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番外編
83.林哲海商会(10)
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割烹を出てからの溪蓀の足取りはおぼつかなかった。
まだ日が高く夜の客の姿はないが、小僧が扉を拭いたり灯篭を灯したりと、いくつかの店で開店準備が始まっている。
「今日は、楽しかったです。游莞様、ありがとうございます」
「拙は何もしておりませんが」
「わたしのこと、守って下さったでしょう? 李充丘さんが急にお酒を注ぎにこなくなって、ほっとしました。さすがにあれ以上呑んでは、醜態をさらしてしまいます」
彼女は気がついていたのだ。それだけで、游莞の胸に歓喜がこみ上げた。
「拙もただ飯を喰らった分は、働かねばなりません。おきになさらず」
そう冗談めかして言えば、彼女が笑ってくれた。
「わたし、琴を弾くまえは主人のために少しでも成果を得ようと焦っていました。でも、琴を弾き始めたら楽しくて夢中になってしまって、商売のことなどどうでもよくなってしまったんです。そしたら、意外にもうまく行って。……これからは游莞様の泰然自若とした態度を見習って、大舞台ほど肩の力を抜いて望みたいと思います」
彼女の笑顔は美しい。
家を継ぎ妻帯しなくてよいことは、自分には好都合だった。好きなだけ、想っていられる。自分の想いは永遠に彼女を穢さない。
大丈夫、花の薫りに誘われたころには、既に彼女は李浩海という庭に咲いていて、自分が宦官でなかったとしても、手に入らないのだから。
游莞は懐から、桃色の布袋を取り出した。
「これを受け取ってくれませんか?」
布袋から顔を出したのは、薄紅色のサンゴ玉。溪蓀が驚いた顔をする。
「まぁ! それは長光屋にあったかんざし!」
「ずっと眺めていたでしょう?」
「ありがたいですけれど、いただけません。游莞様には、して頂いてばかりですもの」
生真面目な彼女の返事に、自然と笑みが浮かんだ。
「それでしたら、溪蓀さん。一つ助けていただけませんか? 実家で、二番目の妹の飼い猫が子供を四匹産んだのですが、さすがに面倒を見れないということで貰い手を探しているところなのです。キジトラ二匹と、三毛とクロが一匹ずつ。溪蓀さんも一度、観にいらっしゃいませんか?」
聞いた途端、彼女の大きな瞳がいきいきと輝いた。今も彼女の気持ちを雄弁に語っている。游莞はそれが見たくて一日彼女と行動を共にしたのだと、なにやら自分に納得した。
「でも、主人に聞いてみませんと……」
「もちろん、勇景海殿もご一緒に見に来てください。妹に話を通しておきますから、いつ来られても大丈夫ですよ」
そのとき、向かいから馬を引いた官僚が歩いてきた。商会から知らせを受け、梓禁城から馬で駆けつけたのか。赤い提灯に照らされた姿は剣呑で、普段の飄々とした空気はみじんもなかった。
――嫉妬深い男だ。この程度で、よく五年も身を伏せていたものだ。
だが、結局この男は身を伏せきれなかったのだ。慌てて溪蓀を後宮から出そうと、虚偽の告発をした。それに游莞が乗らなかったので、結果的に彼女は宦官に足を舐められる羽目になった。
――あちらが炎なら、こちらは風でいくまで。
どちらにしろ、武で相手に負けることはない。だが、緊迫した二人の間をつきやぶるかのように、突然溪蓀が飛び出してきた。
「浩海さん、猫ちゃん!」
「猫? わっ! 溪蓀!」
酔っ払った彼女は夫の胸に飛び込むなり、猫のように官服に頬をこすりつけた。あの甘えるしぐさからは、御花園をさっそうと歩く黄恵嬪を思い浮かべることは難しい。こんな彼女を見られるのも、勇景海がいるからに他ならない。
「溪蓀! こんなところで寝ちゃ駄目だって」
夫の許に辿りついてほっとしたのか、彼女の頭がずるずると下がっていく。景海は片腕で柳腰を抱えた。
「申し訳ありません、妻が無礼を」
「こうなるまえに止めなかった拙にも、非はあります」
「酩酊した溪蓀を見るのは初めてです。よっぽど楽しいことがあったのでしょう」
しょうがないと苦笑しながらも、景海《ジンハイ》の視線は優しい。
「妻を守ってもらって、感謝します。丁内侍殿」
「お安い御用です。ところで、王綿鷹殿が気になることを言っていました」
耳もとでその内容を囁いてやれば、景海が眉根を寄せた。
「妻はそれを?」
「いいえ、知りません」
さて、この男はどう動くだろう。好奇心と同時に、それに振り回される溪蓀の身を案じる。
「お手を貸しましょう」
景海は渋々ながら、自分にしがみついた妻を游莞に預ける。ひとときの溪蓀は細身の彼にとって決して軽くはなかったが、游莞《ヨウグァン》の胸には甘くほろ苦い感情が広がった。
馬上の景海は妻を受け取ると、身体全体で包みこむように手綱を握る。まるで游莞《ヨウグァン》には渡さないとばかりに。
游莞は静かに微笑んだ。
「良い夜を」
「内侍殿も」
夕焼けに映える景海の顔が意外そうにこちらを見た。馬上の二人を見送りながら、嫉妬と哀惜が自分の胸に沈殿していくのを感じる游莞である。
――彼女が、この先ずっと幸せでありますように。
