34 / 86
第二章
34.丁内侍の来訪(1)
しおりを挟む
――良いところで目が覚めてしまった。
彼は長机の上で、大いに頭を抱える。
そう広くはない書斎で、燭台のロウソクが書きかけの草案を照らしていた。何とか今晩中にまとめようとしたものの、途中でうたた寝をしてしまったようだ。
「まさか夢にまでみるなんて、重症だな」
ふぅーと息を吐いて、顔をおおう。ここのところ忙しすぎたせいか、自分の体調管理をおろそかにしていた。二十六歳にもなって夢精しかけるとは、全く情けない。しかも夢のなかとはいえ、処女の溪蓀に背面座位を強要するところだった。自分に嗜虐趣味はないし、あれじゃあ全然『優しく』していない。ことが済んだ後平手を喰らい、一週間口を利いてもらえなくなる事態は目に見えている。
思わず、宮殿の方角に向かって手を合わせた。
――ごめん、溪蓀。
入内から三か月後、勇安嬪が懐妊した。その知らせに宮殿の内外は喝采に湧き、北都の街もお祝いムード一色だ。
千花は、友人の妹だ。
彼女は生まれて間もないころ、地元でそこそこ知られた占師に『龍を産む女』と予言を授けられたそうだ。龍とはすなわち皇帝のこと。都から離れた土地で、たいした財産も人脈もない勇家の娘の将来としては絵物語に過ぎず、さりとて笑い話にするには物騒な事件だった。
堅実な人間なら『龍を産む女』と噂の立った娘を妻にしようとは思わない。我が子を皇帝にしたいとあらぬ疑いをかけられたくはないのだ。娘の将来を案じた両親はその予言をすっぱり忘れることにし、占師に謝礼という名の高い口止め料を払った。もちろん娘にも話さなかったが、見聞きしていた幼い友人だけはしごく前向きなとらえ方をしたようだ。
『千花は、将来皇后さまになるんだ。妹の力になれるよう、僕は官僚を目指すんだ』
眉唾物の予言に惑わされて、こいつは気が触れてるんじゃないかと疑ったが、いざ叶いそうになると友人の信念を笑えない。何ら関係のない溪蓀さえも巻き込んで、千花は階段を二段飛ばしで昇るように皇帝の寵姫に収まった。無事に出産しその子が男子であったなら、勇皇后となるのは確実だろう。
※※※※※
重陽節を控えた今頃は、北都も過ごしやすい。月見を妨げる雲もなく、草案がまとまったら『独りで一杯やるかな』などと考える。色街通いをとうに辞めた自分には、酒は数少ない娯楽の一つだった。
厠から戻ってきた彼は、室内にある気配に気が付いた。夜更けに家人がこの部屋を訪れることはなく、息を殺して伺うと声が聞こえてくる。
「お入りなさい、――殿」
高いが凛とした声音。相手が知り合いだと分かり、男は両扉を押し開いた。ロウソクの炎に浮かぶのは、武官の黒い直裾。しかし、軍人にしては線が細い。
内心の驚きを隠し、男はいつもの笑顔を張り付けた。
「これは丁内侍殿。こんな夜更けにどうされました? 使いを寄越してもらえれば、すぐにわたしの方から馳せ参じましたのに」
「……」
「今宵は良い月です。折角ここまでいらっしゃったのだから、まずは酒でも用意しましょうか?」
皇帝の護衛官は、へりくだった男の声に反応しなかった。この宦官には嫌われている節がある。普段それほど接点があるわけでもなく、また同性から身に覚えのない妬みを買うことの多い自分は、特に気にしないのだが。
――いやいや、深夜の不法侵入はあっちだし。
ふてぶてしい珍客は話すのも癪という姿勢を崩さないまま、口火をきる。
「あなたが『李浩海』ですか?」
一瞬、男の表情が固まる。まさか、後宮の護衛官からその名が出るとは思わなかった。扉を後ろ手に閉め、彼は笑う。
「いかにも。自分の名前ながら、久しぶりに聞きましたよ」
「何故あなたをみると虫唾が走るのか、ようやく理由が分かりました」
直後、鋭い殺気が男の全身に突き刺さり、とっさに頭を低めた。見れば、護衛官の右手には抜身の剣がある。
「何の真似ですか!?」
彼は長机の上で、大いに頭を抱える。
そう広くはない書斎で、燭台のロウソクが書きかけの草案を照らしていた。何とか今晩中にまとめようとしたものの、途中でうたた寝をしてしまったようだ。
「まさか夢にまでみるなんて、重症だな」
ふぅーと息を吐いて、顔をおおう。ここのところ忙しすぎたせいか、自分の体調管理をおろそかにしていた。二十六歳にもなって夢精しかけるとは、全く情けない。しかも夢のなかとはいえ、処女の溪蓀に背面座位を強要するところだった。自分に嗜虐趣味はないし、あれじゃあ全然『優しく』していない。ことが済んだ後平手を喰らい、一週間口を利いてもらえなくなる事態は目に見えている。
思わず、宮殿の方角に向かって手を合わせた。
――ごめん、溪蓀。
入内から三か月後、勇安嬪が懐妊した。その知らせに宮殿の内外は喝采に湧き、北都の街もお祝いムード一色だ。
千花は、友人の妹だ。
彼女は生まれて間もないころ、地元でそこそこ知られた占師に『龍を産む女』と予言を授けられたそうだ。龍とはすなわち皇帝のこと。都から離れた土地で、たいした財産も人脈もない勇家の娘の将来としては絵物語に過ぎず、さりとて笑い話にするには物騒な事件だった。
堅実な人間なら『龍を産む女』と噂の立った娘を妻にしようとは思わない。我が子を皇帝にしたいとあらぬ疑いをかけられたくはないのだ。娘の将来を案じた両親はその予言をすっぱり忘れることにし、占師に謝礼という名の高い口止め料を払った。もちろん娘にも話さなかったが、見聞きしていた幼い友人だけはしごく前向きなとらえ方をしたようだ。
『千花は、将来皇后さまになるんだ。妹の力になれるよう、僕は官僚を目指すんだ』
