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第三章
55.フェティシズム(1)
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英明宮に戻ると、思いもしない事態が待ち構えていた。
姚内侍小監という、五十絡みの宦官が背中を丸めて待っていたのだ。丁内侍の上司に当たり、内侍省の幹部だ。
贅肉の塊としか例えようのないたるんだ腹が妙な威圧感を与えている。だが、この体型は浄身した男性にはつきもので、本人のせいとばかりは言えない。並の女性より美しい、丁内侍が特別なのだ。
問題はそこではなく、彼が十人程度の武装した兵士を引き連れていることだった。彼らが構える槍先の鈍い光に、宮女たちが怯えているではないか。
「姚内侍少監、これは一体どういうことですか?」
「黄恵嬪様。失礼ながら、あなたさまには姦通の容疑が掛かっております」
予想もしない言葉を理解するのに、数秒かかる。
「……姦通?」
「そうです」
「わたしが、誰と?」
姚内侍少監は、宦官にありがちな卑屈な笑みを浮かべる。それはまるで、日頃虐げられている者が、自ら虐げるべき対象を見出した時のようだった。
「先日、宮闈局宛に匿名の告発がありましてな。黄恵嬪様は、妙なものを隠し持っているそうですなぁ。部屋を改めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
図々しい申し出に、女官が抗議する。
「いくら内侍少監様といえ、恵嬪様を取り調べるなど、陛下のお赦しあってのことですか!?」
「馬女官、いいわ」
「しかし、恵嬪様!」
宦官たちに部屋を荒らされるなど嫌に決まっているが、嫌疑を晴らすためなら仕方がない。溪蓀は相手の眼を真っ向から見すえた。
「好きになさい。そのかわり何も出てこなかったら、内侍監に報告します」
「出てきた時のあなたの顔がじつに楽しみですな。果たして今のような強気でいられるかどうか」
姚内侍少監は首の下に溜まった脂肪を揺らしながら、確信的に言う。溪蓀の心にいら立ちが募った。内侍少監は従四品上、正二品の彼女の方が遥かに高位なのに、舐めてかかる態度がまたしゃくにさわる。
英明宮の書斎の中央に、溪蓀たちは集められた。二人が監視し、残りの兵士たちは衣装室の扉や箪笥のひきだしを手荒に開けていく。宮女たちはこわごわと身を寄せ合い、馬女官は肩を怒らせた。
彼らの探し物が明確な形を持っているのは明らかだった。疑われて困るのは、千花の兄・勇景海と交わした文ぐらいだが、そんなものはとっくの昔に焼いてしまった。いったい彼らは何を探しているのやら。
やがて、溪蓀の寝台の下を調べていた兵士が声を上げる。
「内侍少監、ありました!」
運ばれてきたものを見て、溪蓀は息を詰まらせた。
――浩海さんに縫った深衣!
「『身の丈六尺用の深衣、赤地に大きな白梅の刺繍』。告発通りだ。丁游莞の奴め、側室可愛さに出し渋りおって」
内侍少監の呟きから、丁内侍が届いた告発文を上司にあげなかったことを知った。優しい彼がお目こぼしをしてくれていたことに感謝する一方、あんなものまで姦通の証拠にあげられてしまうのかと、後宮の陰湿さに改めて驚く。
――落ち着いて。落ち着くのよ、溪蓀。たしか、姚内侍少監は、謝皇后の後見人だった姚家の出身。党首が失脚した原因をつくったわたしに復讐したいのよ。
「陛下がお召しになるには、ちと大きすぎるようですな。これでもしらを切るおつもりで?」
「恥ずかしながら、入内するまえのわたしは縫製を家計の足しにしておりました。今でも頼まれれば、引き受けております」
内心の動揺をひた隠して涼しい顔で振る舞う溪蓀。彼女を嘲笑うように、姚内侍少監が尋ねる。
「これも依頼品だと?」
「もちろんです。贈答用に男性物を頼まれることもあります」
「では、誰の依頼品ですか?」
「……それは」
とっさに嘘が浮かんでこなかった。姚内侍少監が、鬼の首を取ったようにニヤリと笑う。
「依頼人もいないのに、このように手の込んだものを縫って、想われる男は幸せでしょうが、打ち首が待っているなら羨ましくもありませんな」
「丁内侍なら、そのように無礼なことは申しませんよ! せめて、恵嬪様の取り調べはあの方にお願いしたいです! どちらにいらっしゃるのですか!?」
馬女官に遥か年下の部下の名をあげられ、姚内侍少監の顔が不気味に歪んだ。丁内侍の名は、この宦官には鬼門だったらしい。
「内侍は勇皇后殿下の護衛中で、馬球の修練場だ。それがどうした! わしの方が、奴より偉いのだぞ! わしの言うことを聞け!」
それが合図であったか、兵士たちが溪蓀を取り囲みはじめる。引き離された馬女官たちの顔が恐怖で歪んだ。溪蓀は唇を噛んで、取り押さえようとする兵士たちをねめつける。
「手を離しなさい。わたしは陛下の側室です。自分の脚で参ります」
「ははは、勇ましい方だ。その強気がいつまで続きますかな」
