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第二章

38.尼姉ちゃん(1)

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 瑠璃瓦や朱色の壁と同じ色の落ち葉が舞う頃、千花チェンファの妊娠が判明した。
 夫に報告する彼女の顔は幸せと誇りに満ちている。賢宝シアンバオは、千花チェンファを長椅子に座らせると、その隣に座った。

「……余も、ついに人の親か。千花チェンファが余の子を産んでくれるのであれば、これほど嬉しいことはない。ありがとう、千花チェンファ
「もったいないお言葉でございます、陛下。大切なお役目、精進いたします」
「そう、気負わずともよい。だが、もはやそなた一人の身体ではない。どうか、充分に労わってくれ。寒くないか?」

 賢宝シアンバオは、あたかも寵姫に自分の熱を分け与えるように抱き寄せる。千花チェンファは顔を赤らめて、相手の肩に手を着いた。

「だ、大丈夫です、陛下。あの……ここは人目がありますから」
「ああ、そうであった」

 咎められても、その笑顔は崩れない。
 久しぶりに対面した賢宝シアンバオは、背が伸び肩幅も広くなっていた。少年と青年のちょうどはざま。その顔からは我が子を得る感動もさることながら、重責を果たした安堵もうかがわれた。十二人の妃を娶って四年、賢宝《シアンバオ》には尋常でない圧力がかかっていたはずだ。
 溪蓀シースンはひざまずき、心の底から祝いの言葉を述べた。

「おめでとうございます、陛下。お喜び申し上げます」
恵嬪けいひん、ありがとう。これからも千花チェンファのことを見守っていてくれ」
「もちろんでございます。安嬪あんぴん様はわたしにとっても、たいせつな友人です」

 賢宝シアンバオは、溪蓀シースンの手を握り立たせる。結婚や出産といった通過儀礼により成長を重ねるのは、皇帝も市井の若者も同じ。彼女は、賢宝シアンバオの指がいつの間にか太く力強くなっていることに気が付いた。

「そなたにはいつも苦労をかける。報いることが出来ない余を許して欲しい」
「お二人の幸せな顔を拝見することが、わたしにとって何よりの褒美にございます」

 その言葉は嘘ではない。身近な人が幸せになるのを見ているのは嬉しい。まるで自分の身にも同じことが起きているかのようだ。想う人のそばにいて、子が産める幸せ。長く寄り添い、苦楽を分かち合い、共に老いていく。
 溪蓀シースンは自分の意地を通すために、浩海ハオハイと寄り添う未来を捨てた。そんな自分に、千花チェンファをうらやむ資格はないのだ。



 その日の永華ヨンファ宮は、とても賑やかだった。
 藍珠ランジュが訪問を許され、同い年の友人の懐妊を喜んだ。女官や宮女が控えるなか、振る舞われた紅豆奶巻ホンドウナイジュアンを頬張り、普洱プーアル茶で流しこむ。

「ゴホッ、ゴホッ」
藍珠ランジュ! 慌てて食べるのではないの。まったく騒々しい子ね」

 溪蓀シースンは姉らしく、むせる背中をさすってやった。

「だって、宮廷のお菓子ってめちゃくちゃ美味しいんだもん。甘いのにあっさりしてるし、やっぱり上品なんだよね」

 それまで心配そうに見ていた千花チェンファが笑顔を浮かべ、藍珠ランジュの茶器にお代わりを注ぐ。

「小豆餡をカッテージチーズで包んであるの。良かったら、お土産に持って帰って」
「わぁ! ありがとう。帰ったら早速、則寿ゼゾウ様にお出しするよ。あ、もちろん、お父さんたちにも出すから安心してよ、お姉ちゃん」

 藍珠ランジュは性懲りもなく、二つ目に手を出した。溪蓀シースンがハアッと溜息をついて、乱れた被帛ひれを直す。

「もう。千花チェンファと同い年とは、とうてい思えないわ。藍珠ランジュを貰ってくれる殿方が北都ベイドゥにいるかしら。急に心配になって来たわ」
「お姉ちゃん、ひどいよ。千花チェンファは特別だもん。あっという間にお妃様で、もうすぐお母さんになるんだよ。置いてきぼり感半端ないけれど、ほんとうおめでとう!」
「ありがとう。……でも、まだ全然実感が湧かないの。陛下に喜んでいただけるのは嬉しいけれど、男の子が産まれるとは限らないでしょ? たとえ男の子でも、わたしに似たらそそっかしいドジな子になっちゃう。陛下に申し訳なくて」

 同い年で話しやすい相手のせいか、珍しくも不安を吐露する千花チェンファに、藍珠ランジュはにっこりと笑いかける。

千花チェンファに似たら、優しくて人の痛みが分かる、つぶらな瞳の公子様だよ。それに女の子だったら、お人形さんみたいに可愛いよ。陛下だってぜったい溺愛すると思うな」
「……藍珠ランジュ

 皇族直系唯一の男子である賢宝シアンバオの第一子とあって、お世継ぎの期待をいやでも感じているはずだ。だが、宮廷の習慣にとらわれない藍珠ランジュは、溪蓀シースンにはない言葉を持っている。うるっと瞳を潤ませる千花チェンファに、溪蓀シースンは声をかけた。

「まずは、千花チェンファが穏やかに過ごすことが大事よ。つわりはどうなの?」
「だいぶおさまりました。湯気の立たないものなら、何とか食べられます」

 藍珠ランジュ紅豆奶巻ホンドウナイジュアンを二つに割って、片方を千花チェンファに渡す。

「じゃあ、いっぱい食べないとね。千花チェンファが元気ないと、陛下にも伝染うつるんでしょ? そういうの、傾城けいじょうっていうんだっけ?」

 皇帝の寵姫は、渡されたお菓子を更に割った。もはやサイコロのように小さくなったものを上品に摘まむ姿は、どうしてか生まれながらの公主にしか映らない。

「陛下とお会いしてからは毎日があっという間で、わたしも何が何だか分からないの。まるで長い夢を見ているみたいで」
千花チェンファ、すごく綺麗になったもんね。――それにしても、凄いお祝いの量だね。わたしが持ってきたの、かすんじゃう」

 藍珠ランジュは、部屋の片隅に置かれた棚を見た。景徳鎮窯で焼かれた青花と鴛鴦の壺。かつて一世を風靡した、龍泉窯の青磁の香炉。――こちらは、千花チェンファの故郷のものだ。他に花鳥画や文房四宝なども、所狭しと並んでいる。
 
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