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番外編
81.林哲海商会(8)
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――さて、どうなることやら。
溪蓀が席を立って、しばらく経つ。游莞は盃を傾けながら、事態を静観していた。
この北都で大店を張るだけあって、みな恰幅よく押し出しの強い五十代から六十代ばかりだ。林哲海商会のまだ見ぬ主人が、自分たちと同じような歳格好だと思い込むのも無理はない。彼らの常識では、愛人を囲うときは店の『従業員』として雇い入れるらしい。游莞まで勇景海の色小姓だと思われるのは、屈辱の極みだが。
四か月ぶりに出会った溪蓀は生来の美しさに加えて、人の視線を惹きつけてやまない艶があった。好きな男と一緒になる女性とは、皆こうやって変化していくのだろうか。ここに集う商人たちも王綿鷹の手前、口では彼女を馬鹿にしながらも、絶えず目で追っている。
勇景海は、どうして彼女を会合に参加させたのか。游莞は彼をうさん臭く思っていたものの、今はそれなりに評価していた。皇帝の外戚でありながら、角を立てず目立たず、かといって軽んじられることなく、器用に外廷を渡り歩いている。そんな男が愛妻をさらし者にし、意気消沈させる目的が分からない。そもそも、自分だったらこんな場所に行かせないのに。
周囲の者が思うように、游莞は溪蓀を愛していた。御花園や牢獄で彼女を抱きしめてからというもの、ときおり失ったはずの男性器がうずくような気がする。これが肉欲かと自嘲する一方、彼は武の鍛練に励むか、瞑想して煩悩を撥ねのけるようにしていた。
何かを望んでいるわけではない、ときおりこうして隣にいられるだけで幸せなのだ。
胡弓の演奏が終わり、宴席は一時静寂に包まれる。だが、次に入ってきた奏者を見て、さすがの游莞も酒を吹きそうになった。
――溪蓀さん!?
商人たちも、にわかに騒がしくなる。一座の男衆が七弦琴を運び入れ、彼女がその前に座ったのを見て、王綿鷹が眉間にしわを寄せた。
「わしらは婦人の発表会を開いた覚えはないが」
宴席はそれに倣うように嘲笑で満たされる。李充丘という壮年の商人が一人青ざめる宴席の幹事に話しかけていた。
「商売の商の字も知らぬくせに取り入る手段だけは、なかなかのものですな。黒殿も甘い蜜の薫りにからめとられたとみえる」
「からめとられたわけではない。あの女が古琴を弾くと言い張るので、仕方なく出しただけだ。失敗して恥をかいてもわしの知ったことじゃない」
黒満道が憮然と横をむけば、李充丘は伸ばした口髭をなでた。
「気になさることはない。つまるところ、林哲海商会の主人が、その程度の人間だったということでしょう。北都に来て数年で大店にのし上がった勢いもここまで。林哲文殿に仕事を丸投げし、愛妾に色ボケし、そんな男はたいした脅威にならんでしょう。……だが、審美眼だけは確かですな。そこは認めましょう」
「李充丘殿は物好きですな。わしは多少不格好でも、大人しくて丈夫な馬がいい」
「なんの。じゃじゃ馬もしっかり躾すれば、主人にだけ従順になりますからね。わがままで嫉妬深いきらいはありますが、なかなかに可愛いものですぞ」
舌なめずりするような李充丘の目線に、游莞はどうしようもない嫌悪感を抱いた。
一方、溪蓀は雑音など意に介することなく、静かに笑みを浮かべている。
「『広陵散』を」
それは、後漢の末に広陵という土地で流行った民間の音楽で、『聶政刺韓王曲』とも呼ばれる。曲は五分(二十分)程度あり、通しで弾き終えるだけでもかなりの技術を要する。妃嬪は教養を身に着けるために芸事を学ぶが、彼女の習熟度がどの程度か游莞には分からなかった。
溪蓀は長い睫毛を伏せて、弦を弾き始めた。低音が心地よく耳を打つ。力強い琴の音は磨き抜かれていて、彼女の鍛錬のほどがうかがえた。
暗殺者の聶政が韓の宰相・侠累の屋敷に単身押し入り、宰相を含めた十五人を斬り倒す。テンポの速い旋律に目を閉じれば、舞のように太刀を振るう大男の姿が浮かんだ。とはいえ、多勢に無勢。追い詰められたところで、自らはらわたを引き裂いて自決する聶政。彼の覚悟に呼応するように、溪蓀の高音を奏でる左手が激しく弦をはじく。
曲はゆったりとなり、低音が重々しいほどのもの悲しさを伝えてくる。暗殺者も暗殺を命じた者も分からず、広場にさらされる聶政の遺体。聶政の姉は無名のまま死んでいった弟を憐れみ、見物人たちに弟の名前を言って回る。「やめときなさい、あんたも捕まるよ」「覚悟のうえです」聶政の姉は答える。何故なら、彼女は兵士に捕らわれる前に自決するのだ。そこで、彼女の義を称えるように激しく弦が弾かれる。
溪蓀の白い指が弦から離れ、物語は終わりを告げた。あっという間の五分だった。歓喜をはらんだ静寂が宴席を包んだ。あれだけ好き勝手言っていた、黒満道と李充丘ですら、彼女の奏でる旋律に浸っていたのだ。王綿鷹は名残を惜しむように目を閉じていたが、初めて溪蓀を正面にとらえた。
「聞けぬ音ではない」
「ありがとうございます」