眉唾物の予言に惑わされて、こいつは気が触れてるんじゃないかと疑ったが、いざ叶いそうになると友人の信念を笑えない。何ら関係のない溪蓀さえも巻き込んで、千花は階段を二段飛ばしで昇るように皇帝の寵姫に収まった。無事に出産しその子が男子であったなら、勇皇后となるのは確実だろう。
※※※※※
重陽節を控えた今頃は、北都も過ごしやすい。月見を妨げる雲もなく、草案がまとまったら『独りで一杯やるかな』などと考える。色街通いをとうに辞めた自分には、酒は数少ない娯楽の一つだった。
厠から戻ってきた彼は、室内にある気配に気が付いた。夜更けに家人がこの部屋を訪れることはなく、息を殺して伺うと声が聞こえてくる。
「お入りなさい、――殿」
高いが凛とした声音。相手が知り合いだと分かり、男は両扉を押し開いた。ロウソクの炎に浮かぶのは、武官の黒い直裾。しかし、軍人にしては線が細い。
内心の驚きを隠し、男はいつもの笑顔を張り付けた。
「これは丁内侍殿。こんな夜更けにどうされました? 使いを寄越してもらえれば、すぐにわたしの方から馳せ参じましたのに」
「……」
「今宵は良い月です。折角ここまでいらっしゃったのだから、まずは酒でも用意しましょうか?」
皇帝の護衛官は、へりくだった男の声に反応しなかった。この宦官には嫌われている節がある。普段それほど接点があるわけでもなく、また同性から身に覚えのない妬みを買うことの多い自分は、特に気にしないのだが。
――いやいや、深夜の不法侵入はあっちだし。
ふてぶてしい珍客は話すのも癪という姿勢を崩さないまま、口火をきる。
「あなたが『李浩海』ですか?」
一瞬、男の表情が固まる。まさか、後宮の護衛官からその名が出るとは思わなかった。扉を後ろ手に閉め、彼は笑う。
「いかにも。自分の名前ながら、久しぶりに聞きましたよ」
「何故あなたをみると虫唾が走るのか、ようやく理由が分かりました」
直後、鋭い殺気が男の全身に突き刺さり、とっさに頭を低めた。見れば、護衛官の右手には抜身の剣がある。
「何の真似ですか!?」
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
王女、騎士と結婚させられイかされまくる
ぺこ
恋愛
髪の色と出自から差別されてきた騎士さまにベタ惚れされて愛されまくる王女のお話。
性描写激しめですが、甘々の溺愛です。
※原文(♡乱舞淫語まみれバージョン)はpixivの方で見られます。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
獣人の里の仕置き小屋
真木
恋愛
ある狼獣人の里には、仕置き小屋というところがある。
獣人は愛情深く、その執着ゆえに伴侶が逃げ出すとき、獣人の夫が伴侶に仕置きをするところだ。
今夜もまた一人、里から出ようとして仕置き小屋に連れられてきた少女がいた。
仕置き小屋にあるものを見て、彼女は……。
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
純潔の寵姫と傀儡の騎士
四葉 翠花
恋愛
侯爵家の養女であるステファニアは、国王の寵愛を一身に受ける第一寵姫でありながら、未だ男を知らない乙女のままだった。
世継ぎの王子を授かれば正妃になれると、他の寵姫たちや養家の思惑が絡み合う中、不能の国王にかわってステファニアの寝台に送り込まれたのは、かつて想いを寄せた初恋の相手だった。
保健室の秘密...
とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。
吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。
僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。
そんな吉田さんには、ある噂があった。
「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」
それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。
慰み者の姫は新皇帝に溺愛される
苺野 あん
恋愛
小国の王女フォセットは、貢物として帝国の皇帝に差し出された。
皇帝は齢六十の老人で、十八歳になったばかりのフォセットは慰み者として弄ばれるはずだった。
ところが呼ばれた寝室にいたのは若き新皇帝で、フォセットは花嫁として迎えられることになる。
早速、二人の初夜が始まった。
『別れても好きな人』
設樂理沙
ライト文芸
大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。
夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。
ほんとうは別れたくなどなかった。
この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には
どうしようもないことがあるのだ。
自分で選択できないことがある。
悲しいけれど……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
登場人物紹介
戸田貴理子 40才
戸田正義 44才
青木誠二 28才
嘉島優子 33才
小田聖也 35才
2024.4.11 ―― プロット作成日
💛イラストはAI生成自作画像
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる