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第三章

54.亮圭

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 御花園ユイホアユエンの池に張った氷が解けるころ、千花チェンファが元気な男の子を出産した。亮圭リァングイと名付けられた皇子は、ながらく後継者不在であった王室を喜ばせ、梓禁城ジージンチェンを喝采にわかせた。

 全国に届けられた皇子誕生の吉報は、残寒の国土に一足早い春の息吹を吹き込み、天下泰平の御代を称える声はさらに高まった。押しも押されもせぬ国母となった千花チェンファはその一月後、晴れて立后の式にのぞむ。
 
 千花チェンファは鳳凰が仲睦まじくならぶ青い翟衣をまとい、百余個の宝石と数千粒の天然真珠のついた鳳冠をかぶっていた。初々しい少女のおもてにゆるぎない芯の強さを瞳に宿し、まっすぐに歩んでいる。

 対する賢宝シアンバオは、極細の金糸を編んだ冕冠べんかん、両袖に雄々しく舞う龍の刺繍のはいった黒褐色の冕服。五年まえの冊立式ではあどけなかった貴人も今や、自らの治世に対する情熱と気概を放つ、威風堂々とした帝国の主であった。

 石畳とその向こうのきざはしには長細い緋毛氈ひもうせんが敷かれ、保和パオホー殿の祭壇まで導く。両端を儀仗兵に守られ、その真後ろにて文武百官が首を垂れていた。蒼天に映える瑠璃瓦のもと、祭壇の前でふたり、額を地につけて拝礼する。千花チェンファが重たい鳳冠を落とさぬよう、女官二人の介添えを受けていた。

 側室の末席に加わる溪蓀シースンは、我が事のように感無量であった。この一年を振り返り、自然とこぼれる涙を指の腹で拭う。

 浙江訛りの強い、大きな瞳が印象的な少女。お人よしでおっちょこちょいで、意外に頑固なところがある。千花チェンファの精神は、若木のようにすくすくと伸びた。賢宝シアンバオに愛され、母になり、後宮を統括し、いずれ大樹となって国民くにたみを慈悲の心でつつむむだろう。

※※※※※

 その日、皇后の住まいたる坤寧クゥンニン宮は、妃嬪ひひんや女官たちの声で華やいでいた。

「さあ、亮圭リァングイ様。これですっかり、気持ち良くなりましたね」

 長い袖をたすき掛けにして、赤子のおむつを取り換える溪蓀シースン。生後一か月の皇子は、鼻にしわを寄せて大きなあくびをする。子供用の寝台を取り囲んでいた女官や宮女たちは、ほぉ、と至福の声をもらした。

「まぁ、可愛らしいこと」
「陛下にそっくりのきれいな額で、肌は真っ白で髪は黒々としていらっしゃいます」
「あら、つぶらな瞳は皇后さま似ですよ」

 十七年ぶりに御子が誕生したとあって、後宮では亮圭リァングイへの拝謁者が途絶えることがない。初孫に喜ぶ皇太后は云うに及ばず、妃嬪や女官たちにも皇子の人気は絶大であった。

 一方、その親たちはと言うと。
 久しぶりに休みのとれた賢宝シアンバオは、千花チェンファを伴って馬球ポロの試合に繰り出している。子煩悩な千花チェンファは、外出するなら亮圭リァングイも一緒にと言い張るものの、馬球ポロの運動場など埃っぽいところに乳飲み子を連れて行けるはずがありません、とチャオ女官に押し切られ、泣く泣く置いていったのだ。

「皇后さまも最近は、亮圭リァングイ様の世話と、皇太后さまの講義に忙殺されていらっしゃるわ。ご夫婦の時間も取れず、陛下はきっとお寂しかったのよ」 
「皇子様がお生まれになって、ご寵愛は冷めるどころか益々増していますね。ですが、陛下が馬球ポロを好まれるとは知りませんでした」
「そういえば、そうねぇ。書を読むのがお好きとは存じていたけれど、それ以外のものは聞かなかったわね」

 溪蓀シースン女官が話していると、情報通な宮女が口をはさんできた。

「なんでも、皇后さまの兄上の影響だそうですよ。最近、良くお召しになっているそうです。勇景海ヨンジンハイ様は伝球パスを回すのが上手で、陛下はそれは気持ち良い射門シュートを決められるとか。陛下の組はいつも圧勝だそうです」
「まあ、浙江の田舎で馬球ポロなど習えましたっけ? わたしも似たような出身ですけれど、馬球ポロをたしなむ庶民なんて聞いたこともありませんよ」
「これ。その発言は皇后さまにも失礼ですよ」

