82 / 86
番外編
82.林哲海商会(9)
しおりを挟む
ふと、王綿鷹が何かを呟く。それを読唇術で読み取った游莞が眉根を寄せた。
王綿鷹は名残を惜しむようにしばし目を閉じていたが、客たちの拍手が途絶えると、控えていた従者に目配せした。溪蓀に着物の置かれた盆が差し出される。
「わしは、これを縫った針子を探しておる」
溪蓀の瞳が大きく開かれた。それは、芙蓉の刺繍が施された嬬。若い娘が好んで着るエンジの生地に薄い紅色が咲き乱れている。
游莞はすぐに分かった。後宮時代、後見人のいない溪蓀はそれほど散財できないはずなのに、いつも精緻な刺繍が施された嬬をまとっていた。自分でさした、と聞かされ驚いた記憶がある。
「孫娘がこの針子の縫ったものをひいきにしておる。名が記してあるわけではない、作品も多く出回らないが、あれにはすぐに分かるらしい。春の結婚の儀に合わせて、去年の暮れから取次先である林哲海商会に花嫁衣裳を依頼したが、『これは天女が手遊びに差したもの、我が商会でも強いて縫わせることはできませぬ』と人を食ったような断り方をしてきおった。だったら、こちらから直に針子に依頼すると林哲文に詰め寄ったが、店の主人のはずの男が誰の仕事かもわからん始末だ」
だから不審に思い、林哲海商会を洗った。游莞が事前に溪蓀から聞いていた話と違うが、彼女も聞かされていなかったのだろう。驚いた顔をしている。
だが、すぐに平静に戻った彼女はその着物を持って、王綿鷹の前で膝をついた。
「大事に使われているようで、感謝いたします。わたしはこの針子を存じております」
「ほぅ……!」
それまではらはらと見守るばかりだった客たちからも、安堵のため息が出る。
「ご安心ください。お仕事はたまわります。刺繍は何に致しましょうか?」
「孫は殊の外、花鳥を好んでおる。赤い花が好きだ」
気難しい王綿鷹も孫には弱いとみえ、厳しい頬を緩めた。嫁ぎ先でも幸せであれと、あれこれ思い浮かべているのが傍目にも分かる。
「春の御式なら、梅が咲き頃ですね。赤い梅にうぐいす……」
さっそく良い図案が頭に浮かんだのか、彼女もとても嬉しそうに頷いていた。だが、傍で見ていた游莞は、気が気ではない。
――そんな顔を見せたら、件の針子が溪蓀さんだと誰もが知ってしまう。
「ありがとうございます。ご指名をいただいた針子に早速知らせましょう。きっと喜びます」
とはいえ、游莞の知る黄恵嬪は背筋を伸ばして常に威風堂々としていたが、こうして嘘がつけず自然体で振る舞う溪蓀もまた可愛らしかった。しかたないな、と思いつつ目が離せない。
それからというもの、王綿鷹もすっかり機嫌が良くなり、宴席は賑わしくなった。
ひっきりなしに溪蓀に酒を注ぎに来る商人たち。彼女も成果を上げたことに気を良くして、勧められるままに強い酒をあおる。一杯、二杯と続き、傍で見ている游莞はその飲みっぷりに呆気にとられた。
「溪蓀さん、あまり飲み過ぎては」
「おいしい、お酒! 游莞様もいかがですか?」
「拙は結構です。それより……」
「ほら、黄夫人。こっちの酒も美味ですよ」
「あら、ありがとうございます。……李充丘様、それはちょっとそそぎ過ぎですよ。わたし、帰れなくなってしまいます」
「なんの、なんの。酒が強いご婦人にはなんてことないもんです。さあ、ぐっと一息に」
なかでも、李充丘の溪蓀に対する視線は、游莞にとっても唾棄すべきものだった。白桃が熟すようにほんのり赤らんだ首筋。弦を巧みに弾いたり、精緻な刺繍をほどこす指に触れんばかりに身を寄せてくる。
正体を無くすまで酔わせて、どうするつもりか? 潔癖な彼には強欲な商人の考えなど想像もつかないが、不快な気持ちはぬぐい切れなかった。
游莞は、李充丘が厠に立ったのを確認し、少し時間を置いて立ち上がった。気がついて、赤い顔を傾ける溪蓀に断りを入れる。彼女は夢見心地にひらひらと手を振ってきた。
厠を済ませた李充丘が上機嫌で戻ってきた。足取りはしっかりとして、酒を飲んだ気配もない。溪蓀一人でこの宴席に来たのなら、この男の計画はうまく行っていたかもしれない。
游莞はすれ違いざま、耳もとで囁いてやる。
「あの方に指一本でも触れてみろ。手首ごと斬り落としてやる」
背後で男が凍り付くのを感じとった。北都の治安とて万全ではなく、輿に乗った貴人が闇討ちされる事件もたまには起きる。聶政のように正々堂々と乗り込む暗殺者は、現代には皆無だ。
宴もたけなわになり、王綿鷹の退席と共にお開きとなった。
王綿鷹は名残を惜しむようにしばし目を閉じていたが、客たちの拍手が途絶えると、控えていた従者に目配せした。溪蓀に着物の置かれた盆が差し出される。
「わしは、これを縫った針子を探しておる」
溪蓀の瞳が大きく開かれた。それは、芙蓉の刺繍が施された嬬。若い娘が好んで着るエンジの生地に薄い紅色が咲き乱れている。
