきれ果て、所帯を持てばその悪癖も鳴りを潜めるに違いないとアンニーナに白羽の矢を立てたのだ。だが、夫人のそんな企みはうまくいかなかった。二人が結婚して二年、ラウリの人妻好きは健在だ。
*
「あら? ラウリの奥様じゃありませんこと?」
朝から賑わう市場を歩いているとき、アンニーナは突然売り子に話しかけられた。『ラウリの奥様』という何とも言い難い単語の並びに、彼女の胸はざわつく。振り向けば、色鮮やかな果物が並んだ売り台の奥から、艶やかな黒髪女性が顔を覗かせている。
――売り子さんがどうして、あの人のことを?
頭を巡らせていると、野菜の配達をほかの店で頼んできた家政婦があ、旦那様の……と口走る。さすがのアンニーナも気が付いて、ぼんやりと頭を下げた。
「主人がお世話になっております。あの、……お名前を存じ上げず申し訳ありません」
ラウリの不倫相手にどんな態度をとるべきかが分からない。アンニーナの控えめな態度のせいだろうか、売り子は美しいボディラインを強調するかのように胸を張った。たわわなふくらみが波打つさまに、目のやり場に困ってしまう。
「リーアといいます。ええ、奥様には及びませんけれど、わたしもラウリをお世話してあげてます。おもに下のほうですけれど」
媚態を含んだ笑みが、アンニーナの胸に見えないナイフを突き刺した。ベテラン家政婦であるマルヤもさすがに二の句が継げないようで、ハッと鼻で息を吐くと同時にアンニーナの手を掴む。
「行きましょう。ここは若奥様が来るような場所ではないようです。昔は売り子にもまだ品があったのに、近頃ときたら品物と一緒に色まで売るとは嘆かわしいこと。全く落ちたものです」
リーアは滑らかな頬を紅潮させて、マルヤを睨みつけた。
「あらあら、売れるだけの色が残ってるだけましですわ、マルヤさん。歳をとると僻みっぽくなるって本当だったんですね? ――待ってください、若奥様。ここで会ったのも何かの縁ですから、これをお持ちください。きっと気に入ってくださるはずです」
売り子は片手で持てるくらいの紙袋を押しつけてくる。おそらく、野菜か果物だろう。
「え、あの」
「受け取ってください。奥様にお似合いの品を選びましたの」
「あ、……ありがとうございます」
アンニーナは遠慮がちに受け取ったが、袋の中から熟しすぎた香りが漂ってくる。嫌な予感がしたが、それよりも早くここを離れたい気持ちの方が強かった。ラウリの不倫が周知のこととはいえ、実際にその愛人を目にすると胸が痛くてたまらない。
――夫はあの人に愛を囁いて、情熱的なキスをしたのかしら?
たわわな胸にラウリの節のある長い指が摺り寄せられるところを想像して、泣きたくなる。夫が自分を愛してくれないのは、リーアのように官能的でないからだろうか。たしかにアンニーナの茶色い髪とハシバミ色の瞳はこの国ではありふれたものだが、父親が娼館に高く売りつけようと考える程度には不美人ではない。
――どうして、わたしには冷たいの?
たった一人の妻なのに。愛してくれないなら、妻にしてくれなくてもよかったのに。
*
市場で買ったものを整理していると、テーブルの上に置いた紙袋の底が濡れていることに気が付いた。アンニーナは何も考えずにリーアからもらった袋を開ける。思考と動作が一瞬で凍り付き、数歩下がってようやく声が出た。
「きゃああああっ」
「若奥様、どうしましたか?」
マルヤが慌てて飛んでくる。アンニーナは震える手で、テーブルに散らばった葡萄を指さした。
「まっ!」
緑や紫の果肉のなかで、所狭しと蛆虫たちが畝っている。マルヤは無言で葡萄と紙袋を鷲掴みにすると、外の焼き場に叩きつけた。そして、怒り心頭でまくし立てる。
「あの女狐、若奥様が優しいことをいいことに! 旦那様の遊びもいい加減にしてほしいものです!」
「いいの、マルヤさん。……このこと、あの人には言わないで」
「いいえ、こればかりは黙っていられません! 旦那様は自分の罪を自覚するべきですっ!」
「お願いだから」
ラウリのことだ。そんなことも回避できないのか俺を困らせるなと、顔をしかめるだけだろう。アンニーナはこれ以上、夫から冷たい視線を浴びせられたくないのだ。
アンニーナは娼館に売られるところをラウリの祖母に救われた。ラウリが妻にしてくれなければ、今頃春を売っていたのだ。娼婦は稼げなければ食事の量を減らされ、お客から病気を染されてもろくに医者にも見せてもらえない。それに比べたら、夫に愛されないぐらいどうしたというのだろう。夫の愛人から『あなたにお似合い』と蛆虫を送られたぐらいで滅入っていてはいけない。
――これくらい、我慢しなきゃ。
アンニーナは必死に涙を止めようとしたがそれも叶わず、結局は体調を崩して寝込んでしまった。
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