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番外編
73.溪蓀、独りごちる(4)※
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微かに漏れる水音に眼をあけると、夜着をまとった浩海さんが天蓋から降りる紗の向こうから顔を覗かせた。寝台の横の卓子には、湯気の湧く盥が置いてある。
「じ、……自分で拭くわ」
「妻の身体をいたわるのは、夫の特権だよ。起こして無理をさせたのは僕だし、溪蓀は休んでいて」
汗ばんだ肌に温かい手拭いを押し当てられるのは気持ちがいい。強がっていても、きっと自分ではろくに清められないだろう。全身を弛緩させると、浩海さんの手が癒しに思えた。
そのとき、突然何かの記憶が紛れ込んでくる。力強く大きな手。顔から足の指先までを行き来して、わたしをいたわり慈しむ。今みたいに熱い湯で汗を拭われると心地よく、全身の倦怠感が和らぐのを感じていた。
「こういうこと、前にもあったのかしら……?」
つい口に出すと、浩海さんはあっさりと言う。
「あったよ」
「うそ。そんなはずないじゃない」
浩海さんは丁寧な手つきで手拭いをしぼると、もう一度わたしの身体にそれを当てた。
「今まで言う機会もなかったから黙っていたけれど。君が石黄をあおって倒れたとき、看病したの僕なんだ。だから、二回目。遠慮しなくていいよ」
「どういうことなの?」
訳が分からない。わたしは疲れ切った身体を起こして、彼を見た。情交のあとでいつもの余裕が戻って来たのか、またあの涼し気な笑みを浮かべている。ただ、優し気な声には哀切が秘められていた。
「溪蓀は熱にうなされて、何度か僕の名前を出したそうだね。千花が陛下に頼み込んで、僕を特別に後宮に入れてくれたんだ」
「夢に、宦官の服を着たあなたが出てきたわ。あれは夢じゃなかったの……? じゃあ、わたしの裸!?」
「見たよ。上から下まで全部」
「もうっ! 知らないっ」
私は、足許でくるまっていた布団を頭からかぶる。あのときはまだ夫婦ではなく、わたしは黄恵嬪で処女だった。陛下以外の男性に肌を見せることを許されず、しかも、あのとき、ひどい下痢と嘔吐に苦しんでいたわけで、浩海さんに拭かせたのは実は汗ばかりではない。それを思い出すと、恥ずかしくて、たまらなかった。
「君は酷い熱で湿疹も出来ていて、普通の状態じゃなかった。こっちは全然楽しむ余裕が無くて、君の体調がこれ以上悪化しないように、そればかり祈っていたよ」
浩海さんは敷布のうえに残ったわたしの髪を一房とり、そこに口付ける。
「あの時ほど君を手放して、後悔したことはないよ。生きていてくれて、ありがとう」
その途端、わたしの心は愛しい気持ちでいっぱいになった。花嫁行列でアヤメ畑を通ったときに一斉に心に咲いた花々が、より鮮やかに彩りを増していくようだ。この花が枯れることなどあるのだろうか。
布団のなかにいるのが苦しくなったころ、浩海さんが上掛けをめくって、わたしの顔を両手で包みこんできた。まるで先立たれることを恐れる弱弱しい顏。それを見たわたしは、その時の彼の気持ちを想像して、涙を一筋こぼした。
「心配かけて、ごめんなさい。それから、わたしのこと、ずっと待っていてくれてありがとう」
彼はゆっくりと頷いて、わたしを抱きしめてくれる。
※※※※※
今朝も変わらず、浩海さんはわたしを抱き枕にしている。わたしの首筋に鼻を突っ込んで、苦しくならないのか、相変わらず不思議だ。
窓の外が白んでいて、今日がお天気だとわかった。晩夏を迎え、こころなしか朝の気温はひんやりとしている。夫の滑らかな肌の感触が、気持ちよかった。
とはいえ、この黄溪蓀。いつまでも布団の住人ではいられないのだ。
「お願い、今日だけは起きさせて」
「どうして? やけに早いじゃない。せっかくの休みなんだからゆっくりしようよ」
いつものように人の衿をあごで器用に下げてくる彼。わたしは合わせをぎゅっとつかんで、抵抗した。
「だめよ。包子を一緒に作るって、料理人の朴さんと約束したもの」
「妬けるなぁ。僕の腕から抜け出して、ほかの男の許へ行くって言うのかい? あんなに熱い夜を過ごしたのに」
日に焼けた夫の腕をわたしはぺちっと叩く。
「ほかの男って……。朴さんは、七十歳のお爺さんよ。嫉妬する方がどうかしているわよ」
「僕以外の男は誰一人として、君に近づけたくない。子供でも老人でも、男というだけで嫌なんだ」
そう言って、わたしを抱きしめてきた。わたしは不意に、彼が丁内侍のことも敵視していたを思い出す。丁内侍は信頼の厚い親しい友人ではあるけれど、いわゆる宦官だ。誰彼かまわず嫉妬するこの人が、陛下の側室になったわたしを諦めないでいてくれたことにもはや感謝の念しか湧いてこない。わたしがもし彼の立場なら、気を病んでしまうかもしれない。奪い返す方法など考えず、何も行動に移さず、毎日泣き暮らしていただろう。
わたしは彼の腕に埋没したまま、口を開いた。
「浩海さんの好きなあんこ入りの包子、わたしも作りたいの。あなたの実家の料理人にちゃんとコツを聞いてきたんだから」
「……溪蓀」
「お願いよ」
わたしの腰に回った腕に自分の手を重ねると、背後からぎゅっと抱きしめられた。
「すっかり、僕の扱いが上手くなっちゃったね」