姚内侍少監は、頬についた脂肪の塊をたゆませた。その笑いの不気味さに腹の底が冷たくなる。溪蓀は悪い予感しかしなかったが、子ウサギのように怯える様をみせるほど、自分のプライドは低くないのだ。
姚内侍小監という、五十絡みの宦官が背中を丸めて待っていたのだ。丁内侍の上司に当たり、内侍省の幹部だ。
贅肉の塊としか例えようのないたるんだ腹が妙な威圧感を与えている。だが、この体型は浄身した男性にはつきもので、本人のせいとばかりは言えない。並の女性より美しい、丁内侍が特別なのだ。
問題はそこではなく、彼が十人程度の武装した兵士を引き連れていることだった。彼らが構える槍先の鈍い光に、宮女たちが怯えているではないか。
「姚内侍少監、これは一体どういうことですか?」
「黄恵嬪様。失礼ながら、あなたさまには姦通の容疑が掛かっております」
予想もしない言葉を理解するのに、数秒かかる。
「……姦通?」
「そうです」
「わたしが、誰と?」
姚内侍少監は、宦官にありがちな卑屈な笑みを浮かべる。それはまるで、日頃虐げられている者が、自ら虐げるべき対象を見出した時のようだった。
「先日、宮闈局宛に匿名の告発がありましてな。黄恵嬪様は、妙なものを隠し持っているそうですなぁ。部屋を改めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
図々しい申し出に、女官が抗議する。
「いくら内侍少監様といえ、恵嬪様を取り調べるなど、陛下のお赦しあってのことですか!?」
「馬女官、いいわ」
「しかし、恵嬪様!」
宦官たちに部屋を荒らされるなど嫌に決まっているが、嫌疑を晴らすためなら仕方がない。溪蓀は相手の眼を真っ向から見すえた。
「好きになさい。そのかわり何も出てこなかったら、内侍監に報告します」
「出てきた時のあなたの顔がじつに楽しみですな。果たして今のような強気でいられるかどうか」
姚内侍少監は首の下に溜まった脂肪を揺らしながら、確信的に言う。溪蓀の心にいら立ちが募った。内侍少監は従四品上、正二品の彼女の方が遥かに高位なのに、舐めてかかる態度がまたしゃくにさわる。
英明宮の書斎の中央に、溪蓀たちは集められた。二人が監視し、残りの兵士たちは衣装室の扉や箪笥のひきだしを手荒に開けていく。宮女たちはこわごわと身を寄せ合い、馬女官は肩を怒らせた。
彼らの探し物が明確な形を持っているのは明らかだった。疑われて困るのは、千花の兄・勇景海と交わした文ぐらいだが、そんなものはとっくの昔に焼いてしまった。いったい彼らは何を探しているのやら。
やがて、溪蓀の寝台の下を調べていた兵士が声を上げる。
「内侍少監、ありました!」
運ばれてきたものを見て、溪蓀は息を詰まらせた。
――浩海さんに縫った深衣!
「『身の丈六尺用の深衣、赤地に大きな白梅の刺繍』。告発通りだ。丁游莞の奴め、側室可愛さに出し渋りおって」
内侍少監の呟きから、丁内侍が届いた告発文を上司にあげなかったことを知った。優しい彼がお目こぼしをしてくれていたことに感謝する一方、あんなものまで姦通の証拠にあげられてしまうのかと、後宮の陰湿さに改めて驚く。
――落ち着いて。落ち着くのよ、溪蓀。たしか、姚内侍少監は、謝皇后の後見人だった姚家の出身。党首が失脚した原因をつくったわたしに復讐したいのよ。
「陛下がお召しになるには、ちと大きすぎるようですな。これでもしらを切るおつもりで?」
「恥ずかしながら、入内するまえのわたしは縫製を家計の足しにしておりました。今でも頼まれれば、引き受けております」
内心の動揺をひた隠して涼しい顔で振る舞う溪蓀。彼女を嘲笑うように、姚内侍少監が尋ねる。
「これも依頼品だと?」
「もちろんです。贈答用に男性物を頼まれることもあります」
「では、誰の依頼品ですか?」
「……それは」
とっさに嘘が浮かんでこなかった。姚内侍少監が、鬼の首を取ったようにニヤリと笑う。
「依頼人もいないのに、このように手の込んだものを縫って、想われる男は幸せでしょうが、打ち首が待っているなら羨ましくもありませんな」
「丁内侍なら、そのように無礼なことは申しませんよ! せめて、恵嬪様の取り調べはあの方にお願いしたいです! どちらにいらっしゃるのですか!?」
馬女官に遥か年下の部下の名をあげられ、姚内侍少監の顔が不気味に歪んだ。丁内侍の名は、この宦官には鬼門だったらしい。
「内侍は勇皇后殿下の護衛中で、馬球の修練場だ。それがどうした! わしの方が、奴より偉いのだぞ! わしの言うことを聞け!」
それが合図であったか、兵士たちが溪蓀を取り囲みはじめる。引き離された馬女官たちの顔が恐怖で歪んだ。溪蓀は唇を噛んで、取り押さえようとする兵士たちをねめつける。
「手を離しなさい。わたしは陛下の側室です。自分の脚で参ります」
「ははは、勇ましい方だ。その強気がいつまで続きますかな」
姚内侍少監は、頬についた脂肪の塊をたゆませた。その笑いの不気味さに腹の底が冷たくなる。溪蓀は悪い予感しかしなかったが、子ウサギのように怯える様をみせるほど、自分のプライドは低くないのだ。
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