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第二章
30.べっ甲(1)
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翌朝、千花は永華宮に戻っていった。
新しい宮女は女官長の推薦を経て、再び吟味されることとなった。溪蓀は前の宮女たちに自ら処罰を下したことで皇太后の叱責を免れ、引き続き千花の身辺に注意を払うよう命じられた。
皇帝である賢宝が、宮女の千花を見初めた。それだけの話なのに、当人の思惑を超え千花を中心とした勢力が出来つつある。勢力は組織となり、組織は人に役割を求める。溪蓀はさしずめ、彼女を守る番犬だ。
*
緑が一面広がる御花園。
白い太湖石でできた築山の上に赤い壁と瑠璃瓦の庵が建ち、大きな松の枝は伸び、小川もさらさらと流れている。浮世離れした景色のなか、溪蓀は山羊革の靴で石畳を踏んだ。
――どこに落としたのかしら? 岩場に紛れこんでいたら、なかなか見つけられないわね。
午前中とあって、御花園には警備の兵士以外は誰もいない。溪蓀自身も宮女を連れておらず、一人白い奇岩の孔や松の木の間を探す。千花と散策に出たのだが、彼女が具合を悪くしたので馬女官たちと永華宮まで運んだのだ。後で落とし物に気が付いた溪蓀だけ、御花園に戻って来た。
ついには裙子の膝を着いた彼女の耳に、宦官独特の高音が届く。
「黄恵嬪様」
「まぁ、丁内侍! お恥ずかしい処をお見せしましたわ」
慌てて身なりを整え、皇帝の護衛官に挨拶をした。
「これを」
微笑みを浮かべた彼の手のなかにあったのは、簡素な茶色の宝飾品だった。
「……わたしが落とした簪、ありがとうございます!」
「ここで拾ったのですが、宮女たちにあなたが御花園に向かったと聞き、慌てて戻ってまいりました」
「よく、これがわたしの物だとお分かりになりましたね」
すると、彼は帯剣を許された武人なのに、少女が恥じらうように頬を赤らめた。なるほど、性別を超えた神仙の美とはこういうものかと、彼女は素直に感心する。
「……いえ、その。いつもあなたが身に着けていることは知っていました。べっ甲の良い品ですね」
「ええ。祖母の形見なんです。飾り気はないのですが、使い勝手が良くて重宝しているのです」
溪蓀は簪を後ろ髪に挿そうとしたが、普段宮女にやってもらうせいか上手くいかない。見かねた丁内侍が手をさし出した。
「わたしがつけましょう」
「まぁ、ご親切に。ありがとうございます」
宦官の細い指が妃の髪に触れた。簪を挿し終わったとき、彼は言う。
「実は内密にお話したいことがあり、捜しておりました。……崔瞳絹のことで」
彼女はハッと息を呑んで振り向いた。崔瞳絹は、千花をいじめた主犯格だ。いじめを命じた人間の名をついに吐いたのだろうか。しかし、皇帝の護衛官がもたらした知らせは、彼女の想像をはるかに超えていた。
「あの宮女が急死……ですか?」
「はい。崔瞳絹が牢で食事をとっている際、突然腹痛を訴えました。まもなく吐血が始まり、医者が駆け付けた時には手の施しようもありませんでした」
「食べ物に毒が入っていたのですか?」
「おそらく。厨房から料理を運んだ宦官が、昨晩から行方知れずです」
「……なんてこと」
溪蓀は呆然と立ち尽くす。瞳絹のやったことに同情の余地はないとしても、死ぬほどの罪ではない。命じた人間が発覚を恐れ、口封じしたと考えるのが自然だ。
「誰の仕業か分かったのですか?」
「崔瞳絹は金子を受け取った際、暗闇で相手の顔を見ていないようです。……失礼ながら、勇安嬪様の存在に脅威を感じている者は少なくはありません。今は、誰が犯人でもおかしくはないのです」
溪蓀はぎゅっと唇を噛む。日頃親しい護衛官の言葉にしても衝撃的であった。
