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第三章

64.華燭

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 花嫁行列を終え、溪蓀シースンたちが向かったのは彼女の元実家だった。見るからにボロボロだった塀も新しいものに変えられ、今はヤオ家の当主代理である財寿ゼゾウの屋敷に相応しい構えを見せている。
 大門を抜けた先の前庭で、轎子かごがゆっくりと降ろされた。骨っぽい大きな手が彼女のそれを包んでくる。この五年、溪蓀シースンが接触を持たなかった、大人の男性のものだ。

浩海ハオハイさん」
溪蓀シースン

 待ち焦がれた声は、かつて呼ばれた時と変わらぬ熱をはらんでいた。立ち上がったところを抱きすくめられ、広い胸に押し付けられる。溪蓀シースンはこれが本当に現実なのか分からず、花婿の背中にそっと腕を回した。自分とは違うがっしりした骨格に胸が痛いほど高鳴る。

――ああ、夢じゃないんだわ。

「遅いわよ。わたし、もう二十三なのよ」
 
 嬉しくて涙が止まらないのに、彼を前にすると憎まれ口をたたいてしまう。浩海ハオハイもそれがわかっているのか、昔と変わらない口調だった。

「ごめん、待たせちゃったね」
「そうよ、もう迎えに来ないかと思ったわ」

 きつく抱きしめて互いの体温を感じるうちに、この五年の欠乏が満ちていく。死ぬ前に一目会いたいと願った相手と結婚できるのだ。溪蓀シースンは、己の身に起きた幸福にしばし身を任せる。
 そこに、藍珠ランジュが声をかけてきた。

「お姉ちゃんと景海ジンハイさん! 二人っきりで盛り上がらないでよ、結婚式これからでしょ!」

 周囲の冷やかしどころか呆気にとられた空気に、溪蓀シースンはその場から逃れようと花婿の肩を押した。浩海ハオハイの苦笑がこぼれる。花嫁は、婚儀が終わるまで顔を露わにしてはいけないという決まりがあるが、今はそれがありがたい。

 北側の正房にしつらえられた祭壇の前、二人ならんで叩頭礼をおこなう。碧霞へきか元君に捧げられたリンゴや梨が目にも鮮やかで、邪気を払う桃のお香も甘く心地よい。祝詞のりとをそらんじて、永遠の愛を誓うのにためらいはなかった。少し前まで憂鬱な気持ちでいたのが、嘘のようだ。

 宴席で、浩海ハオハイ溪蓀シースン蓋頭ベールを外した。彼女の視界は明瞭になる。かつては野菜を植えていた中庭には花で飾った宴席がもうけられ、今日のために雇った料理人が子豚の丸焼きをはこんできた。鶏の蒸し焼きや鹿肉の炒め物。エビ蒸し餃子にフカヒレとカニのスープ。最初の料理がそろったところで、花婿の父が乾杯の音頭を取り、二人を祝福してくれた。
 集まったのは溪蓀シースンの家族と、屋敷を提供したヤオ財寿ゼゾウ浩海ハオハイ側の客は、彼の父と兄の一家。それから、千花チェンファの両親だった。

 食事が始まり、溪蓀シースン浩海ハオハイに手を引かれ、挨拶に回った。
 浩海ハオハイの父親は隠居生活を楽しみながら政治塾を開いて、後進の育成に努めているそうだ。溪蓀シースンは「愚息を頼みます」と頭をさげられ、ただただ恐縮した。
 厳めしい顔立ちの兄の吏部尚書だが、口調は意外と穏やかだった。何より、弟を大事に思っているのが伝わってくる。「今度、うちにもいらしてね」と朗らかに笑う奥方はまだ若く、共に十歳くらいの二人の息子は礼儀正しく可愛いかった。
 
 次は千花チェンファの両親だ。二人は娘の頼みで浙江から北都ベイドゥに越してきていて、浩海ハオハイが郊外に買った小さな屋敷で畑仕事をしながら、三人で暮らしているそうだ。千花チェンファの優しく穏やかなところは二人から継いだと納得する、気持ちの良い人たちだった。きっと、四人で始める新しい生活もうまくいくだろう。
 溪蓀シースン妃嬪ひひんであった自分が浩海ハオハイの嫁として歓迎されないかと心配したが、温かく迎えられてホッとした。

 最後は、溪蓀シースンの実家の面々だ。両親と藍珠ランジュと弟の青行チンシン。四人ともこの数奇な結婚を祝福してくれる。初めて会う財寿ゼゾウは大きな体に人好きのする笑顔の持ち主。溪蓀シースンは感謝の念しか湧いてこなかった。妹を娶い、そのうえ改装した屋敷にその家族を住まわせてくれるのだから。親子ほど年の離れた財寿ゼゾウなら、姉から見て少々軽はずみな言動をとる藍珠ランジュを上手くコントロールしてくれるに違いない。
 溪蓀シースンは、妹の耳許で抗議する。

「どうして、浩海ハオハイさんのこと、教えてくれなかったのよ。さんざん悩んだこっちがバカみたいじゃない」 
「だって、いつもお姉ちゃんにやられっぱなしなんだもん。口止めされていたのもあるけど、たまには仕返ししてもいいでしょ」
「あんたって子は……」

 眉をしかめると、藍珠ランジュはいたずらっぽく笑う。

「それに、これからはお姉ちゃんも景海ジンハイさんって呼ばないとね」

 浩海ハオハイ景海ジンハイで通しているなら、確かに溪蓀シースンもそうしなければならない。
 ふと、前庭の方角が騒がしいことに気がついた。財寿ゼゾウ藍珠ランジュが出迎えたのは、商人姿の賢宝シアンバオ千花チェンファ。同じように番頭姿のディン内侍が同行し、中庭には次々と祝いの品が運ばれる。

 溪蓀シースン達ももちろん驚いたが、主君が現れ宴席どころではなくなった財寿ゼゾウ浩海ハオハイの父と兄を「よい、よい。今日のは商人だ」となだめすかす賢宝シアンバオの姿が何やら微笑ましい。互いの挨拶が終わると、賢宝シアンバオ千花チェンファの両親と卓を囲んで会話を楽しみ始めた。

――ああ、よい日だわ。

 溪蓀シースンは雲を見上げる。飼われた鳥が恋しがるように、金赤の高い壁ごしに見上げていた青空は、今見る景色と何も変わらない。前も悪くない。そう思えるのは、これからとても幸せな毎日が待っているからだろう。
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