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第三章

61.卓上のお茶(2)

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 いつの間にか、英明インミン宮の庭にアヤメの花が咲いている。入内して五年目、まさかこんな幕引きを迎えることになろうとは思いもしなかった。

「泣き暮らしてるって聞いたけれど、思ったより元気そうだね。安心したよ」
藍珠ランジュ」 

 英明インミン宮で持ち出すものの仕分けをしている最中、妹の訪問を受けた。溪蓀シースンは、長持ちに着物を詰める宮女たちに声をかける。

「一息つきましょうか」 
「はい、恵嬪様」

 宮女たちは藍珠ランジュの訪問を喜んで、早速お茶の準備を始めた。妹の裏表のない性格は、後宮という複雑怪奇な世界では思いの外歓迎されているようだった。
 その藍珠ランジュが長持ちの大きさを見るなり、素っとん狂な声を上げた。
 
「えっ!? 持ち物これだけ? 少なくない?」
「そうよ。先方がどうなっているかわからないもの。たくさん持っていても置く場所がないと困るでしょ?」
「ふーん。ま、いっか。そんなことより、危うくお姉ちゃんと旦那様を共有するはめになるところだったよ」

 突然の告白に、溪蓀シースンは眼を白黒させる。賢宝シアンバオから聞いた朝議の様子を反芻してみて、眼を見張った。

「あら、じゃあ。姚則寿ヤオゼゾン様が妻にしたい相手って、藍珠ランジュのことだったの? この短い間に何があったのよ? まさかいかがわしい手を使ったんじゃないでしょうね」
「ふふふ。内緒。お姉ちゃんのほうが落ち着いたら、また話すよ」
 
 その笑顔ときたら、妹ながら雨露に濡れるアジサイのように美しい。溪蓀シースンは祝福の言葉をかけると同時に、想う人と夫婦になれる藍珠ランジュを羨ましく思った。これから一人の男に嫁ごうというのにその羨望はなんだろうと思うものの、溪蓀シースンにはすべてが憂鬱なのだ。

「……ねぇ、藍珠ランジュ李浩海リーハオハイさんが、今どこにいるか知らない?」

 茉莉花茶を美味しそうに飲んでいた妹は、難しい顔で首をかしげた。

李浩海リーハオハイ? 誰だっけ?」
「李尚書様の弟君よ。藍珠ランジュは『わかさま』って呼んでいたでしょう」
「あー、いたねー。昔、お姉ちゃんのおっかけしてた人でしょ? お姉ちゃんに何言われても、いっつもへらへらしてたよね」

 手酷い評価に、溪蓀シースンは頭を抱える。

「あなたの命の恩人よ」
「えー、全然聞いたことないね。 あれから一度も見てないよ」

 残りの桃饅頭を一口で平らげ、妹は茉莉花茶でそれを流し込んだ。次いで、姉に疑惑の視線を向ける。

「お姉ちゃん、あの赤い上着、本当にその、李浩海リーハオハイさんに作ったの?」
「違っ……」

 否定するそばから、顔が火照る。これでは誤魔化しようがない。つくづく自分は嘘が下手だと再認識させられる。藍珠ランジュは腕を組んで、大きな溜息をこぼした。

「その人とどれだけ一緒にいたの? お姉ちゃんが入内した後、何かしてくれた? 陛下や千花チェンファより、その人が大切なの?」

 彼女は、それに答えられなかった。たしかに、顔を合わせたのは数える程度。付き合いの範疇はよくいっても友人で、恋人らしいことをしたのは口づけと抱擁を受けたあの一瞬だけ。そして、相手は今どこで何をしているかもはっきりしないのだ。

「でも……」

『迎えに行くよ、待っていて』

 こちらが忘れよう、諦めようとする頃、気まぐれのように夢のなかで囁いて。当たり前のように溪蓀シースンの心に居座っている。彼女の心に隙間なく居続ける浩海ハオハイへの想いは、五年経った今も他の誰一人として受け入れられなくしている。

 会いたい、会いたい。ただ会いたい。
 黙り込んでしまった姉に対し、藍珠ランジュが何度目かのため息をこぼす。

「今まで黙ってたんだけど、財寿ゼゾウ様、うちを買うお金が足りなくて、知り合いの景海ジンハイさんに立て替えてもらったそうだよ。だから、財寿ゼゾウ様、今一生懸命お金を返している最中なんだ」
「そうなの? じゃあ、我が家の権利書をもっているのは、勇景海ヨンジンハイ様なの?」

 これは驚くべきつながりだった。

「うん。利子をとる代わりに景海ジンハイさんは、財寿ゼゾウ様に武術の稽古をつけてもらってるよ。でもねー、まだ一度も財寿ゼゾウ様から一本取ったことないけどね」
「文官なのに、どうしてそんなこと。必要ないでしょう?」

 藍珠ランジュは茉莉花茶を飲み干すと、ゆっくりと窓の外に視線を移す。
 
「お姉ちゃんを守りたいからじゃないかな? 普段何でも出来ますって澄ましてるけれど、財寿ゼゾウ様にコテンパにされても食らいつく姿を見せられると、グッときちゃうかも。わたしは景海ジンハイさんがお姉ちゃんのお婿さんになってくれるなら、嬉しいよ」

 溪蓀シースンも立ち上がって、庭のアヤメに視線を向けた。色鮮やかで凛々しくて、だというのにどこか儚い印象を人に与える。そんな風に生きたいと願っていたが、現実は難しい。

「そんなにいい人なら、わたしではなく他の人にその情熱を向ければいいのに。若くて綺麗で未婚のお嬢さんはいくらでもいるわ。一度文を交わしたぐらいで、わたしの何が分かるのかしら?」

 烈女だの猟犬だのと呼ばれても、気にも留めなかった。誰かに守って欲しいなんて、一度だって願ったこともない。

――そう、浩海ハオハイ以外は。

「わたし、そんなにやわじゃないわ」
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