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第三章

60.卓上のお茶(1)

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溪蓀シースンはその話を聞き、首をかしげた。
 勇景海ヨンジンハイと文をかわしてから一年以上経っている。ニオイアヤメの薫りは、とっくに消えているはずだ。新たに文を香にくぐらせることだが、知らない人間にそこまでされて、正直嬉しさより気味の悪さを覚えた。

 坤寧クゥンニン宮に呼ばれたのは、彼女が謹慎を命じられてから二日後。賢宝シアンバオは菊花茶を飲んだあと、ふっと息をもらす。万緑の庭に、まぶしいばかりの日光が差していた。

「病人に仕立てて、すまなかったな」
「それはかまいませんが、わたしが泣き伏せていると皆さんが納得されたでしょうか?」

 ヤオ内侍少監の興奮した鼻息を思い出すと今でも恐怖に身がすくむが、さすがに人生をはかなもうとは思わなかった。
 賢宝シアンバオの隣には亮圭リャングイを抱く千花チェンファがいて、二人のやり取りを見守っている。

恵嬪けいひんが他人を気にするとは珍しいな。言いたい輩には言わせておけばいい」
「……わたしは、まだ裁きを受けておりません。もしや、宮中から出されること自体が罰なのですか? それなら、何も嫁がなくても」

 納得のいかない溪蓀シースンに、賢宝シアンバオが苦笑いする。

「余も千花チェンファも、そなたの幸せを心から願っている。その気持ちに偽りはない。いまはそれで充分ではないか」 
「失礼ながら、皇后さまのお兄様にお会いしたことはありませんが」
「そなたが余に嫁いだ時も、そうであった」

 そう言われては、返す言葉もない。入内のときと同じ、周囲の思惑に翻弄され、すべてが自分を通りこして決められていく。高官たちの前で繰り広げられたやりとりを当の溪蓀シースンが、白紙に戻す選択肢などないのだ。ここで子供のようにごねてもくつがえらない。

――しかたがない。
 
「つつしんでお受けいたします」

 その場で膝を折って礼を執ると、賢宝シアンバオは満面の笑みを浮かべた。

「受けてくれて、余は嬉しい。勇景海ヨンジンハイは実に良い男だ。何よりそなたに惚れこんでいる」

 それまで固唾をのんで見守っていた千花チェンファが、大きく息を吐いた。そして、賢宝シアンバオにうながされて、亮圭リャングイを夫の腕にゆだねる。

溪蓀シースン様、よく決心してくださいました。早速、兄に伝えましょう。溪蓀シースン様はわたしのお義姉さまですね。こんなに嬉しいことはありません」

 小柄な皇后は、溪蓀シースンに抱き着いてきた。その嬬裙から、甘味とほろ苦さがまざった薫りがふわりと漂う。それが皇帝愛用の伽羅きゃらの香だと気づいたとき、溪蓀シースン千花チェンファの存在をとても遠く感じた。勇景海ヨンジンハイに嫁がせようという二人の心中が、溪蓀シースンには全く分からなかったのだ。

「次は、溪蓀シースン様が幸せになる番です」

 花のように晴れやかな笑顔を向けられ、心が痛んだ。

※※※※※

 坤寧クゥンニン宮を出てから、毎日がとても忙しかった。
 まずは、摂政を辞して肩の荷が下りたとばかりの皇太后に挨拶を済ます。その後は一日に何件も、妃嬪たちの宮を回らなければなかった。石黄の事件のわだかまりも解け、彼女たちは温かく溪蓀シースンの門出を祝ってくれる。なかには、勇景海ヨンジンハイに嫁ぐ彼女を羨ましいと、冗談を言う嬪までいたのだ。溪蓀シースンは笑って聞き流したが、内心では「だったら、代わってあげましょうか?」と呟いていた。
 
 その日、ワン貴妃のあとに長福チャンフ宮の新しい主となったリー貴妃が、白牡丹のお茶を振る舞ってくれた。干し草のような優しい香りが気持ちを落ち着かせてくれる。リー貴妃が、これは口止めされているのですがと、茶色の横髪を払う。

ヨン皇后さまは後宮に戻るなり妃嬪を一人ずつ訪ねて、ホワン恵嬪様に姦淫の罪などないのだから、後宮が一丸となって擁護するようにと説得されました。恵嬪様が持っていた深衣は、皇后さまが勇景海ヨンジンハイに送るための依頼品だそうですね」
「皇后さまが、まさか。全く知りませんでした」

