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第二章
25.香炉(1)
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駆けつけた溪蓀の瞳に入ったのは、庭隅のむき出しの地面に座り込む後ろ姿だった。丸まった背中は頼りなく華奢だ。驚くべきことに、かんざしを挿していない頭から、白い絹の嬬、薄物の被帛まで真っ黒に染まっていた。
「千花!? その恰好どうしたの?」
黒い汁が何なのか、囲炉裏を掃除した後の汚水かもしれず、粘り気があるから墨汁かもしれない。あるいは二つを混ぜたものかも。
千花は幼子のように声を詰まらせ泣いていたが、溪蓀を見るや慌てて袖口で拭おうとした。溪蓀がとっさに掴んだ手首は、思った以上に細かった。
「汚れた袖で擦ったら目を傷つけてしまうわ」
「安嬪様、顔をお上げください」
馬女官が手拭いでぬぐうと、千花は鼻をすすり、蚊の鳴くような声をだした。
「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません、……恵嬪様。女官様も」
ショックが強すぎたせいであろうか、女官にまで敬称をつけている。
「とにかく湯を沸かして、千花を丸洗いしないといけないわ」
「英明宮の宮女や、手の空いている女官を連れて参ります」
「頼むわね」
日頃、所作にうるさいはずの女官がパタパタと駆けていく。溪蓀はその場に中腰になると、相手と視線を合わせた。
「宮女たちはどこにいったの? わたしは一刻も早く釈明がほしいわ」
「ち、違います! これは、……これはわたしが勝手に転んで、拍子に硯が落ちてしまったんです」
しどろもどろの下手な言い訳に溪蓀の頭に血が上る。
「もう一度聞くけれど、宮女たちはどこへ行ったの?」
「……しゅ、宿舎の方かと……。でも、それはわたしがそうお願いしたからで……」
彼女が大きな溜息をつくと、千花はビクッと身をすくませた。
溪蓀なら相手を叱りつけるか、さもなければ人員を入れ替えさせておしまいだが、千花には難しい。天子様の寵愛を受けようとも、絹の嬬裙を身に着けようとも、中身は下っ端宮女のままなのだ。それをいいことに、彼女のもと同僚たちは怠慢に走り、あろうことか主人に狼藉をはたらいた。
「かばっても無駄よ。これは陛下の寵姫に対する無礼なのだから。だいたい、硯に溜めたぐらいの墨を被ったぐらいで全身真っ黒になるわけがないでしょう」
溪蓀は、三人の宮女には云うに及ばず千花にすら苛立ちを感じていた。しかし、一番許しがたいのはこの自分だ。気乗りしないという理由だけで永華宮に足を向けることを怠った。少なくとも初夜の翌朝に顔を出しておけば、宮女たちににらみをきかせられたであろうに。
『龍を産む娘ぞ。けっして、傷つけてはならぬ』
ふっと浮かんだ皇太后の言葉が重たくのしかかる。煤かぶりの妃が手を合わせて懇願してきた。
「彼女たちを責めないで下さい。わたしが、しっかりしていないのが悪いのです」
「いいえ、あなたは何も悪くないわ。一番悪いのは宮女たちで、二番目はわたしよ」
それには、千花が怪訝な顔をする。黒い汁が滴り落ちる様が哀れだった。
「恵嬪様がですか? そんなはずが……」
「千花を妃に推したのはわたしですもの。最後まで責任を果たさなくてはね」
溪蓀はぐっとこぶしを握った。
※※※※※
一人で石畳を叩くように歩きながら、溪蓀はふと思い出した。
千花が宮女たちを迎えたときの喜びようを。もし、苛めにあっていることが賢宝に伝われば、彼女たちはきつい罰を受ける。千花はそんな目に遭わせたくなかったのだ。だから、それを隠そうとし自分一人が我慢する道を選んだ。
千花を昼日中はほかりっぱなし、ようやく夕方になったら湯浴みをさせ、髪を整え、皇帝の寝所に送り出す宮女たち。知らずにだらだらこの五日間を過ごしていた自分が、恨めしい。
内廷の一角に宮女用の宿舎が建っている。井戸の周りでは非番の宮女たちが恋の歌を口ずさみながら、洗濯をしていた。淡色のシャツや裙子が並んで風にたなびくなか、ひとりの宮女がこちらに気が付き、走り寄ってくる。
「恵嬪様!? どうなさいましたか?」
「宿舎に入らせてもらうわよ。悪いけれど、勇安嬪様の宮女たちの部屋に案内してくれる?」
呆気にとられる宮女が手拭いを握ったまま、カクカクとうなずいた。宿舎は細かく鼠色の壁で仕切られており、英明宮を見慣れた溪蓀には通路も部屋もとにかく暗く狭く感じられる。
宮女の歩みが止まったところで、部屋のなかから少女たちの笑い声が聞こえてきた。
「さっきのみた? 千花の呆気にとられた顔!」
「みたみた、まるでカラスみたい! 絹の嬬裙より、あっちの方がお似合いよ。ねー。それより天子様から頂いたこのお菓子、なんていうの? すごく美味しいよ」
「気に入ったんなら、あの子に言えば? 両手に抱えて持ってくるわよ」
――千花に煤水をかけておいて、よくも笑っていられること。どう罰してやろうかしら?