そんなことはないと思う。わたしはいまだ浩海さんには翻弄されっぱなし、五年前にこの人への恋慕を胸に植え付けたまま、こうして再会しても夢から覚めないでいるのだから。
「じ、……自分で拭くわ」
「妻の身体をいたわるのは、夫の特権だよ。起こして無理をさせたのは僕だし、溪蓀は休んでいて」
汗ばんだ肌に温かい手拭いを押し当てられるのは気持ちがいい。強がっていても、きっと自分ではろくに清められないだろう。全身を弛緩させると、浩海さんの手が癒しに思えた。
そのとき、突然何かの記憶が紛れ込んでくる。力強く大きな手。顔から足の指先までを行き来して、わたしをいたわり慈しむ。今みたいに熱い湯で汗を拭われると心地よく、全身の倦怠感が和らぐのを感じていた。
「こういうこと、前にもあったのかしら……?」
つい口に出すと、浩海さんはあっさりと言う。
「あったよ」
「うそ。そんなはずないじゃない」
浩海さんは丁寧な手つきで手拭いをしぼると、もう一度わたしの身体にそれを当てた。
「今まで言う機会もなかったから黙っていたけれど。君が石黄をあおって倒れたとき、看病したの僕なんだ。だから、二回目。遠慮しなくていいよ」
「どういうことなの?」
訳が分からない。わたしは疲れ切った身体を起こして、彼を見た。情交のあとでいつもの余裕が戻って来たのか、またあの涼し気な笑みを浮かべている。ただ、優し気な声には哀切が秘められていた。
「溪蓀は熱にうなされて、何度か僕の名前を出したそうだね。千花が陛下に頼み込んで、僕を特別に後宮に入れてくれたんだ」
「夢に、宦官の服を着たあなたが出てきたわ。あれは夢じゃなかったの……? じゃあ、わたしの裸!?」
「見たよ。上から下まで全部」
「もうっ! 知らないっ」
私は、足許でくるまっていた布団を頭からかぶる。あのときはまだ夫婦ではなく、わたしは黄恵嬪で処女だった。陛下以外の男性に肌を見せることを許されず、しかも、あのとき、ひどい下痢と嘔吐に苦しんでいたわけで、浩海さんに拭かせたのは実は汗ばかりではない。それを思い出すと、恥ずかしくて、たまらなかった。
「君は酷い熱で湿疹も出来ていて、普通の状態じゃなかった。こっちは全然楽しむ余裕が無くて、君の体調がこれ以上悪化しないように、そればかり祈っていたよ」
浩海さんは敷布のうえに残ったわたしの髪を一房とり、そこに口付ける。
「あの時ほど君を手放して、後悔したことはないよ。生きていてくれて、ありがとう」
その途端、わたしの心は愛しい気持ちでいっぱいになった。花嫁行列でアヤメ畑を通ったときに一斉に心に咲いた花々が、より鮮やかに彩りを増していくようだ。この花が枯れることなどあるのだろうか。
布団のなかにいるのが苦しくなったころ、浩海さんが上掛けをめくって、わたしの顔を両手で包みこんできた。まるで先立たれることを恐れる弱弱しい顏。それを見たわたしは、その時の彼の気持ちを想像して、涙を一筋こぼした。
「心配かけて、ごめんなさい。それから、わたしのこと、ずっと待っていてくれてありがとう」
彼はゆっくりと頷いて、わたしを抱きしめてくれる。
※※※※※
今朝も変わらず、浩海さんはわたしを抱き枕にしている。わたしの首筋に鼻を突っ込んで、苦しくならないのか、相変わらず不思議だ。
窓の外が白んでいて、今日がお天気だとわかった。晩夏を迎え、こころなしか朝の気温はひんやりとしている。夫の滑らかな肌の感触が、気持ちよかった。
とはいえ、この黄溪蓀。いつまでも布団の住人ではいられないのだ。
「お願い、今日だけは起きさせて」
「どうして? やけに早いじゃない。せっかくの休みなんだからゆっくりしようよ」
いつものように人の衿をあごで器用に下げてくる彼。わたしは合わせをぎゅっとつかんで、抵抗した。
「だめよ。包子を一緒に作るって、料理人の朴さんと約束したもの」
「妬けるなぁ。僕の腕から抜け出して、ほかの男の許へ行くって言うのかい? あんなに熱い夜を過ごしたのに」
日に焼けた夫の腕をわたしはぺちっと叩く。
「ほかの男って……。朴さんは、七十歳のお爺さんよ。嫉妬する方がどうかしているわよ」
「僕以外の男は誰一人として、君に近づけたくない。子供でも老人でも、男というだけで嫌なんだ」
そう言って、わたしを抱きしめてきた。わたしは不意に、彼が丁内侍のことも敵視していたを思い出す。丁内侍は信頼の厚い親しい友人ではあるけれど、いわゆる宦官だ。誰彼かまわず嫉妬するこの人が、陛下の側室になったわたしを諦めないでいてくれたことにもはや感謝の念しか湧いてこない。わたしがもし彼の立場なら、気を病んでしまうかもしれない。奪い返す方法など考えず、何も行動に移さず、毎日泣き暮らしていただろう。
わたしは彼の腕に埋没したまま、口を開いた。
「浩海さんの好きなあんこ入りの包子、わたしも作りたいの。あなたの実家の料理人にちゃんとコツを聞いてきたんだから」
「……溪蓀」
「お願いよ」
わたしの腰に回った腕に自分の手を重ねると、背後からぎゅっと抱きしめられた。
「すっかり、僕の扱いが上手くなっちゃったね」
そんなことはないと思う。わたしはいまだ浩海さんには翻弄されっぱなし、五年前にこの人への恋慕を胸に植え付けたまま、こうして再会しても夢から覚めないでいるのだから。
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