あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

文字の大きさ
上 下
84 / 86
番外編

84.林哲海商会(11)

しおりを挟む
 屋敷に着いた頃には、だいぶ日が傾いていた。
 塀のなかが見えないように入り組んだ表門を抜けると、小さな前庭が広がる。表門のとなりには二頭分の厩舎があるが、そのうちの一つは空だ。前庭の隅には井戸があり、正面にみえる横長の棟は厨房や入浴場などの水場と使用人達の部屋がある。
 先に降りた浩海ハオハイは、馬の背でまどろむ妻を愛しげに見上げた。

溪蓀シースン
「う……ん」

 くらをまたぐ妻の動きは危うい。浩海ハオハイが背中から受け止めると、抱きあげてと彼の首に腕を回してきた。

「もう、仕方ないなぁ」

 酒気にまじりニオイアヤメの薫りがほのかにたちのぼり、自分は果報者だとつくづく思い知らされる。彼女を手に入れたことが白昼夢かと疑わしくなり、そのつど抱きしめないと安心できないのだ。この余裕のなさ、花街で『李家の若様』でとおっていたころの自分が知ったら、仰天するだろう。
 横抱きにして数歩進んだところで、寝ぼけ眼の溪蓀シースンが頭をすり寄せてきた。
 
浩海ハオハイさん、黒槍ヘイチァンの手入れは?」
「君を寝台に運んだあとで、やろうと思っているよ」
「じゃあ、わたし、ここにいる。先にご飯あげて?」
「いいけど、寝ないでよ」
「うん」
「……大丈夫かな」

 不安のまま丸椅子に座らせると、案の定溪蓀シースンは厩舎の柱に身体をあずけ、すぐに目を閉じてしまった。あらわになった首筋が夕焼けに染まり艶めかしい。浩海ハオハイは、うっとりと見とれた。

――しばらく、抱いてない。

 彼は後宮帰りの妻に負担をかけまいと使用人を選りすぐり、一流の料理人を雇った。小さな屋敷で目立った贅沢こそ控えているものの、何不自由ない暮らしを保障しているつもりでいた。
 だというのに、当の溪蓀シースンは暇だから仕事がしたいとのんきに言いはじめる始末、こちらの心配など一切お構いなしだ。

 この一週間、彼女は林哲文リンゼウェンから手ほどきを受け、商売のイロハを学んだ。呑み込みが早く仕事が丁寧なので、早々に従業員たちに重宝されるようになったとか。加えて、あの美貌だ。
 商会の外に極力出さないようにしてくれと頭を下げた浩海ハオハイに対して、林哲文リンゼウェンは実に憐れみ深い視線を投げた。その甲斐もなく、突然林哲海リンゼェハイ商会に現れた美し従業員の存在が、早くも問屋街を騒がせているとかないとか。浩海ハオハイにとってこの一週間はひたすら苦行だった。

 籠の鳥のように、屋敷の奥深くに閉じ込めておきたい。毎日誰にも会わせず、浩海ハオハイの帰りだけを心待ちにさせたい。彼が叶いそうもない願望に浸っていると、洗い場につないだ青毛が前掻きを始めた。 

「分かったよ、黒槍ヘイチァン。君のことも忘れてないよ」

 馬装を解いて体毛とたてがみを梳き、蹄の泥土を落として油を塗る。最後に水を替えて干し草を投じると、黒槍ヘイチァンは満足そうに食事を始めた。

「さぁて、次はお姫様の番だね」

 溪蓀シースンが今にも柱から滑り落ちんばかりの危うい姿勢だったが、彼が目の前にたつと気配を感じたのか、眠い目をこすりあげた。

「わたし、寝てた?」
「風邪ひくよ、寒いでしょ?」
浩海ハオハイさん、ぎゅっとして」
 
 幼子のように腕を伸ばしてきたので、抱きしめる。厚着していても繊細かつ柔らかな曲線は明らかで、抱きしめているのに抱かれているような感覚におちいる。でも、これだけでは溪蓀シースン成分を補充しきれないのだ。