「夫婦となった以上、お二人が仲良くするのは当たり前です。どうしてそっとしてあげられないのでしょう? 陛下もあの子も何も悪くないのに」
「悪くはございませんが、勇安嬪様は、陛下にとってあまりに特別な存在です。その証拠に陛下はあの方に出会って以来、他の妃様方に寵をお与えになってはおりません。今まで後宮の力関係は皇太后様一強、あとは軒並み均一を保っておりました。それ故、お妃さま方の後見人たちも大人しくしておりましたが今は違います。皇后陛下の後見人は姚家ですが、早くも安嬪様を抱き込もうと、兄の勇景海に接触を図ったようです」
姚家の当主は、浩海の父の次の左丞相だ。もともとは武を尊ぶ家柄のはずだが、天下泰平の世になるにつれ政界に欲を見せ、今では名門の李家と拮抗する勢力を誇っていた。
「それで、勇景海殿はそれに乗ったのですか?」
「いいえ、底の見えない男です。どこの派閥にも属さず、のらりくらりと誘いを躱しているようです」
「それならひとまず安心ですね」
それにしても、丁内侍の語る勇景海は千花の語るそれとはあまりに隔たりがあった。護衛官の顔からうかがえるところ、千花の兄を快くは思っていないらしい。溪蓀は敢えてそれには触れなかった。
「陛下も永華宮の警備を厚くし毒見役を設けるよう、内侍省にお命じになりました。今まで、他の妃様と横並びの扱いをしておりましたが、安嬪様はもはや別格です」
――毒見役。
聞き慣れない、嫌な言葉だ。今まで、溪蓀の後宮生活は権力闘争とは程遠く、如何にも平穏であった。しかし、今はそれが局所的な話でしかなかったことを痛感する。
「わたしもなるべく、あの子の傍にいるように致します。千花が辛い思いをするのは、もう見たくありません。丁内侍、わたしからもよろしくお願いします」
切実な思いを語れば、秀麗な護衛官の顔に力が漲るのを感じた。
「この命に代えてましても」
「ありがとうございます」
皇帝の護衛官と側室という立場はあるが、溪蓀にとって丁内侍は千花を守る同志だった。
新しい宮女は女官長の推薦を経て、再び吟味されることとなった。溪蓀は前の宮女たちに自ら処罰を下したことで皇太后の叱責を免れ、引き続き千花の身辺に注意を払うよう命じられた。
皇帝である賢宝が、宮女の千花を見初めた。それだけの話なのに、当人の思惑を超え千花を中心とした勢力が出来つつある。勢力は組織となり、組織は人に役割を求める。溪蓀はさしずめ、彼女を守る番犬だ。
*
緑が一面広がる御花園。
白い太湖石でできた築山の上に赤い壁と瑠璃瓦の庵が建ち、大きな松の枝は伸び、小川もさらさらと流れている。浮世離れした景色のなか、溪蓀は山羊革の靴で石畳を踏んだ。
――どこに落としたのかしら? 岩場に紛れこんでいたら、なかなか見つけられないわね。
午前中とあって、御花園には警備の兵士以外は誰もいない。溪蓀自身も宮女を連れておらず、一人白い奇岩の孔や松の木の間を探す。千花と散策に出たのだが、彼女が具合を悪くしたので馬女官たちと永華宮まで運んだのだ。後で落とし物に気が付いた溪蓀だけ、御花園に戻って来た。
ついには裙子の膝を着いた彼女の耳に、宦官独特の高音が届く。
「黄恵嬪様」
「まぁ、丁内侍! お恥ずかしい処をお見せしましたわ」
慌てて身なりを整え、皇帝の護衛官に挨拶をした。
「これを」
微笑みを浮かべた彼の手のなかにあったのは、簡素な茶色の宝飾品だった。
「……わたしが落とした簪、ありがとうございます!」
「ここで拾ったのですが、宮女たちにあなたが御花園に向かったと聞き、慌てて戻ってまいりました」
「よく、これがわたしの物だとお分かりになりましたね」
すると、彼は帯剣を許された武人なのに、少女が恥じらうように頬を赤らめた。なるほど、性別を超えた神仙の美とはこういうものかと、彼女は素直に感心する。