彼女はほっとしたのか、明るい笑顔を浮かべる。長い演奏の後で白い頬は上気していた。
溪蓀が席を立って、しばらく経つ。游莞は盃を傾けながら、事態を静観していた。
この北都で大店を張るだけあって、みな恰幅よく押し出しの強い五十代から六十代ばかりだ。林哲海商会のまだ見ぬ主人が、自分たちと同じような歳格好だと思い込むのも無理はない。彼らの常識では、愛人を囲うときは店の『従業員』として雇い入れるらしい。游莞まで勇景海の色小姓だと思われるのは、屈辱の極みだが。
四か月ぶりに出会った溪蓀は生来の美しさに加えて、人の視線を惹きつけてやまない艶があった。好きな男と一緒になる女性とは、皆こうやって変化していくのだろうか。ここに集う商人たちも王綿鷹の手前、口では彼女を馬鹿にしながらも、絶えず目で追っている。
勇景海は、どうして彼女を会合に参加させたのか。游莞は彼をうさん臭く思っていたものの、今はそれなりに評価していた。皇帝の外戚でありながら、角を立てず目立たず、かといって軽んじられることなく、器用に外廷を渡り歩いている。そんな男が愛妻をさらし者にし、意気消沈させる目的が分からない。そもそも、自分だったらこんな場所に行かせないのに。
周囲の者が思うように、游莞は溪蓀を愛していた。御花園や牢獄で彼女を抱きしめてからというもの、ときおり失ったはずの男性器がうずくような気がする。これが肉欲かと自嘲する一方、彼は武の鍛練に励むか、瞑想して煩悩を撥ねのけるようにしていた。
何かを望んでいるわけではない、ときおりこうして隣にいられるだけで幸せなのだ。
胡弓の演奏が終わり、宴席は一時静寂に包まれる。だが、次に入ってきた奏者を見て、さすがの游莞も酒を吹きそうになった。
――溪蓀さん!?
商人たちも、にわかに騒がしくなる。一座の男衆が七弦琴を運び入れ、彼女がその前に座ったのを見て、王綿鷹が眉間にしわを寄せた。
「わしらは婦人の発表会を開いた覚えはないが」
宴席はそれに倣うように嘲笑で満たされる。李充丘という壮年の商人が一人青ざめる宴席の幹事に話しかけていた。
「商売の商の字も知らぬくせに取り入る手段だけは、なかなかのものですな。黒殿も甘い蜜の薫りにからめとられたとみえる」
「からめとられたわけではない。あの女が古琴を弾くと言い張るので、仕方なく出しただけだ。失敗して恥をかいてもわしの知ったことじゃない」
黒満道が憮然と横をむけば、李充丘は伸ばした口髭をなでた。
「気になさることはない。つまるところ、林哲海商会の主人が、その程度の人間だったということでしょう。北都に来て数年で大店にのし上がった勢いもここまで。林哲文殿に仕事を丸投げし、愛妾に色ボケし、そんな男はたいした脅威にならんでしょう。……だが、審美眼だけは確かですな。そこは認めましょう」
「李充丘殿は物好きですな。わしは多少不格好でも、大人しくて丈夫な馬がいい」
「なんの。じゃじゃ馬もしっかり躾すれば、主人にだけ従順になりますからね。わがままで嫉妬深いきらいはありますが、なかなかに可愛いものですぞ」
舌なめずりするような李充丘の目線に、游莞はどうしようもない嫌悪感を抱いた。
一方、溪蓀は雑音など意に介することなく、静かに笑みを浮かべている。
「『広陵散』を」
それは、後漢の末に広陵という土地で流行った民間の音楽で、『聶政刺韓王曲』とも呼ばれる。曲は五分(二十分)程度あり、通しで弾き終えるだけでもかなりの技術を要する。妃嬪は教養を身に着けるために芸事を学ぶが、彼女の習熟度がどの程度か游莞には分からなかった。
溪蓀は長い睫毛を伏せて、弦を弾き始めた。低音が心地よく耳を打つ。力強い琴の音は磨き抜かれていて、彼女の鍛錬のほどがうかがえた。
暗殺者の聶政が韓の宰相・侠累の屋敷に単身押し入り、宰相を含めた十五人を斬り倒す。テンポの速い旋律に目を閉じれば、舞のように太刀を振るう大男の姿が浮かんだ。とはいえ、多勢に無勢。追い詰められたところで、自らはらわたを引き裂いて自決する聶政。彼の覚悟に呼応するように、溪蓀の高音を奏でる左手が激しく弦をはじく。
曲はゆったりとなり、低音が重々しいほどのもの悲しさを伝えてくる。暗殺者も暗殺を命じた者も分からず、広場にさらされる聶政の遺体。聶政の姉は無名のまま死んでいった弟を憐れみ、見物人たちに弟の名前を言って回る。「やめときなさい、あんたも捕まるよ」「覚悟のうえです」聶政の姉は答える。何故なら、彼女は兵士に捕らわれる前に自決するのだ。そこで、彼女の義を称えるように激しく弦が弾かれる。
溪蓀の白い指が弦から離れ、物語は終わりを告げた。あっという間の五分だった。歓喜をはらんだ静寂が宴席を包んだ。あれだけ好き勝手言っていた、黒満道と李充丘ですら、彼女の奏でる旋律に浸っていたのだ。王綿鷹は名残を惜しむように目を閉じていたが、初めて溪蓀を正面にとらえた。
「聞けぬ音ではない」
「ありがとうございます」
彼女はほっとしたのか、明るい笑顔を浮かべる。長い演奏の後で白い頬は上気していた。
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