誰とも番えず子どもも作れない自分が、誰かの笑顔を見るだけで喜びに包まれる。
それだけをよすがに、自分は生きていけるのだ。
まだ日が高く夜の客の姿はないが、小僧が扉を拭いたり灯篭を灯したりと、いくつかの店で開店準備が始まっている。
「今日は、楽しかったです。游莞様、ありがとうございます」
「拙は何もしておりませんが」
「わたしのこと、守って下さったでしょう? 李充丘さんが急にお酒を注ぎにこなくなって、ほっとしました。さすがにあれ以上呑んでは、醜態をさらしてしまいます」
彼女は気がついていたのだ。それだけで、游莞の胸に歓喜がこみ上げた。
「拙もただ飯を喰らった分は、働かねばなりません。おきになさらず」
そう冗談めかして言えば、彼女が笑ってくれた。
「わたし、琴を弾くまえは主人のために少しでも成果を得ようと焦っていました。でも、琴を弾き始めたら楽しくて夢中になってしまって、商売のことなどどうでもよくなってしまったんです。そしたら、意外にもうまく行って。……これからは游莞様の泰然自若とした態度を見習って、大舞台ほど肩の力を抜いて望みたいと思います」
彼女の笑顔は美しい。
家を継ぎ妻帯しなくてよいことは、自分には好都合だった。好きなだけ、想っていられる。自分の想いは永遠に彼女を穢さない。
大丈夫、花の薫りに誘われたころには、既に彼女は李浩海という庭に咲いていて、自分が宦官でなかったとしても、手に入らないのだから。
游莞は懐から、桃色の布袋を取り出した。
「これを受け取ってくれませんか?」
布袋から顔を出したのは、薄紅色のサンゴ玉。溪蓀が驚いた顔をする。
「まぁ! それは長光屋にあったかんざし!」
「ずっと眺めていたでしょう?」
「ありがたいですけれど、いただけません。游莞様には、して頂いてばかりですもの」
生真面目な彼女の返事に、自然と笑みが浮かんだ。
「それでしたら、溪蓀さん。一つ助けていただけませんか? 実家で、二番目の妹の飼い猫が子供を四匹産んだのですが、さすがに面倒を見れないということで貰い手を探しているところなのです。キジトラ二匹と、三毛とクロが一匹ずつ。溪蓀さんも一度、観にいらっしゃいませんか?」
聞いた途端、彼女の大きな瞳がいきいきと輝いた。今も彼女の気持ちを雄弁に語っている。游莞はそれが見たくて一日彼女と行動を共にしたのだと、なにやら自分に納得した。
「でも、主人に聞いてみませんと……」
「もちろん、勇景海殿もご一緒に見に来てください。妹に話を通しておきますから、いつ来られても大丈夫ですよ」
そのとき、向かいから馬を引いた官僚が歩いてきた。商会から知らせを受け、梓禁城から馬で駆けつけたのか。赤い提灯に照らされた姿は剣呑で、普段の飄々とした空気はみじんもなかった。
――嫉妬深い男だ。この程度で、よく五年も身を伏せていたものだ。
だが、結局この男は身を伏せきれなかったのだ。慌てて溪蓀を後宮から出そうと、虚偽の告発をした。それに游莞が乗らなかったので、結果的に彼女は宦官に足を舐められる羽目になった。
――あちらが炎なら、こちらは風でいくまで。
どちらにしろ、武で相手に負けることはない。だが、緊迫した二人の間をつきやぶるかのように、突然溪蓀が飛び出してきた。
「浩海さん、猫ちゃん!」
「猫? わっ! 溪蓀!」
酔っ払った彼女は夫の胸に飛び込むなり、猫のように官服に頬をこすりつけた。あの甘えるしぐさからは、御花園をさっそうと歩く黄恵嬪を思い浮かべることは難しい。こんな彼女を見られるのも、勇景海がいるからに他ならない。
「溪蓀! こんなところで寝ちゃ駄目だって」
夫の許に辿りついてほっとしたのか、彼女の頭がずるずると下がっていく。景海は片腕で柳腰を抱えた。
「申し訳ありません、妻が無礼を」
「こうなるまえに止めなかった拙にも、非はあります」
「酩酊した溪蓀を見るのは初めてです。よっぽど楽しいことがあったのでしょう」
しょうがないと苦笑しながらも、景海《ジンハイ》の視線は優しい。
「妻を守ってもらって、感謝します。丁内侍殿」
「お安い御用です。ところで、王綿鷹殿が気になることを言っていました」
耳もとでその内容を囁いてやれば、景海が眉根を寄せた。
「妻はそれを?」
「いいえ、知りません」
さて、この男はどう動くだろう。好奇心と同時に、それに振り回される溪蓀の身を案じる。
「お手を貸しましょう」
景海は渋々ながら、自分にしがみついた妻を游莞に預ける。ひとときの溪蓀は細身の彼にとって決して軽くはなかったが、游莞《ヨウグァン》の胸には甘くほろ苦い感情が広がった。
馬上の景海は妻を受け取ると、身体全体で包みこむように手綱を握る。まるで游莞《ヨウグァン》には渡さないとばかりに。
游莞は静かに微笑んだ。
「良い夜を」
「内侍殿も」
夕焼けに映える景海の顔が意外そうにこちらを見た。馬上の二人を見送りながら、嫉妬と哀惜が自分の胸に沈殿していくのを感じる游莞である。
――彼女が、この先ずっと幸せでありますように。
誰とも番えず子どもも作れない自分が、誰かの笑顔を見るだけで喜びに包まれる。
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