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第二章

20.山クルミ(2)

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 そのとき、溪蓀シースンが慌てて椅子をたちあがった。

「あら、いけない。陛下も千花チェンファも花に近寄りすぎです。アヤメは毒のある花です。鑑賞にはいいですが、決して素手で触るものではありませんわ」
「なんと」

 身を乗り出したディン内侍の視線の先で、驚くべきことが起こった。千花チェンファがアヤメの花を賢宝シアンバオに見せようと手を伸ばしたのだ。賢宝シアンバオはその手を掴み、多分『触ってはならぬ』と言ったのだろうか、宮女は驚いて相手の顔を仰ぎ見た。賢宝シアンバオは柔らかな曲線を描く頬に指をはわせ、しばらく魅入られたようにかたまっていたが、身をかがめ宮女の唇を己のそれでおおったのだ。

「あ!」

――あっ。

 溪蓀シースンは口を開けたまま、まばたきした。お互いに今みたものが信じられなくて、ディン内侍と顔を合わせる。

「今」
「はい」

 二人が慌てて庭に視線を戻せば、千花チェンファが地面に座り込んで泣きだしたところだった。賢宝シアンバオがなだめようと必死に謝っている。肩を抱こうと手を伸ばしたが、宮女の泣き声がさらに激しくなったので、触れることをためらっていた。
 丁度そのとき、時刻を知らせる鐘が鳴った。皇帝は大層不本意な顔をしたが、宮女が隠れたと思しき庭の一角に話し掛けると、こちらに戻ってきた。ディン内侍の声が鋭くひびく。

「陛下」
「執務に戻るぞ」
「陛下」
「黙っておれ。千花チェンファへのとがめだても許さぬ。――恵嬪! 明日また来る」
「えっ? 明日!?」

 素っとん狂な声を上げた溪蓀シースンに、ディン内侍が眉根を寄せる。

ホワン恵嬪様」
「あっ、すみません!! ついっ……」

 つい昨日、妃たちがうっとうしいと愚痴をこぼしていたではないか。一目ぼれから口づけまでが早すぎる。賢宝シアンバオが憮然とした表情を浮かべた。

「その様な顔をするでない。余は千花チェンファにとりなしがしたいのだ」

 慌ただしく二人が帰ると、溪蓀シースンは裙子の裾を持ち上げて、部屋から死角になっている繁みに声をかけた。

千花チェンファ、大丈夫?」

 鼻をグスグスすすりながら、宮女が蚊の鳴くような声で応じる。その姿はがんぜなく、頼りなかった。

「恵嬪様……。へ、へいかは?」
「もう、宮をおでになられたわ。でてきても、大丈夫よ。その……、びっくりしたわね?」
「っさせんでしたぁない」

 ごめんなさい、と袖で涙をふく。溪蓀シースンは宮女に妃になる意思を確認したかったが、突然の出来事に混乱している相手に答えがだせるはずもないと思い直す。と、いうか賢宝シアンバオの手が早すぎるのだ。
 溪蓀シースンは、宮女の肩を抱いて立たせてやる。

「山クルミは好き?」
「……はい」
「たくさんいただいたのよ。千花チェンファも一緒に食べましょうよ」
「はい」

 二人は部屋にもどって、無言で山クルミを食べた。しばらくして、溪蓀シースンは宮女に話しかけた。

「落ち着いた?」
「ありが、とう、ござい、ます。恵嬪様」 

 あら? と溪蓀シースンは眼をみはる。まだ不自然でつたなくはあったが、千花チェンファは一生懸命都ことばを使おうとしているのだ。宮仕えを始めてから二年間、一度もことば遣いを変えることはなかったのに。さきほどの口づけが、彼女に何らかの心境変化をおよぼしたようだった。

――これはもしかして、うまくいきそう?

 溪蓀シースンは何やらうれしくなった。
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