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第二章
23.勇安嬪(1)
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夜伽の翌朝、千花に与えられたのは安嬪の位だった。安嬪は溪蓀の恵嬪とほぼ同等の側室である。三人の宮女が専属につき、皇帝自ら初めて乞うた妃とあってなかなかの待遇だ。初夜以来、賢宝は毎晩のように千花をふしどに呼びよせ、朝まで共に過ごすとか。早くもお世継ぎを期待する声が、後宮の内外で上がっている。
一方、溪蓀には新たに女官一名と宮女二名がつけられた。女官は妃の秘書役や調整係をになう。以前が宮女一人であったことを考えるとかなりの優遇だ。千花の入内に貢献した褒美かと思いきや、皇太后は彼女を呼びだしこう告げた。
『後宮には魑魅魍魎がうずまいておる。これからの安嬪の行く末が心配でならぬ。だが、わらわが直接擁護するわけにはいかぬゆえ、女官とお前二人で守るのじゃ。あれは龍を産む娘ぞ。けっして、傷をつけてはならぬ』
※※※※※
英明宮では、この半月庭を色づかせたアヤメの花もついに落ち、早くも夏を呼び込むように草木の緑が深みを帯びてきた。悪戯好きな薫風が、薄物の被帛を揺らしにくるようで、ついほほえましくなる。
溪蓀は嬬の交領に格子模様の刺繍を施しながら、首を傾げた。
「千花の入内でバタバタが続いたせいかしら。ここのところ、やけに毎日が単調に感じられるわ」
三十代半ばの馬鶯菜女官が針を動かす手を止め、眉を八の字にする。白い巾着に刺繍されたのは勇ましい虎の模様で、夫の忘れ形見の愛息に贈るものだと、溪蓀は前に聞いたことがある。女官は読み書き算盤が最低限の条件にあげられる分、年齢層が高く未亡人や子育てを終えた女性も珍しくなかった。
「恵嬪様、後宮では何もないときの方が珍しいのですから、あえて災厄を呼ぶような言葉はお控え下さい」
「そうなの? 入内してから四年の間、わたしに災厄らしい災厄が起きた記憶はないわよ? 正室様方は良く分からないけれど、側室同士は意外に仲がいいんだから」
「それは陛下が平等に、三人のご正室様と七人のご側室様のところへお渡りになっていたからでございますよ。実に見事な采配でございました」
馬女官の言う通り、後宮には皇后、皇貴妃、貴妃の三名の正室、九嬪と呼ばれる文字通り九人の側室がいる。本来なら、その下に才人・婕妤・美人・昭容・選侍・淑女とこれまた側室が続くわけだが、今のところ増員の予定はなかった。そうでなくとも、賢宝は十六歳ながらにして、妻が十二人いるのだ。
ところで、馬女官は七人の側室と言ったが、それではもとより空席であった安嬪はさておき、恵嬪の溪蓀もそこに含まれていない計算になる。自分は昼枠だから、そもそも妃の数には入っていないのだろうか。そんな主人の今更ながらの疑惑をよそに、馬女官は思案気に顔を曇らせた。
「最近の陛下は日を置かず、安嬪様を寝所に呼ばれて。大変喜ばしいことですが、適度に他の妃様にも関心を払っていただかないと、後宮内の勢力図がややこしいことになってしまいます。皇太后さまは何より安嬪様への風当たりを心配していらっしゃいます」
賢宝は千花に夢中だが、執務はきっちりとこなしている。むしろ、千花と少しでも夜を長く過ごすため、昼間は鬼気迫るほどの集中力を発揮しているとか。溪蓀に愚痴をこぼすこともなくなり、今の賢宝から気が済むまで寝てみたい、一日だらだら過ごしたい、その類の言動は逆さに振っても出てこないだろう。
だというのに、千花への風当たりを和らげるために、早くも他の妃を抱けというのか。初夜が明けてまだ五日目。二人が蜜月を謳歌することもままならない状況に、憤りを感じる溪蓀であった。
一方、溪蓀には新たに女官一名と宮女二名がつけられた。女官は妃の秘書役や調整係をになう。以前が宮女一人であったことを考えるとかなりの優遇だ。千花の入内に貢献した褒美かと思いきや、皇太后は彼女を呼びだしこう告げた。
『後宮には魑魅魍魎がうずまいておる。これからの安嬪の行く末が心配でならぬ。だが、わらわが直接擁護するわけにはいかぬゆえ、女官とお前二人で守るのじゃ。あれは龍を産む娘ぞ。けっして、傷をつけてはならぬ』
※※※※※
英明宮では、この半月庭を色づかせたアヤメの花もついに落ち、早くも夏を呼び込むように草木の緑が深みを帯びてきた。悪戯好きな薫風が、薄物の被帛を揺らしにくるようで、ついほほえましくなる。
溪蓀は嬬の交領に格子模様の刺繍を施しながら、首を傾げた。
「千花の入内でバタバタが続いたせいかしら。ここのところ、やけに毎日が単調に感じられるわ」
三十代半ばの馬鶯菜女官が針を動かす手を止め、眉を八の字にする。白い巾着に刺繍されたのは勇ましい虎の模様で、夫の忘れ形見の愛息に贈るものだと、溪蓀は前に聞いたことがある。女官は読み書き算盤が最低限の条件にあげられる分、年齢層が高く未亡人や子育てを終えた女性も珍しくなかった。
「恵嬪様、後宮では何もないときの方が珍しいのですから、あえて災厄を呼ぶような言葉はお控え下さい」
「そうなの? 入内してから四年の間、わたしに災厄らしい災厄が起きた記憶はないわよ? 正室様方は良く分からないけれど、側室同士は意外に仲がいいんだから」
「それは陛下が平等に、三人のご正室様と七人のご側室様のところへお渡りになっていたからでございますよ。実に見事な采配でございました」
馬女官の言う通り、後宮には皇后、皇貴妃、貴妃の三名の正室、九嬪と呼ばれる文字通り九人の側室がいる。本来なら、その下に才人・婕妤・美人・昭容・選侍・淑女とこれまた側室が続くわけだが、今のところ増員の予定はなかった。そうでなくとも、賢宝は十六歳ながらにして、妻が十二人いるのだ。
ところで、馬女官は七人の側室と言ったが、それではもとより空席であった安嬪はさておき、恵嬪の溪蓀もそこに含まれていない計算になる。自分は昼枠だから、そもそも妃の数には入っていないのだろうか。そんな主人の今更ながらの疑惑をよそに、馬女官は思案気に顔を曇らせた。
「最近の陛下は日を置かず、安嬪様を寝所に呼ばれて。大変喜ばしいことですが、適度に他の妃様にも関心を払っていただかないと、後宮内の勢力図がややこしいことになってしまいます。皇太后さまは何より安嬪様への風当たりを心配していらっしゃいます」
賢宝は千花に夢中だが、執務はきっちりとこなしている。むしろ、千花と少しでも夜を長く過ごすため、昼間は鬼気迫るほどの集中力を発揮しているとか。溪蓀に愚痴をこぼすこともなくなり、今の賢宝から気が済むまで寝てみたい、一日だらだら過ごしたい、その類の言動は逆さに振っても出てこないだろう。
だというのに、千花への風当たりを和らげるために、早くも他の妃を抱けというのか。初夜が明けてまだ五日目。二人が蜜月を謳歌することもままならない状況に、憤りを感じる溪蓀であった。
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