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第二章
51.霧の御花園(2)
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華蝶の挑発に、溪蓀は一向に乗る気がしなかった。賢宝と共寝していなかったからこそ、余計な感情に惑わされず千花の守り人でいられるのだ。だから、何も恥じることはない。
そんな彼女の心境など知らずして、華蝶は相変わらず、ネズミをいたぶる猫の様な表情を浮かべていた。
「お可哀想に、謝皇后さまはひどく悩んでいらっしゃったわ。妃嬪の筆頭なのに、四年も子供を授からないんだもの、後見役の姚家の当主から相当な重圧をかけられていたのよ。そのうえ、あんたの侍女が来た途端、このままお通いがないなら切り捨てると脅されたのよ。勇安嬪の兄を囲おうとしたのに断られてしまって、丁度虫の居所が悪かったんでしょうね。神経の細い謝皇后さまは、それはもう追い詰められて安嬪を呪い殺さんばかりに憎んでいたわ」
「だから、崔瞳絹にお金を渡してまで、千花を虐めさせたのね」
溪蓀が突っ込むと、華蝶は切れ長のアイラインを湾曲させる。
「そうよ。謝皇后さまのお気持ちを忖度してね。だけど、あの子たちはやり過ぎたのよ。女の虐めは陰湿にやるからこそ、長続きするのに。よっぽど安嬪が嫌いだったんでしょうけれど」
「やっぱり、瞳絹を口封じのために殺したの? 死ぬほどの罪ではなかったわ」
すると、華蝶は何が面白いのか、くすくすと笑いだした。溪蓀は胸の内を針でチクチク刺されるような嫌な感情に捕らわれるが、それを吐き出すことも出来ず無理やり飲み込む。
「安嬪が妊娠して、結局一人勝ちだもの。このまま静観していたら、謝皇后さまは姚家に見捨てられるどころか、皇后の座に留まることも出来ないでしょ? 金物屋の看板娘が多産の家系というだけで皇后に仕立て上げられた挙句に、死ぬまで後宮に閉じ込められるのよ。市井にいれば、身分相応の幸せがあっただろうに。なんて、お可哀想なのかしら。
だから、わたしはどうすればいいか、よく考えたのよ。丁度、姚家からもしものときにと、自決用の石黄を持たされていたの。効き目が分からなかったから、ためしにあの子に飲ませたというわけ」
では、姚家が千花を殺すよう直接指示した訳ではないのだ。しかし、宮女に毒を持たせたこと自体に姚家の悪意を感じた溪蓀である。
「てきめんだったわ。崔瞳絹の死で、すっかり怯えてしまった謝皇后さまはお赦しにならなかったけれど、私の考えは間違っていないわ。その証拠に、ひょんなことから閨事の指導を始めた王貴妃さまは、わたしのお願いをこころよく引き受けてくださったわ。あの方はとても熱心な生徒さんで、わたし達は気が合うみたい。だから、後から来たのに陛下の寵愛を一気にさらう安嬪なんて、許しがたいでしょうね。殺したくなっちゃうぐらい。わたしにも、その気持ち分かるわ」
「でも、貴方の本当の目的は、わたしだった」
溪蓀が指摘すると、華蝶が何故かうっとりと虚空を見あげた。
「だって、見たのよ。あれは確かに、李浩海だったわ」
「えっ?」
「あの人、あんたの入内と同時期に北都から姿を消したのよ。あんたの入内に落胆して身投げでもしちゃったかと一時期は本気で心配していたけれど、さすがにそれはなかったわね。四年たって、ますます男っぷりに磨きがかかっていたわ。まさか、こんなところにいたとわね」
溪蓀は思わぬ展開に驚くと共に、あることに気がついた。
――この人も、浩海さんが好きなんだわ。
だから、溪蓀が毒を呑んだとき、笑ったのだ。皇后大事とばかりに高説をあげるものの、結局自分のためにしか動いていない。王貴妃に近づいたのも、勿論打算があってのことだ。どこまで行っても自分勝手な華蝶に、嫌悪感と底知れない恐ろしさを感じる。
その華蝶の声は、地を這うように低くなった。
「後宮の方角をいつまでも見ていたわ。声をかけたのに、わたしの存在に気がつきもしなかった! あげくに、おまえの名前を口にしたのよ」
それまで聞き役に徹する溪蓀だったが、その一言で人が変わったように身を乗り出した。
「浩海さんが、わたしの名前を? どこでそれを聞いたの?」
「ああ、憎らしい! どうして、お前ばかりがいい思いをするの! あの宮女のように殺してやるわ!」
溪蓀は、鬼女の形相で懐剣を取りだした。もはや、相手の言うことなど聞いていない。溪蓀はとっさに立ち上がると、杖をかまえ応戦する。その足取りにふらつきはなく、華蝶は目に見えて驚愕した。
「何よ、あんた。その杖、飾りじゃない! 手の込んだ芝居を観せてくれるわね!?」
懐剣の白刃が大きく振り上げられる。武術の心得のない溪蓀は、やみくもに杖を振り回した。運良く、懐剣が払われる。だが、運がいいのはそれまでだった。
彼女が長い杖で間合いを取るものの、相手に迫られるとつい後退してしまう。弱気な相手に蔑みを浮かべた華蝶。宮女は、突然杖の先をむんずと握りこみ、自らの脇で抑え込む。溪蓀が両手で奪い返そうとしたものの、まったく動かない。そう思った瞬間、華蝶は急に脇を開いたのだ。
「きゃあっ!」
溪蓀は派手にしりもちをつく。杖が乾いた音を立てて石畳に転がった。