 女官がぴしりと言うと、宮女たちは慌てて謝罪を口にする。
 溪蓀シースンが赤子を抱き上げると、もみじのような小さな手が伸ばされた。

「あー。ぷー」

 彼女が表情を作ると、亮圭リァングイが笑い声をあげる。一方の女官と宮女たちは、相変わらず今や時の人となった新皇后の兄の話題に夢中であった。

「戸部省きっての切れ者だそうです。お顔も凛々しく、まだ独身だとか。わたしたち、宮女のあいだでも噂になっています」
「わたし、この前、外廷でお見掛けしました。たしかに騒がれるのも無理のない美貌でしたよ。男性なのに華やかで、まるで藍采和ランツァイフォみたいでした」

 うっとりと宮女が言う。溪蓀シースンは首の座っていない赤子を唇を何度もすぼめるのを見て、腕のなかで優しく揺すった。

亮圭リァングイ様、そろそろおねんねしましょうか?」

 そこで、女官がふぅっと溜息をもらす。

「でも、残念なこと。いくら仕事ができて陛下のお気に入りでも、皇后さまのご家族では出世の道は閉ざされていますからね」

 『皇后に実家なし』とは良く云ったもので、今王朝は徹底して外戚を排除していた。皇帝が政治に無関心になると、外戚が好き勝手に政治を動かした過去の歴史を教訓にしている。だから、妃嬪ひひんは庶民から選ばれるのが習いだ。千花チェンファの兄には、突然の妹の大出世が自身に吉と出るか凶と出るか、わからないのだ。

 溪蓀シースンはうとうととしてきた皇子の様子に、女官たちをたしなめる。
 
「シィー。そろそろお休みの時間よ」
 
 皇子そっちのけで、噂話に花を咲かせていた面々は、きまり悪げに顔を見せ合った。
 口をすぼめてチュパチュパと音を立てる亮圭リァングイ。授乳がたりないのかと伺っていると、皇子はほどなくして眠りに就く。溪蓀シースンがそうっと皇子を寝台に寝かせるのをみて、女官たちは詰めていた息を吐いた。

「お眠りになったわね。わたしたちも下がりましょうか?」

 後ろではべっていた乳母に後を任せると、一団はひっそりと坤寧クゥンニン宮を後にした。帰途、少し後ろを歩く女官が、話しかけてくる。

恵嬪けいひん様は、赤子に慣れておいでですね」

 ふふっと、溪蓀シースンは笑みを浮かべた。屈原を悼む端午節は、もう間近い。春風を受けながら、頬にかかった髪を払う。

「弟の青行チンシンとは、十歳とう離れているのよ。母が忙しく働いていたから、世話をするのはわたしの仕事だったわ。それにしても、亮圭リァングイ様は本当に愛くるしいこと。これからの成長が楽しみだわ」

 そこに多少の寂寥がひそんでいると、当の本人は気がついてなかった。女官は、思案気な顔で溪蓀シースンにしか届かない声で言う。

「恵嬪様も御子が欲しいのですね」

 彼女はその問いに応えなかった。しかし、この場合黙秘こそが肯定だ。
 自分の子はとうに諦めたが、千花チェンファの子をあやし、いずれ藍珠ランジュ青行チンシンの子を胸に抱くのかと思えば、溪蓀シースンの心に温かなぬくもりが宿る。
 女官はしばらく黙り込んだのち、思わぬことを口にした。
 
「差し出がましいとは思いますが、一度皇后さまにお願いしてみては如何でしょう? 皇后さまは恵嬪様に大変な恩がおありですし、そもそもあなた様は嬪なのですから、陛下から寵愛をいただく権利がございます」 
「それは……」

 女官の言い分は後宮の常識としてはおかしくないかもしれないが、溪蓀シースンの辞書にはなかった。恩を笠に着て友人に寵を分けてもらうなどと、愛し合う二人に申し訳がないし、何より自分がむなしい。

「気持ちはありがたいけれど、その話はよしましょう」

 言い切って前を向くと、女官もそれ以上は触れてこなかった。
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