「……いえ、その。いつもあなたが身に着けていることは知っていました。べっ甲の良い品ですね」
「ええ。祖母の形見なんです。飾り気はないのですが、使い勝手が良くて重宝しているのです」
溪蓀は簪を後ろ髪に挿そうとしたが、普段宮女にやってもらうせいか上手くいかない。見かねた丁内侍が手をさし出した。
「わたしがつけましょう」
「まぁ、ご親切に。ありがとうございます」
宦官の細い指が妃の髪に触れた。簪を挿し終わったとき、彼は言う。
「実は内密にお話したいことがあり、捜しておりました。……崔瞳絹のことで」
彼女はハッと息を呑んで振り向いた。崔瞳絹は、千花をいじめた主犯格だ。いじめを命じた人間の名をついに吐いたのだろうか。しかし、皇帝の護衛官がもたらした知らせは、彼女の想像をはるかに超えていた。
「あの宮女が急死……ですか?」
「はい。崔瞳絹が牢で食事をとっている際、突然腹痛を訴えました。まもなく吐血が始まり、医者が駆け付けた時には手の施しようもありませんでした」
「食べ物に毒が入っていたのですか?」
「おそらく。厨房から料理を運んだ宦官が、昨晩から行方知れずです」
「……なんてこと」
溪蓀は呆然と立ち尽くす。瞳絹のやったことに同情の余地はないとしても、死ぬほどの罪ではない。命じた人間が発覚を恐れ、口封じしたと考えるのが自然だ。
「誰の仕業か分かったのですか?」
「崔瞳絹は金子を受け取った際、暗闇で相手の顔を見ていないようです。……失礼ながら、勇安嬪様の存在に脅威を感じている者は少なくはありません。今は、誰が犯人でもおかしくはないのです」
溪蓀はぎゅっと唇を噛む。日頃親しい護衛官の言葉にしても衝撃的であった。
「夫婦となった以上、お二人が仲良くするのは当たり前です。どうしてそっとしてあげられないのでしょう? 陛下もあの子も何も悪くないのに」
「悪くはございませんが、勇安嬪様は、陛下にとってあまりに特別な存在です。その証拠に陛下はあの方に出会って以来、他の妃様方に寵をお与えになってはおりません。今まで後宮の力関係は皇太后様一強、あとは軒並み均一を保っておりました。それ故、お妃さま方の後見人たちも大人しくしておりましたが今は違います。皇后陛下の後見人は姚家ですが、早くも安嬪様を抱き込もうと、兄の勇景海に接触を図ったようです」
姚家の当主は、浩海の父の次の左丞相だ。もともとは武を尊ぶ家柄のはずだが、天下泰平の世になるにつれ政界に欲を見せ、今では名門の李家と拮抗する勢力を誇っていた。
「それで、勇景海殿はそれに乗ったのですか?」
「いいえ、底の見えない男です。どこの派閥にも属さず、のらりくらりと誘いを躱しているようです」
「それならひとまず安心ですね」
それにしても、丁内侍の語る勇景海は千花の語るそれとはあまりに隔たりがあった。護衛官の顔からうかがえるところ、千花の兄を快くは思っていないらしい。溪蓀は敢えてそれには触れなかった。
「陛下も永華宮の警備を厚くし毒見役を設けるよう、内侍省にお命じになりました。今まで、他の妃様と横並びの扱いをしておりましたが、安嬪様はもはや別格です」
――毒見役。
聞き慣れない、嫌な言葉だ。今まで、溪蓀の後宮生活は権力闘争とは程遠く、如何にも平穏であった。しかし、今はそれが局所的な話でしかなかったことを痛感する。
「わたしもなるべく、あの子の傍にいるように致します。千花が辛い思いをするのは、もう見たくありません。丁内侍、わたしからもよろしくお願いします」
切実な思いを語れば、秀麗な護衛官の顔に力が漲るのを感じた。
「この命に代えてましても」
「ありがとうございます」
皇帝の護衛官と側室という立場はあるが、溪蓀にとって丁内侍は千花を守る同志だった。
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