 だから、溪蓀シースンの罪は無かったことにされたのだ。少しもそんなことを漂わせなかった千花チェンファに頭が下がる。溪蓀シースンが知らないうちに、自分の力で後宮をまとめていることに驚きを禁じ得なかった。黙り込んでしまった溪蓀シースンに、リー貴妃は茶色い瞳を和ませる。

ホワン恵嬪様は、ヨン皇后さまに愛されていますわね」

 はいともいいえとも答えにくい言葉を投げかけたあと、青絵の湯呑を卓子に置いた。

イエ皇貴妃さまは、わたしたちと違って石黄の件とは無関係でした。そのせいか、協力をひどく渋られて、交換条件に陛下のお渡りを所望されたのですよ。それに対して、ヨン皇后は『あなたが陛下に何を仕掛けられようとも自由です。でも、わたしから陛下を譲ることはありません』と、きっぱりおっしゃいました。イエ皇貴妃さまは天竺渡の絹の反物を受け取ることで、最終的に了承されましたが。皇后さまは、見かけによらず強かな方ですね」
「最初は可愛い生徒でしたが、あっという間にわたしを追い抜かしてしまいました」

 賞賛はあれど、妬ましくはなかった。自分と千花チェンファは植物に例えるなら、苔と大樹ぐらい違っている。当初は自分が教え導かねばと奮起したが、それも遥か昔のように感じた。

「その話を聞いて、わたしもヨン皇后さまをお支えしたいと思いました。ホワン恵嬪様のようにできるかは分かりませんけれど」
リー貴妃様にそう言っていただけるなら、わたしも安心して去ることができます。お三方を宜しくお願いいたします」

 溪蓀シースンは頭を下げる。千花チェンファは孤独になりがちな皇后の位にあって、強力な理解者も出来た。もう、後宮ここでの自分の役目は終わったのだと、ほろ苦く思う。
 ふと気になって、李貴妃の顔に視線を向けた。

「李貴妃さまのご実家は、李尚書の縁続きなのですか?」

 すると、彼女は餅のような頬をたゆませ、ころころと笑う。
 
「いいえ、まさか。わたしの一家は、敗戦地から連れてこられた奴婢でした。この異国の容貌に興味を示した商人が、わたしを養女にしました。実の家族はわたしの禄で自由民の身分を買いましたわ」
「それは存じ上げませんでした」

 まだ若く柔和な表情の裏に、そんな過去を隠し持っていたとは気がつかなかった。

「今は豊かな生活がおくれて、感謝しております。一口に妃嬪といっても、わたしたちが入内した理由は様々です。ワン貴妃様のように栄華を求めた者、ホワン恵嬪様やわたしのように生活のために入内した者」

 リー貴妃は、そこでいったん言葉を置いた。窓から入る優しい風が、被帛ひれをなびかせる。

「ですが、この狭い箱に閉じ込められたせいでしょうか。次第に誰も彼も、陛下の寵を得ることばかり考えるようになりました」
「それが妃嬪の役目ですから、仕方がないことです」

 言い切った溪蓀シースンに向けられるリー貴妃の瞳は、羨望に満ちていた。

ホワン恵嬪様は違いました。わたし達が容易に絡み取られてしまった後宮の妬み嫉みも、あなたを素通りするばかり。後見人もおらずお渡りもないのに、他人の陰口を一顧だにしませんでした。わたしたちの目を覚まさせるために、毒をあおったあなたのお姿を一生忘れることがないでしょう。どうしてそんなことができるのか、ずっと不思議に思っておりました。でも、今回のことでやっとわかりましたわ。最初から恵嬪様の一番大切なものは、後宮の外に置いてきたのですね」
「後宮の外……」

 そうかもしれない。自分の意志で入内したにもかかわらず、願いはいつも浩海ハオハイに会うことだった。動じないというより、後宮のなかでの自分の立ち位置に無関心だったのかもしれない。
 そんな彼女に、リー貴妃は優しい言葉をかけた。

ホワン恵嬪様のお幸せを願っております。皇后さまの義姉になられるのでしたら、後宮を訪ねることもありましょう。お会いできる日を楽しみにしております」
「……ありがとうございます」

 勇景海ヨウジンハイに嫁ぐ話は、彼女の心を置きざりにどんどん進んでいる。十二人いる妃嬪の一人ならまだしも、勇景海ヨウジンハイのたった一人の妻になるのに、夫に無関心を貫くことはどう考えても不可能だ。
 溪蓀シースンは息苦しさから逃れるために、窓の外に視線を向けた。
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