游莞はすぐに分かった。後宮時代、後見人のいない溪蓀はそれほど散財できないはずなのに、いつも精緻な刺繍が施された嬬をまとっていた。自分でさした、と聞かされ驚いた記憶がある。
「孫娘がこの針子の縫ったものをひいきにしておる。名が記してあるわけではない、作品も多く出回らないが、あれにはすぐに分かるらしい。春の結婚の儀に合わせて、去年の暮れから取次先である林哲海商会に花嫁衣裳を依頼したが、『これは天女が手遊びに差したもの、我が商会でも強いて縫わせることはできませぬ』と人を食ったような断り方をしてきおった。だったら、こちらから直に針子に依頼すると林哲文に詰め寄ったが、店の主人のはずの男が誰の仕事かもわからん始末だ」
だから不審に思い、林哲海商会を洗った。游莞が事前に溪蓀から聞いていた話と違うが、彼女も聞かされていなかったのだろう。驚いた顔をしている。
だが、すぐに平静に戻った彼女はその着物を持って、王綿鷹の前で膝をついた。
「大事に使われているようで、感謝いたします。わたしはこの針子を存じております」
「ほぅ……!」
それまではらはらと見守るばかりだった客たちからも、安堵のため息が出る。
「ご安心ください。お仕事はたまわります。刺繍は何に致しましょうか?」
「孫は殊の外、花鳥を好んでおる。赤い花が好きだ」
気難しい王綿鷹も孫には弱いとみえ、厳しい頬を緩めた。嫁ぎ先でも幸せであれと、あれこれ思い浮かべているのが傍目にも分かる。
「春の御式なら、梅が咲き頃ですね。赤い梅にうぐいす……」
さっそく良い図案が頭に浮かんだのか、彼女もとても嬉しそうに頷いていた。だが、傍で見ていた游莞は、気が気ではない。
――そんな顔を見せたら、件の針子が溪蓀さんだと誰もが知ってしまう。
「ありがとうございます。ご指名をいただいた針子に早速知らせましょう。きっと喜びます」
とはいえ、游莞の知る黄恵嬪は背筋を伸ばして常に威風堂々としていたが、こうして嘘がつけず自然体で振る舞う溪蓀もまた可愛らしかった。しかたないな、と思いつつ目が離せない。
それからというもの、王綿鷹もすっかり機嫌が良くなり、宴席は賑わしくなった。
ひっきりなしに溪蓀に酒を注ぎに来る商人たち。彼女も成果を上げたことに気を良くして、勧められるままに強い酒をあおる。一杯、二杯と続き、傍で見ている游莞はその飲みっぷりに呆気にとられた。
「溪蓀さん、あまり飲み過ぎては」
「おいしい、お酒! 游莞様もいかがですか?」
「拙は結構です。それより……」
「ほら、黄夫人。こっちの酒も美味ですよ」
「あら、ありがとうございます。……李充丘様、それはちょっとそそぎ過ぎですよ。わたし、帰れなくなってしまいます」
「なんの、なんの。酒が強いご婦人にはなんてことないもんです。さあ、ぐっと一息に」
なかでも、李充丘の溪蓀に対する視線は、游莞にとっても唾棄すべきものだった。白桃が熟すようにほんのり赤らんだ首筋。弦を巧みに弾いたり、精緻な刺繍をほどこす指に触れんばかりに身を寄せてくる。
正体を無くすまで酔わせて、どうするつもりか? 潔癖な彼には強欲な商人の考えなど想像もつかないが、不快な気持ちはぬぐい切れなかった。
游莞は、李充丘が厠に立ったのを確認し、少し時間を置いて立ち上がった。気がついて、赤い顔を傾ける溪蓀に断りを入れる。彼女は夢見心地にひらひらと手を振ってきた。
厠を済ませた李充丘が上機嫌で戻ってきた。足取りはしっかりとして、酒を飲んだ気配もない。溪蓀一人でこの宴席に来たのなら、この男の計画はうまく行っていたかもしれない。
游莞はすれ違いざま、耳もとで囁いてやる。
「あの方に指一本でも触れてみろ。手首ごと斬り落としてやる」
背後で男が凍り付くのを感じとった。北都の治安とて万全ではなく、輿に乗った貴人が闇討ちされる事件もたまには起きる。聶政のように正々堂々と乗り込む暗殺者は、現代には皆無だ。
宴もたけなわになり、王綿鷹の退席と共にお開きとなった。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。


今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~
月
恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん)
は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。
しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!?
(もしかして、私、転生してる!!?)
そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!!
そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる