あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

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番外編

82.林哲海商会(9)

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 ふと、王綿鷹ワンミャンインが何かを呟く。それを読唇術で読み取った游莞ヨウグアンが眉根を寄せた。
 王綿鷹ワンミャンインは名残を惜しむようにしばし目を閉じていたが、客たちの拍手が途絶えると、控えていた従者に目配せした。溪蓀シースンに着物の置かれた盆が差し出される。

「わしは、これを縫った針子を探しておる」

 溪蓀シースンの瞳が大きく開かれた。それは、芙蓉の刺繍が施された嬬。若い娘が好んで着るエンジの生地に薄い紅色が咲き乱れている。
 游莞ヨウグアンはすぐに分かった。後宮時代、後見人のいない溪蓀シースンはそれほど散財できないはずなのに、いつも精緻な刺繍が施された嬬をまとっていた。自分でさした、と聞かされ驚いた記憶がある。
 
「孫娘がこの針子の縫ったものをひいきにしておる。名が記してあるわけではない、作品も多く出回らないが、あれにはすぐに分かるらしい。春の結婚の儀に合わせて、去年の暮れから取次先である林哲海リンゼェハイ商会に花嫁衣裳を依頼したが、『これは天女が手遊てすさびに差したもの、我が商会でも強いて縫わせることはできませぬ』と人を食ったような断り方をしてきおった。だったら、こちらから直に針子に依頼すると林哲文リンゼウェンに詰め寄ったが、店の主人のはずの男が誰の仕事かもわからん始末だ」

 だから不審に思い、林哲海リンゼェハイ商会を洗った。游莞ヨウグアンが事前に溪蓀シースンから聞いていた話と違うが、彼女も聞かされていなかったのだろう。驚いた顔をしている。
 だが、すぐに平静に戻った彼女はその着物を持って、王綿鷹ワンミャンインの前で膝をついた。
 
「大事に使われているようで、感謝いたします。わたしはこの針子を存じております」
「ほぅ……!」

 それまではらはらと見守るばかりだった客たちからも、安堵のため息が出る。

「ご安心ください。お仕事はたまわります。刺繍は何に致しましょうか?」
「孫は殊の外、花鳥を好んでおる。赤い花が好きだ」

 気難しい王綿鷹ワンミャンインも孫には弱いとみえ、厳しい頬を緩めた。嫁ぎ先でも幸せであれと、あれこれ思い浮かべているのが傍目にも分かる。

「春の御式なら、梅が咲き頃ですね。赤い梅にうぐいす……」

 さっそく良い図案が頭に浮かんだのか、彼女もとても嬉しそうに頷いていた。だが、傍で見ていた游莞ヨウグアンは、気が気ではない。

――そんな顔を見せたら、件の針子が溪蓀シースンさんだと誰もが知ってしまう。

「ありがとうございます。ご指名をいただいた針子に早速知らせましょう。きっと喜びます」

 とはいえ、游莞ヨウグアンの知る黄恵嬪ホワンけいひんは背筋を伸ばして常に威風堂々としていたが、こうして嘘がつけず自然体で振る舞う溪蓀シースンもまた可愛らしかった。しかたないな、と思いつつ目が離せない。

 それからというもの、王綿鷹ワンミャンインもすっかり機嫌が良くなり、宴席は賑わしくなった。
 ひっきりなしに溪蓀シースンに酒を注ぎに来る商人たち。彼女も成果を上げたことに気を良くして、勧められるままに強い酒をあおる。一杯、二杯と続き、傍で見ている游莞ヨウグアンはその飲みっぷりに呆気にとられた。

溪蓀シースンさん、あまり飲み過ぎては」
「おいしい、お酒! 游莞ヨウグアン様もいかがですか?」
「拙は結構です。それより……」
「ほら、ホワン夫人。こっちの酒も美味ですよ」
「あら、ありがとうございます。……李充丘リーチョンチュー様、それはちょっとそそぎ過ぎですよ。わたし、帰れなくなってしまいます」
「なんの、なんの。酒が強いご婦人にはなんてことないもんです。さあ、ぐっと一息に」

 なかでも、李充丘リーチョンチュー溪蓀シースンに対する視線は、游莞ヨウグァンにとっても唾棄すべきものだった。白桃が熟すようにほんのり赤らんだ首筋。弦を巧みに弾いたり、精緻な刺繍をほどこす指に触れんばかりに身を寄せてくる。
 正体を無くすまで酔わせて、どうするつもりか? 潔癖な彼には強欲な商人の考えなど想像もつかないが、不快な気持ちはぬぐい切れなかった。

 游莞ヨウグアンは、李充丘リーチョンチューが厠に立ったのを確認し、少し時間を置いて立ち上がった。気がついて、赤い顔を傾ける溪蓀シースンに断りを入れる。彼女は夢見心地にひらひらと手を振ってきた。

 厠を済ませた李充丘リーチョンチューが上機嫌で戻ってきた。足取りはしっかりとして、酒を飲んだ気配もない。溪蓀シースン一人でこの宴席に来たのなら、この男の計画はうまく行っていたかもしれない。
 游莞ヨウグァンはすれ違いざま、耳もとで囁いてやる。

「あの方に指一本でも触れてみろ。手首ごと斬り落としてやる」
  
 背後で男が凍り付くのを感じとった。北都ベイドゥの治安とて万全ではなく、輿に乗った貴人が闇討ちされる事件もたまには起きる。聶政ニエジェンのように正々堂々と乗り込む暗殺者は、現代には皆無だ。
 宴もたけなわになり、王綿鷹ワンミャンインの退席と共にお開きとなった。
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