「なにするの?」
「ちょっと、つきあって」

 もがく彼女を空の厩舎まで運ぶと、ゆっくりとその両手首を壁に押しつけた。片付けられた馬房は事を成すには十分な広さで、普段と違うシチュエーションに心がおどる。浩海ハオハイが軽く開いた朱唇を吸うと、強い酒精アルコールをふくんだ吐息が流れこんでくた。

「んっ、……んぅ、……っん……っ、待って」 
「前と逆だね。呑んだの、白酒パイジュウ?」
「ふ、んっ、あぁ……っ。勧められる、ままだったから、覚えてない、わ。……ん、ふっ、ちょっと離して……っ」

 悋気を刺激された浩海ハオハイは白く艶やかな頬をつつんで、口腔深くむさぼる。歯ぐきをなぞり舌を吸うと、白魚のような手が官服の脇腹にすがりついてきた。舌や唇がすりあう音がくちゅくちゅと夕闇の厩舎にひびき、互いの熱がまじわる。

「君は外に出すと、すぐにこれだね。油断も隙もない」
「わたし、何も、してない……っ」
「自覚がないのが、一番の問題だね。これじゃあ、僕の心配はいつまでも尽きないよ」
「そんなこと、言われてもっ。……浩海ハオハイさんだって、同じじゃない」

 真っ赤な顔でキッと睨みつけてくるのが可愛い。しかし、それだけで心のモヤモヤを解消できるわけもなく、浩海ハオハイはあえて厳しい顔で生意気な唇をふさいだ。身長差を利用して、彼女が眉をしかめるまで喉奥をさぐる。ぬるっとした唾液までも愛おしく、口のはしを入念に舐めとった。

「僕が何だって?」
「はぁっ……、だから……」

 浩海ハオハイは妻が息を整えるわずかな間も惜しくて、今度は鼻をこすりあわせる。繊細な骨の感触を愉しみながら、力の抜けた柳腰が崩れないように身体を密着させた。

「あ、あなたの噂は、後宮まで広まっていたわ」
「僕の顔と才能の話? 皇后様の兄にしておくのは、もったいない逸材だって?」
「そういうの、自分でいうものかしら? ……腹が立つけれど、とにかくその通りよ。こ、恋文とかお誘いとかたくさんもらったでしょ? ちょっ……、離れてよ、浩海ハオハイさんっ」

 好きな人と密着して、接吻して、やきもちを妬かれて。その気にならない男がいるだろうか。溪蓀シースンは押し付けられた熱と硬度の高まりに、もぞもぞと居心地悪そうにしている。

溪蓀シースン以外の恋文もお誘いも、何の意味もないよ。君の勇ましい檄文の方が何千倍も嬉しかった」

 千花チェンファが入内する前にもらった文。遣いの宦官から差出人不明のそれを受け取り、驚いたし飛び跳ねるほど嬉しかった。再会するまで毎晩眺めていたし、夫婦になってからも時折読み返している。

勇景海ヨウジンハイがあなただなんて知らなかったの。知っていたら返事は焼かなかったわ」
「もちろん、焼き捨ててくれてよかった。何度だって返事は書くよ。『君との結婚生活は想像以上に充実している。日々を重ねることがこんなにも楽しいなんて思いもよらなかった。目的もなくフラフラ生きていた僕に、君だけが希望をくれたんだ。もう離さないし、離すこともできない。君に嫌われても、生涯愛し続けるよ』」

 腕のなかの彼女は、真っ赤な顔でこちらを見あげてくる。

「……わ、わたしだってそうよ。嫌うなんてできないし、浩海ハオハイさん無しの人生なんて考えられないわ」

 その愛らしさに思わずついばむ様な接吻を落とすと、彼女の肩が小さく震えた。潤んだ瞳は何かをこらえているようで、男心をそそられる。

「ねえ、溪蓀シースン。続き、ここでしてもいい?」
「じょ……っ、冗談でしょ? ここは外よ?」
「お願いだよ。君が欲しくてたまらない」 

 真摯に訴えると、彼女は恥じらいながらも浩海ハオハイの首に手を回した。

「もう、いやらしい人。……わたしの感動を返してよ」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

完全なる飼育

浅野浩二
恋愛
完全なる飼育です。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~

恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん) は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。 しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!? (もしかして、私、転生してる!!?) そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!! そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました

加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!

処理中です...