あやめ祭り~再び逢うことが叶うなら~

柿崎まつる

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第一章

15.将弓の死の真相

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 浩海ハオハイが父親の金で溪蓀シースンの家の借金を返すのは、彼女にしてみれば恥ずかしいことだった。彼は家の金を貪ることばかり考えていたが、彼女は家族を食べさせることに必死だったのだ。年はこちらの方が上なのに、溪蓀シースンの方が断然大人だ。
 彼は地団駄を踏んで、子供のようにわめきたい気分だった。自分で金を稼いでないことでこんなしっぺ返しを食らうとは考えてもみなかったのだ。

――彼女は明日には宮殿の内廷に納められ、手の届かない人になってしまう。

 深夜、重たい銀塊を持って辿り着いた浩海は、屋敷の中が意外に明るいことに驚いた。門扉を開くと、灯りを持った執事が近寄ってくる。

「お帰りなさいませ、坊ちゃま。旦那様がお持ちです」
「ありがとう」

 浩海ハオハイは薄く苦笑いをした。この四合院を見上げるのももう少しだ。
 書斎に入ると、父親は書き物をしながら待っていた。ほのかな蝋燭の灯りに浮かび上がる、覇気のない薄い身体。左丞相として一世を風靡している筈なのに、とうに亡くなった浩海ハオハイの祖父を彷彿とさせる。浩海ハオハイが大人になるにつれ、父も同じように年老いたのだ。
 息子は黙って、鞄の中の馬蹄銀二つを取り出し執務机に置く。

「気が済んだか」

 短い言葉には、すべてを知る者だけが見せる静かな哀れみがあった。浩海ハオハイは黙って頷く。父親はこの結末を知っていたのに、息子に現実を知らしめるために馬蹄銀を渡した。
 彼は完敗したのである。将弓ジェンゴンの死から始めた抵抗は実を結ばず、この世の不条理に呆気なく打ちのめされ、何もしてこなかったを一気に払わされたのだ。好きな女が金と引き換えに他人に嫁ぐ姿を指をくわえて見ていなければない。将弓ジェンゴンの死以来、胸が壊れるような悔しさを覚えたが、どこへもぶつける処がなかった。
 だから彼は自分の力で、一から始めなくてはならないのだ。

「父上。あの話、お引き受け致します」
「……そうか」

 父親は黙って書状を差し出した。

「これは」
「お前へのはなむけだ。読んでみろ」

 開くと、見覚えのある筆跡が並んでいた。まるで鯉が水面に飛び跳ねるような、闊達な字だ。さらっとした内容はこうだ。

『地方へ異動になる前に、一度そちらに立ち寄ろうと思っている。いつか、自分の任地で家族四人一緒に暮らそう。これからは、自分を支援してくれた李左丞相様に恩返しをしていきたい。
 浩海ハオハイとはささいな行き違いで喧嘩してしまったが、第一の知己ともだから、誤解があったことを許してくれるだろう』

 田舎の両親宛の、実直な思いが綴られた手紙だ。

「……将弓ジェンゴンが書いたものですか?」
「そうだ。ヨウ将弓ジェンゴンの死は事故だ」

 必死に自殺だと思い込んでいたが、改めて言われてみればそのほうがしっくりくる。将弓ジェンゴンは陽気な男だ。彼の精神がどこまでも健全なことはよくわかっていたではないか。酔いの冷めやらぬ夜、一人夜道を歩き足を滑らせて川に落ちてしまったのだ。不幸な事故だが、自殺ではなかった。
 浩海ハオハイが眉根を寄せて、父親を見返す。

「どうして、今まで黙っていたのですか?」

 これが昨日今日手に入れたものではないのは明らかだ。父親は抜かりがない。証拠があるならその場で掴んでいたはずだ。それを一年もたってから、自分に明かすなど。
 歳老いた父の顔は静かで、仙人のように達観していた。

「お前の優しさは利点であるが、事を成すには脆すぎる。まつりごとの判断は、常に人の生き死にまで影響をあたえるものだ。激しい権力闘争の中、自分のせいで知己ともが命を絶つことがあるやもしれない。それに負けぬためには、強い動機と信念がいる。将弓ジェンゴンの突然の死はお前にとって初めての試練だ。人は私を甘いと笑うかもしれない。だが、お前が自らの力で障害を乗り越えられる力をつけさせたかった」
「父上」

 父親は、体たらくになった自分を甘やかしていたわけではない。将弓ジェンゴンの死から自力で立ち直る猶予をくれたのだ。敢えて誤解を解かず試練を課した。息子がこの先の人生を歩みやすくするために。
 自分はこんなにも愛されていたのだ。

「ありがとうございます。あなたにして頂いたことは生涯忘れません」

 彼は真摯に頭を下げる。
 その日を境に、リー浩海ハオハイ北都ベイドゥから姿を消したのだ。
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