きりっと唇を噛む側室の静かな怒りに怖じ気付いたのか、案内の宮女が手拭いを両手で握りしめる。溪蓀は口の前で人差し指を立て、声をひそめた。
「ありがとう。後は自分でやるから、洗濯の続きに戻ってちょうだい」
「は、はい。失礼しますっ」
それから溪蓀《シースン》は声かけもなく、一気に両の格子扉を引いたのだ。
「千花!? その恰好どうしたの?」
黒い汁が何なのか、囲炉裏を掃除した後の汚水かもしれず、粘り気があるから墨汁かもしれない。あるいは二つを混ぜたものかも。
千花は幼子のように声を詰まらせ泣いていたが、溪蓀を見るや慌てて袖口で拭おうとした。溪蓀がとっさに掴んだ手首は、思った以上に細かった。
「汚れた袖で擦ったら目を傷つけてしまうわ」
「安嬪様、顔をお上げください」
馬女官が手拭いでぬぐうと、千花は鼻をすすり、蚊の鳴くような声をだした。
「……お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません、……恵嬪様。女官様も」
ショックが強すぎたせいであろうか、女官にまで敬称をつけている。
「とにかく湯を沸かして、千花を丸洗いしないといけないわ」
「英明宮の宮女や、手の空いている女官を連れて参ります」
「頼むわね」
日頃、所作にうるさいはずの女官がパタパタと駆けていく。溪蓀はその場に中腰になると、相手と視線を合わせた。
「宮女たちはどこにいったの? わたしは一刻も早く釈明がほしいわ」
「ち、違います! これは、……これはわたしが勝手に転んで、拍子に硯が落ちてしまったんです」
しどろもどろの下手な言い訳に溪蓀の頭に血が上る。
「もう一度聞くけれど、宮女たちはどこへ行ったの?」
「……しゅ、宿舎の方かと……。でも、それはわたしがそうお願いしたからで……」
彼女が大きな溜息をつくと、千花はビクッと身をすくませた。
溪蓀なら相手を叱りつけるか、さもなければ人員を入れ替えさせておしまいだが、千花には難しい。天子様の寵愛を受けようとも、絹の嬬裙を身に着けようとも、中身は下っ端宮女のままなのだ。それをいいことに、彼女のもと同僚たちは怠慢に走り、あろうことか主人に狼藉をはたらいた。
「かばっても無駄よ。これは陛下の寵姫に対する無礼なのだから。だいたい、硯に溜めたぐらいの墨を被ったぐらいで全身真っ黒になるわけがないでしょう」
溪蓀は、三人の宮女には云うに及ばず千花にすら苛立ちを感じていた。しかし、一番許しがたいのはこの自分だ。気乗りしないという理由だけで永華宮に足を向けることを怠った。少なくとも初夜の翌朝に顔を出しておけば、宮女たちににらみをきかせられたであろうに。
『龍を産む娘ぞ。けっして、傷つけてはならぬ』
ふっと浮かんだ皇太后の言葉が重たくのしかかる。煤かぶりの妃が手を合わせて懇願してきた。
「彼女たちを責めないで下さい。わたしが、しっかりしていないのが悪いのです」
「いいえ、あなたは何も悪くないわ。一番悪いのは宮女たちで、二番目はわたしよ」
それには、千花が怪訝な顔をする。黒い汁が滴り落ちる様が哀れだった。
「恵嬪様がですか? そんなはずが……」
「千花を妃に推したのはわたしですもの。最後まで責任を果たさなくてはね」
溪蓀はぐっとこぶしを握った。
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一人で石畳を叩くように歩きながら、溪蓀はふと思い出した。
千花が宮女たちを迎えたときの喜びようを。もし、苛めにあっていることが賢宝に伝われば、彼女たちはきつい罰を受ける。千花はそんな目に遭わせたくなかったのだ。だから、それを隠そうとし自分一人が我慢する道を選んだ。
千花を昼日中はほかりっぱなし、ようやく夕方になったら湯浴みをさせ、髪を整え、皇帝の寝所に送り出す宮女たち。知らずにだらだらこの五日間を過ごしていた自分が、恨めしい。
内廷の一角に宮女用の宿舎が建っている。井戸の周りでは非番の宮女たちが恋の歌を口ずさみながら、洗濯をしていた。淡色のシャツや裙子が並んで風にたなびくなか、ひとりの宮女がこちらに気が付き、走り寄ってくる。
「恵嬪様!? どうなさいましたか?」
「宿舎に入らせてもらうわよ。悪いけれど、勇安嬪様の宮女たちの部屋に案内してくれる?」
呆気にとられる宮女が手拭いを握ったまま、カクカクとうなずいた。宿舎は細かく鼠色の壁で仕切られており、英明宮を見慣れた溪蓀には通路も部屋もとにかく暗く狭く感じられる。
宮女の歩みが止まったところで、部屋のなかから少女たちの笑い声が聞こえてきた。
「さっきのみた? 千花の呆気にとられた顔!」
「みたみた、まるでカラスみたい! 絹の嬬裙より、あっちの方がお似合いよ。ねー。それより天子様から頂いたこのお菓子、なんていうの? すごく美味しいよ」
「気に入ったんなら、あの子に言えば? 両手に抱えて持ってくるわよ」
――千花に煤水をかけておいて、よくも笑っていられること。どう罰してやろうかしら?
きりっと唇を噛む側室の静かな怒りに怖じ気付いたのか、案内の宮女が手拭いを両手で握りしめる。溪蓀は口の前で人差し指を立て、声をひそめた。
「ありがとう。後は自分でやるから、洗濯の続きに戻ってちょうだい」
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