「何よ、そのへっぴり腰! そんなので刃向かえるとか、わたしを見くびってんじゃないわよ!」
怒りの形相の華蝶が、彼女の頭上で懐剣を振りかぶった。
そんな彼女の心境など知らずして、華蝶は相変わらず、ネズミをいたぶる猫の様な表情を浮かべていた。
「お可哀想に、謝皇后さまはひどく悩んでいらっしゃったわ。妃嬪の筆頭なのに、四年も子供を授からないんだもの、後見役の姚家の当主から相当な重圧をかけられていたのよ。そのうえ、あんたの侍女が来た途端、このままお通いがないなら切り捨てると脅されたのよ。勇安嬪の兄を囲おうとしたのに断られてしまって、丁度虫の居所が悪かったんでしょうね。神経の細い謝皇后さまは、それはもう追い詰められて安嬪を呪い殺さんばかりに憎んでいたわ」
「だから、崔瞳絹にお金を渡してまで、千花を虐めさせたのね」
溪蓀が突っ込むと、華蝶は切れ長のアイラインを湾曲させる。
「そうよ。謝皇后さまのお気持ちを忖度してね。だけど、あの子たちはやり過ぎたのよ。女の虐めは陰湿にやるからこそ、長続きするのに。よっぽど安嬪が嫌いだったんでしょうけれど」
「やっぱり、瞳絹を口封じのために殺したの? 死ぬほどの罪ではなかったわ」
すると、華蝶は何が面白いのか、くすくすと笑いだした。溪蓀は胸の内を針でチクチク刺されるような嫌な感情に捕らわれるが、それを吐き出すことも出来ず無理やり飲み込む。
「安嬪が妊娠して、結局一人勝ちだもの。このまま静観していたら、謝皇后さまは姚家に見捨てられるどころか、皇后の座に留まることも出来ないでしょ? 金物屋の看板娘が多産の家系というだけで皇后に仕立て上げられた挙句に、死ぬまで後宮に閉じ込められるのよ。市井にいれば、身分相応の幸せがあっただろうに。なんて、お可哀想なのかしら。
だから、わたしはどうすればいいか、よく考えたのよ。丁度、姚家からもしものときにと、自決用の石黄を持たされていたの。効き目が分からなかったから、ためしにあの子に飲ませたというわけ」
では、姚家が千花を殺すよう直接指示した訳ではないのだ。しかし、宮女に毒を持たせたこと自体に姚家の悪意を感じた溪蓀である。
「てきめんだったわ。崔瞳絹の死で、すっかり怯えてしまった謝皇后さまはお赦しにならなかったけれど、私の考えは間違っていないわ。その証拠に、ひょんなことから閨事の指導を始めた王貴妃さまは、わたしのお願いをこころよく引き受けてくださったわ。あの方はとても熱心な生徒さんで、わたし達は気が合うみたい。だから、後から来たのに陛下の寵愛を一気にさらう安嬪なんて、許しがたいでしょうね。殺したくなっちゃうぐらい。わたしにも、その気持ち分かるわ」
「でも、貴方の本当の目的は、わたしだった」
溪蓀が指摘すると、華蝶が何故かうっとりと虚空を見あげた。
「だって、見たのよ。あれは確かに、李浩海だったわ」
「えっ?」
「あの人、あんたの入内と同時期に北都から姿を消したのよ。あんたの入内に落胆して身投げでもしちゃったかと一時期は本気で心配していたけれど、さすがにそれはなかったわね。四年たって、ますます男っぷりに磨きがかかっていたわ。まさか、こんなところにいたとわね」
溪蓀は思わぬ展開に驚くと共に、あることに気がついた。
――この人も、浩海さんが好きなんだわ。
だから、溪蓀が毒を呑んだとき、笑ったのだ。皇后大事とばかりに高説をあげるものの、結局自分のためにしか動いていない。王貴妃に近づいたのも、勿論打算があってのことだ。どこまで行っても自分勝手な華蝶に、嫌悪感と底知れない恐ろしさを感じる。
その華蝶の声は、地を這うように低くなった。
「後宮の方角をいつまでも見ていたわ。声をかけたのに、わたしの存在に気がつきもしなかった! あげくに、おまえの名前を口にしたのよ」
それまで聞き役に徹する溪蓀だったが、その一言で人が変わったように身を乗り出した。
「浩海さんが、わたしの名前を? どこでそれを聞いたの?」
「ああ、憎らしい! どうして、お前ばかりがいい思いをするの! あの宮女のように殺してやるわ!」
溪蓀は、鬼女の形相で懐剣を取りだした。もはや、相手の言うことなど聞いていない。溪蓀はとっさに立ち上がると、杖をかまえ応戦する。その足取りにふらつきはなく、華蝶は目に見えて驚愕した。
「何よ、あんた。その杖、飾りじゃない! 手の込んだ芝居を観せてくれるわね!?」
懐剣の白刃が大きく振り上げられる。武術の心得のない溪蓀は、やみくもに杖を振り回した。運良く、懐剣が払われる。だが、運がいいのはそれまでだった。
彼女が長い杖で間合いを取るものの、相手に迫られるとつい後退してしまう。弱気な相手に蔑みを浮かべた華蝶。宮女は、突然杖の先をむんずと握りこみ、自らの脇で抑え込む。溪蓀が両手で奪い返そうとしたものの、まったく動かない。そう思った瞬間、華蝶は急に脇を開いたのだ。
「きゃあっ!」
溪蓀は派手にしりもちをつく。杖が乾いた音を立てて石畳に転がった。
「何よ、そのへっぴり腰! そんなので刃向かえるとか、わたしを見くびってんじゃないわよ!」
怒りの形相の華蝶が、彼女の頭上で懐剣を振りかぶった。
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