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第二章

46.月下の英明宮(1)

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 てんまつを聞き終えた浩海ハオハイは、開いた口がふさがらなかった。
 側室たちの目を覚まさせようと結果的に毒を口にした溪蓀シースン。たいそう頼もしいが、浩海ハオハイに言わせれば無鉄砲な行いだ。以前はもう少し自分を大事にしていたのに、四年間の後宮生活のなにが彼女を衝動的にしてしまったのか。
 一方、ディン内侍は溪蓀シースンひたいに張りついた髪の毛をそうっとはがした。浩海ハオハイは、その柔らかな表情に自分には入り込めない友愛を感じ、たちまち不愉快になる。

「拙はこれで失礼します。明朝、――殿をむかえにきます。決して、黄恵嬪ホワンけいひん様に不届きな真似をはたらかぬよう、お願いします」
「そこまで言うなら、見張ってなくても大丈夫かい? 僕は、四年ぶりに溪蓀シースンを目にしたんだよ。彼女は……」

 そこでため息をこぼし、わざと恍惚とした表情を浮かべる。

「さらに、美しくなったね。まるで天から降ろされた織女みたいだ。後宮であだ花を咲かせているのがもったいない。彼女は、もっと女性の悦びを享受すべきと思わないかい?」
「あなたにはそれが与えられると?」
「彼女が嫌がらなければ、もちろんそのつもりだよ。内侍殿に言うまでもないけれど、後宮はキツネとタヌキの化かし合いみたいな場所だ。終生やっていくには、溪蓀シースンは真っすぐすぎる。今回だって、どっちかの親玉みたいな皇太后殿下に、良いように利用された結果なんじゃないかい?」

 ディン内侍は、浩海ハオハイの不敬をとがめなかった。むしろ、言われたことを自分の認識とすり合わせているように思える。浩海ハオハイは誰よりも溪蓀シースンを理解し愛しているつもりだが、ディン内侍の顔にうかぶ懊悩おうのうを目にするや、らしくもない焦りを感じた。

 ディン内侍のあざなは、游莞ヨウグァンだ。著名な学者を輩出する名門ディン家の出身で、食い扶持を減らすために我が子を宦官にする貧家ひんかのとはわけが違う。彼の母親は丁《ディン》家当主の妾の一人。正妻に恭順の意を示すため、当主の最初の男子として生まれた子を浄身した。その後、女子ばかり生まれ、結局分家から養子を取らざるを得ない今日を考えれば、ディン内侍の母親の決断が正しかったとはとても思えない。
 だが、今の浩海ハオハイは、その母親に手を合わせたい気分だった。一方、丁《ディン》内侍は別の話題を振る。

「拙が宮を出たあと、――殿は、具体的には何をするつもりで?」
「うーん。口づけとか?」

 すると、氷柱つららのような視線が、彼の身体に刺さった。

「ほかには?」
「……おっぱいをさわる」

 護衛官はついに鞘に手をかける。抑揚をおさえた声音は、今宵の月のように冴えていた。

「そのときこそ、間違いなく切り刻んでさしあげますよ。ゲスな言動でホワン恵嬪様をおとしめないでいただきたい」
「怖いね。溪蓀シースンが後宮の住人であるうちは、僕だってなにもしないよ。命は惜しいし、何より今の彼女は病人だ」
「その言葉、お忘れなきよう」

 浩海ハオハイは相手をからかうことで溜飲をさげた。この宦官は、高嶺の花である溪蓀シースンが誰かに汚されるのを見たくないのだ。
 浩海ハオハイは、扉が閉まる音を遠くに聞いた。残されたのは、自分と溪蓀シースンだけ。
 
「……まったく君ときたら」

 呆れと愛おしさが同時に込みあげる。溪蓀シースンの身体からは相変わらず汗が浮きでて、彼女は全身をめぐる熱から逃れようと、ときおり眉根をよせていた。白い首筋に赤い発疹が浮いているのが痛ましい。
 苦しむ病人をまえにして、浩海ハオハイに出来ることは少なかった。汗でベタベタになった寝間着を着替えさせ、乾いた口に定期的に水を含ませることぐらい。溪蓀シースンはされるがまま、少しも目を覚ます気配はなかった。

「ふぅ……」

 落ち着いて椅子に腰を落としてみると、英明インミン宮にはいたるところに溪蓀シースンの息吹が感じられる。『明窓浄几めいそうじょうき』にならった書斎は型どおりに掛け軸や香炉が飾られているものの、その意匠デザインは斬新だった。考え方は堅苦しいほど古風なのに、彼女の刺繍は大胆な構図と鮮やかな色づかいが特徴なことをふと思い出す。

 寝室は、反して柔らかい色調でまとめてあった。寝台の天蓋は藤色で、浩海ハオハイの尻の下の座布団も同じ色。そして、乱雑になりがちな糸や反物は、香椿チャンチン材の棚に色の系統を分けてならべられている。後見人がいないので俸禄しか収入がないが、それでもなみの町人よりは多い額を貰っているはずだ。だというのに、彼女が慎ましく規則正しい生活を送っていると、この部屋は教えてくれる。

――そういうところも、好きなんだよね。

 浩海ハオハイは思わず、溪蓀シースンの顔を覗き込んだ。その呼吸は、落ちつき始めていた。ひたいに手を置いてみると、熱も下がっている。この分なら、発疹も消えることだろう。一安心だ。
 ふたりっきりの夜の静寂しじまに、浩海ハオハイは我が身を霧に変えられたらいいのに、と考えた。離れたくない。朝がきても、彼女の寝顔を見ていたい。溪蓀シースンをとりまく空気の一部になって、ずっと包みこんでいたい。できるはずもないことに夢想するなんて、長い禁欲生活のせいで頭までイカれてしまったのかもしれない。
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